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誓約の銀貨――無効にされた結婚を取り戻すため、ふたりは旅に出た

作者: 水主町あき
掲載日:2026/04/05

 ――ねえ、よく聞いてちょうだいね。私がまだちゃんと話せるうちに。

 あなたには、いつか話さなきゃと思ってたの。私とあの人のこと。


 いいえ、そんなたいそうな話じゃないわ。

 でもね、あなたがもう少し大きくなったら、きっと知っておいたほうがいいことだから。


 ***


 トマスに初めて会ったのは、彼がうちの店に買い物に来たときだった。


「この青い布をください。妹の晴れ着に使いたくて」


 もじゃもじゃの金髪で、肩幅が広くて、手はごつごつしてた。

 でもね、目だけは静かだったの。深い、緑色の目。

 私も周りもみんな茶色の髪に茶色の目ばかりだったから、珍しくて一目で覚えたけど。


 妹想いなんだな、って――最初に思ったのは、それだけよ。


 私の父さんは、ウィットルビーで服地屋をやっていたの。

 母さんが前の年に急に亡くなって、それからは父さんと二人きり。

 退屈してたのよ、正直に言うとね。ウィットルビーなんて、何もない田舎の村だったから。


 次の週にも彼は来たわ。今度は緑の糸を買いに。


「僕はトマス・ブルックといいます。あなたは?」


「私はエレン・ドレイパーよ。見ての通り、服地屋の娘」


 その次の週にはね、もう何も買わなかった。ただ私のところへ来て、こう言ったの。


「布を見るふりをしていましたが、本当はあなたと話したかっただけです」


 そう言われて、私は返す言葉がなかったわ。


 ……笑わないでちょうだい。あの人はね、昔はそういうことを堂々と言える人だったのよ。


 ***


 祝祭日の夜にね、窓の外から声がしたの。


「エレンさん。少し話せますか」


 トマスだった。月明かりの下に立って、じっと待っていた。


 昔はね、「夜の求愛」っていう慣習があったのよ。男が女の家の外で一晩を明かして、誠実さを見せる。

 家の中には父親がいて、ちゃんとわかっていて、黙って見てる。


 娘が心を開けば、窓を開ける。そうでなければ、男は夜明けに黙って帰るだけ。


 ……私? もちろん開けたわよ。少しだけね。


「寒くない?」って聞いたら、「あなたの声が聞けるなら平気です」だなんて言うのよ。


 空が白くなるまで話し続けたわ。彼の故郷のこと、両親を亡くして妹のメアリーと二人で流れてきたこと、この村の羊毛が気に入っていること。


 他愛もない話ばかりだったのにね。胸が温かくなったの。


 三度目の夜よ。トマスが銀貨を一枚、差し出した。


「これを……割りましょう」


 6ペンス銀貨。鍛冶屋に頼めばきれいに二つにできる。


「あなたと僕で半分ずつ。誓約の証です。受け取ってくれるなら、正式にお父さんへ申し込みます」


 私ね、両手で受け取ったの。

 冷たくて小さいのに、不思議と重かった。――今でも覚えてるわ、あの重さ。


 ***


 当時ね、この国には結婚の仕方がいくつかあったの。


 ひとつは「教会法」。教会が定めた正式なやり方で、教会での婚姻予告と、牧師の立ち会いがいる。

 費用も10シリング――庶民のひと月分の稼ぎよ。そう簡単には出せないわ。


 もうひとつは「古き誓約の法」。証人の前で手を取りあって、誓いの言葉を交わして、誓約の品を分かちあう。それで夫婦と認められるの。

 教会はこれを「秘密婚」と呼んで嫌っていたけれど、私たちの村では誰もがそうしていた。


 だから私たちも、そうしたのよ。


 鍛冶屋のジョンの作業場に集まった。父さんと、トマスの妹メアリーと、ジョンと、幼なじみのスザンナ。全部でたった六人。

 教会の立派な祭壇の前なんかじゃない。薄暗くて、煤けた作業場。

 でもね、おめかしはしてたの。いつもより少しだけ上等な服を引っぱり出してきてね。


 トマスは茶色のジャケットに白い麻のシャツ、それに平たい帽子。

 私は新品の(インディゴ)染めのウールのドレス。中古で手に入れた灰色の上着に小さなレースを縫いつけて、青いスカーフを巻いた。

 メアリーが、お母様の形見の銀のイヤリングを貸してくれた。

 それから、靴の中に6ペンス銀貨をひとつ。――これは誓約の銀貨とは別よ。花嫁の幸運のおまじない。


 メアリーとスザンナは花束も用意してくれたの。

 白いデイジーに、庭から摘んできたローズマリーとセージ。それをリボンで束ねたもの。

 私はそれを両手で持って、トマスは胸にデイジーを一輪飾った。

 余った花を、スザンナが私の頭に挿してくれた。

 豪華じゃないわ。でもね、あのときの私たちは、素敵だったのよ。


 トマスが私の右手を取った。

 その手は少しだけ震えていた。


「トマスはエレンを妻とし、幸せなときも辛いときも変わらず支え続けることを誓う。死ぬまで離れないと、約束する」


 ――その言葉を聞いた瞬間ね、胸の奥でパチッと音がしたの。薪がはぜるみたいな、小さな音。

 ああ、私、結婚したんだって。


 ジョンに誓約の銀貨を渡して割ってもらって、トマスがその半分を私に差し出した。私はそれを握り返して、こう言ったの。


「エレンはトマスの妻となり、死ぬまで他の夫を持たないと誓います」


 口づけを交わしたら、みんなが拍手してくれた。

 メアリーが歌ってくれたの。

 トマスと同じ金髪に緑の目で、妖精みたいでね。

 澄んだ、綺麗な声だったわ。


 それが「手結びの儀式(ハンドファスティング)」。

 教会も牧師もいらない。証人の前での誓いと、誓約の品の交換。それだけで、私たちは夫婦になったの。


 賑やかで、幸せな毎日だったわ。

 ――ひと月後に、あの人が来るまではね。


 ***


 当時ね、教区の長老にエベネゼルという人がいたの。七十近い白髪の老人で、教会の教えを何より重んじる人だった。


「エレン・ドレイパー。お前がトマス・ブルックと不正な関係を持ったとの報告がある」


 私、最初は何を言われているのかわからなかった。


「教会法を知らんのか。婚姻予告を行い、牧師の前で誓わねば、正式な婚姻とは認められん」


「でも証人もいます。古き誓約の法に――」


「古き法は今年、王国法の下で無効とされた」


 そう言われたとき、体の底から冷えていくような感じがしたわ。

 信じていたことが全部、足元から崩れていくようで。


 私たちが結婚する、前の月に決まった法律だったの。

 それまではよかったのに。急に、無効だなんて。

 田舎の村ではね、新しい法で自分たちの暮らしまで変わるなんて、ほとんどの人がわかっていなかった。


「よいか、エレン。わしは意地悪で言っておるんじゃない。口約束だけの夫婦がどうなるか。男が出ていけば、それきりだ」


 トマスはそんな人じゃない。そう言っても、聞いてはもらえなかった。


「教会の決まりごとは、窮屈に見えるかもしれん。だが、あれは柵なんじゃ。柵がなければ、羊だって崖から落ちてしまうんだぞ」


 よそから来た人間が、信頼を得るために結婚しようとしてるんじゃないか――そんなことまで言われたわ。


 でもね、それよりもっと大変なことがあったの。

 ……私は気づいていた。お腹に、新しい命がいるかもしれないって。


 その夜、トマスに全部話した。声が震えたわ。


「教会で挙式しよう」って、すぐに言ってくれた。


 でも、それができなかったの。


 トマスはこの村に昨年から暮らしていたけれど、教区の台帳には名前がなかった。

 よその教区から来た者が正式な住人として認められるには、前の教区から定住証明書を出してもらわなければならない。証明書がなければ、婚姻予告すら出せないの。

 よそ者が住みつけば、いずれその子供が教区の負担になるかもしれない――役人たちの頭にあるのは、そんなことばかり。

 二人の幸せなんて、どうでもよかったのね。


「前の教区から証明書を出してもらえば済むわ」


 そう言ったら、トマスはすぐには答えなかった。

 しばらく黙って、床を見ていたの。

 それからやっと、絞り出すみたいに言ったわ。


「……それは、無理なんだ」


 その声を聞いたとき、わかったの。あの人が私にもまだ話していない、辛いことがあるんだって。


 彼のお父様は貴族だった。でも、お母様とは正式には結婚していなかった。――つまり、そういうことよ。

 お父様が亡くなって、すぐにお母様も後を追うように逝ってしまった。


 そうしたら不審な男たちが家の周りをうろつくようになって。

 お父様には正式な奥様がいたの。その方からメアリーに縁談があると連絡がきたそうなのだけど、それが何十も歳の離れた貴族の後妻という話で。

 それで、トマスはメアリーを連れてこの村まで逃げてきたのだそうよ。

 前の教区に連絡を取れば、居場所が知れてしまう。だから証明書は取れない。

 ……なんて話かしら。


「それでも私たちは結婚してる」


「ああ。間違いない。本物だ」


「法律が何を言おうと、私の気持ちではもう夫婦よ」


 トマスが私の手を強く握った。


「必ず方法を見つける」


 ***


 トマスは方法を探したけれど、なかなかうまく行かなかった。


 そうこうしているうちに、またひと月経ってしまったわ。

 その頃にはね、お腹に子どもがいることは、もう私には分かっていたの。

 毎日、日が過ぎることが恐ろしかったわ。


 私たちが何もしないように見えたのかしらね。ある日、エベネゼルが告発すると言い出したの。

 教会の公開裁判に引き出すって。白い罪人服を着せられて、会衆の前に立たされる。

 父さんみたいな小さな店の商人にとっては、名誉が地に落ちるも同然だった。


 そんなとき、トマスが鍛冶屋のジョンから、ある方法を教えてもらった。

 ジョンも私たちのために、いろいろと調べてくれていたのよ。


「境界の鍛冶場を知ってるか」


 王国と自由都市の境界にある鍛冶屋。


「あそこは自由都市の法が効く土地だ。向こうで夫婦になれば証書が出る。長老でも、それを無いことにはできないと思う」


「遠いな……馬で三日はかかる」


 トマスは、お腹に赤ちゃんがいる私のことを心配しているみたいだった。


「それでも行くしかないだろ」とジョンは返した。


「行こう」と私は言ったの。お腹の子が誰の目にも明らかになる前に。


 初夏なのに肌寒い朝に出発した。

 父さんが路銀を用意してくれた。

 ジョンが馬蹄(ホースシュー)のチャームを、スザンナは乾燥ハーブを詰めた布袋のお守りを、メアリーはあの銀のイヤリングを持たせてくれた。

 道中ずっと、私はお守りと銀貨の片割れを握っていたわ。


「どうして教会が必要なんだろう。手を握って、言葉を交わして誓った。それだけで十分じゃない?」


「十分だよ。俺には十分だ」


 トマスはまっすぐ前を見ながら、こう言った。


「でも、子供のためには十分じゃない……。正式な子として認められるには、世間が認める形が必要なんだ」


 その頃の教区ではね、結婚していない男女のあいだに生まれた子は、台帳に「不正出産」と記されていたの。

 そう記された子は、結婚が難しくなるかもしれない。まともな仕事にもつけないかもしれない。


 私たちのためじゃなく、まだ見ぬ命のためだった。


 実はね、その頃つわりが始まっていたの。

 無理をして旅を続けたからかしら、途中の宿で私は起き上がれなくなってしまった。

 トマスは必死で医者を呼んだり、看病してくれたりしたけれど、予定より一週間も余分にかかって、お金が足りなくなったの。


 そうしたら、トマスはあの銀のイヤリングを売ってお金を作った。

 お母様の形見なのに。メアリーから預かったものなのに。私のせいで、ごめんなさい。

 そう言ったら、トマスは少し黙ってから、掌の中でイヤリングを転がすようなしぐさをした。


「……ほかに売れるものがなかった」


 静かな言い方だったから、私はそれ以上何も言えなかった。


「メアリーも分かってる。何かあったときのために持たせるって言ったんだ」


 胸がつまった。

 自分の大事なものを、まだ見ぬ子へ差し出してくれたのね。

 ……メアリーの気持ちを思って涙が出そうになったけど、トマスの顔を見てこらえたわ。

 あの人だって、形見を手放すのは辛かったはずだもの。


 境界の鍛冶場は小さくて薄暗かった。


 でもね、そこには私たちと同じような事情を抱えた人たちが何組もいたの。

 同じように追い詰められて、同じように遠い道をやってきた人たち。


 鍛冶屋の主人は白髪まじりの大男で、金床のそばに立って私たちを迎えてくれた。

 金床には古い傷が幾筋も残っていて、黒く鈍く光っていた。


 牧師でも神官でもない。ただの鍛冶屋よ。でも、たくさんの夫婦をあの金床の前で結んできた人だった。

 村の人たちは彼のことを金床の司祭アンヴィル・プリーストと呼んでいたわ。


 彼は私たちの手を重ねて、言った。


「死して汝らが別るるまで」


 あの結婚式のときと、同じ意味の言葉だった。


 私もトマスも泣いたわ。

 ……びっくりした? あの人が泣いたのを見たのは、後にも先にもあの一度きりよ。


 式が終わると、鍛冶屋の主人は台帳を開いて、私たちの名前と日付を書き込んだ。

 それから紙に同じことを書いて、署名して、証人の名を添えて――私たちに手渡してくれたの。


「これがお前たちの証明書だ。大事にしまっておけ」


 立派な教会の印章なんてない。インクの匂いがする、たった一枚の紙。

 でもね、あれほど頼もしいものはなかったわ。


 村に戻って、エベネゼルに証明書を見せた。

 あの老人は紙を見て、長いこと黙っていたわ。

 最後にぽつりとこう言ったの。


「……自由都市側で成立した婚姻を、こちらで認めないわけにはいかん。法は守らねばならぬ」


 ***


 それからしばらく経って、女の子が生まれた。

 父さんが産婆を呼んで、メアリーとスザンナが手伝って、トマスとジョンが外で祈っててくれた。


 名をアンとつけた。


 洗礼の日、教会の台帳にはこう記されたの。


「父トマス・ブルック、母エレン・ブルック、嫡出子アン」


 その文字を見たとき嬉しいより先に、力が抜けたわ。

 この子を、祝われる場所に立たせることができたから。


 あの日ね、私は銀貨の半分を取り出して、トマスももう半分を出したの。

 合わせると、元の一枚に戻った。


「やっと一つになったね」って言ったら、「最初から一つだったよ」ってトマスは言った。


 あの夜から、ずっと。


 ***


 後になって知ったのよ。

 あの頃、王国中にね、私たちと同じような人たちがたくさんいたことを。

 教会の法と庶民の古き法の狭間で揺れた人々。銀貨を割って、誓いを立てた人たち。

 歴史書は彼らのことを詳しくは書かないわ。でも確かにいたのよ。


 そしてどこかで、銀貨を二つに割って――互いの手に渡してた。


 ……さあ、おしまいよ。


 え? おばあちゃん、その銀貨はどうしたのかって?


 ふふ。あなたは、アンにそっくりね。


 ほら。今、あなたの手のひらに乗せたそれが、その半分よ。


 もう片方はね、おじいちゃんのお棺に入れたの。

 だから約束は守られたのよ。


 ……こっちの銀貨は、私のお棺に入れてほしいわ。


 いつかあなたが誰かと手を取り合うとき、思い出してちょうだいね。

 大事なのは、教会の立派さでも、証明書の文字でもないの。


 握った手の温かさと、交わした言葉の重さ。

 本当はそれが――一番大切なのよ。

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