誓約の銀貨――無効にされた結婚を取り戻すため、ふたりは旅に出た
――ねえ、よく聞いてちょうだいね。私がまだちゃんと話せるうちに。
あなたには、いつか話さなきゃと思ってたの。私とあの人のこと。
いいえ、そんなたいそうな話じゃないわ。
でもね、あなたがもう少し大きくなったら、きっと知っておいたほうがいいことだから。
***
トマスに初めて会ったのは、彼がうちの店に買い物に来たときだった。
「この青い布をください。妹の晴れ着に使いたくて」
もじゃもじゃの金髪で、肩幅が広くて、手はごつごつしてた。
でもね、目だけは静かだったの。深い、緑色の目。
私も周りもみんな茶色の髪に茶色の目ばかりだったから、珍しくて一目で覚えたけど。
妹想いなんだな、って――最初に思ったのは、それだけよ。
私の父さんは、ウィットルビーで服地屋をやっていたの。
母さんが前の年に急に亡くなって、それからは父さんと二人きり。
退屈してたのよ、正直に言うとね。ウィットルビーなんて、何もない田舎の村だったから。
次の週にも彼は来たわ。今度は緑の糸を買いに。
「僕はトマス・ブルックといいます。あなたは?」
「私はエレン・ドレイパーよ。見ての通り、服地屋の娘」
その次の週にはね、もう何も買わなかった。ただ私のところへ来て、こう言ったの。
「布を見るふりをしていましたが、本当はあなたと話したかっただけです」
そう言われて、私は返す言葉がなかったわ。
……笑わないでちょうだい。あの人はね、昔はそういうことを堂々と言える人だったのよ。
***
祝祭日の夜にね、窓の外から声がしたの。
「エレンさん。少し話せますか」
トマスだった。月明かりの下に立って、じっと待っていた。
昔はね、「夜の求愛」っていう慣習があったのよ。男が女の家の外で一晩を明かして、誠実さを見せる。
家の中には父親がいて、ちゃんとわかっていて、黙って見てる。
娘が心を開けば、窓を開ける。そうでなければ、男は夜明けに黙って帰るだけ。
……私? もちろん開けたわよ。少しだけね。
「寒くない?」って聞いたら、「あなたの声が聞けるなら平気です」だなんて言うのよ。
空が白くなるまで話し続けたわ。彼の故郷のこと、両親を亡くして妹のメアリーと二人で流れてきたこと、この村の羊毛が気に入っていること。
他愛もない話ばかりだったのにね。胸が温かくなったの。
三度目の夜よ。トマスが銀貨を一枚、差し出した。
「これを……割りましょう」
6ペンス銀貨。鍛冶屋に頼めばきれいに二つにできる。
「あなたと僕で半分ずつ。誓約の証です。受け取ってくれるなら、正式にお父さんへ申し込みます」
私ね、両手で受け取ったの。
冷たくて小さいのに、不思議と重かった。――今でも覚えてるわ、あの重さ。
***
当時ね、この国には結婚の仕方がいくつかあったの。
ひとつは「教会法」。教会が定めた正式なやり方で、教会での婚姻予告と、牧師の立ち会いがいる。
費用も10シリング――庶民のひと月分の稼ぎよ。そう簡単には出せないわ。
もうひとつは「古き誓約の法」。証人の前で手を取りあって、誓いの言葉を交わして、誓約の品を分かちあう。それで夫婦と認められるの。
教会はこれを「秘密婚」と呼んで嫌っていたけれど、私たちの村では誰もがそうしていた。
だから私たちも、そうしたのよ。
鍛冶屋のジョンの作業場に集まった。父さんと、トマスの妹メアリーと、ジョンと、幼なじみのスザンナ。全部でたった六人。
教会の立派な祭壇の前なんかじゃない。薄暗くて、煤けた作業場。
でもね、おめかしはしてたの。いつもより少しだけ上等な服を引っぱり出してきてね。
トマスは茶色のジャケットに白い麻のシャツ、それに平たい帽子。
私は新品の藍染めのウールのドレス。中古で手に入れた灰色の上着に小さなレースを縫いつけて、青いスカーフを巻いた。
メアリーが、お母様の形見の銀のイヤリングを貸してくれた。
それから、靴の中に6ペンス銀貨をひとつ。――これは誓約の銀貨とは別よ。花嫁の幸運のおまじない。
メアリーとスザンナは花束も用意してくれたの。
白いデイジーに、庭から摘んできたローズマリーとセージ。それをリボンで束ねたもの。
私はそれを両手で持って、トマスは胸にデイジーを一輪飾った。
余った花を、スザンナが私の頭に挿してくれた。
豪華じゃないわ。でもね、あのときの私たちは、素敵だったのよ。
トマスが私の右手を取った。
その手は少しだけ震えていた。
「トマスはエレンを妻とし、幸せなときも辛いときも変わらず支え続けることを誓う。死ぬまで離れないと、約束する」
――その言葉を聞いた瞬間ね、胸の奥でパチッと音がしたの。薪がはぜるみたいな、小さな音。
ああ、私、結婚したんだって。
ジョンに誓約の銀貨を渡して割ってもらって、トマスがその半分を私に差し出した。私はそれを握り返して、こう言ったの。
「エレンはトマスの妻となり、死ぬまで他の夫を持たないと誓います」
口づけを交わしたら、みんなが拍手してくれた。
メアリーが歌ってくれたの。
トマスと同じ金髪に緑の目で、妖精みたいでね。
澄んだ、綺麗な声だったわ。
それが「手結びの儀式」。
教会も牧師もいらない。証人の前での誓いと、誓約の品の交換。それだけで、私たちは夫婦になったの。
賑やかで、幸せな毎日だったわ。
――ひと月後に、あの人が来るまではね。
***
当時ね、教区の長老にエベネゼルという人がいたの。七十近い白髪の老人で、教会の教えを何より重んじる人だった。
「エレン・ドレイパー。お前がトマス・ブルックと不正な関係を持ったとの報告がある」
私、最初は何を言われているのかわからなかった。
「教会法を知らんのか。婚姻予告を行い、牧師の前で誓わねば、正式な婚姻とは認められん」
「でも証人もいます。古き誓約の法に――」
「古き法は今年、王国法の下で無効とされた」
そう言われたとき、体の底から冷えていくような感じがしたわ。
信じていたことが全部、足元から崩れていくようで。
私たちが結婚する、前の月に決まった法律だったの。
それまではよかったのに。急に、無効だなんて。
田舎の村ではね、新しい法で自分たちの暮らしまで変わるなんて、ほとんどの人がわかっていなかった。
「よいか、エレン。わしは意地悪で言っておるんじゃない。口約束だけの夫婦がどうなるか。男が出ていけば、それきりだ」
トマスはそんな人じゃない。そう言っても、聞いてはもらえなかった。
「教会の決まりごとは、窮屈に見えるかもしれん。だが、あれは柵なんじゃ。柵がなければ、羊だって崖から落ちてしまうんだぞ」
よそから来た人間が、信頼を得るために結婚しようとしてるんじゃないか――そんなことまで言われたわ。
でもね、それよりもっと大変なことがあったの。
……私は気づいていた。お腹に、新しい命がいるかもしれないって。
その夜、トマスに全部話した。声が震えたわ。
「教会で挙式しよう」って、すぐに言ってくれた。
でも、それができなかったの。
トマスはこの村に昨年から暮らしていたけれど、教区の台帳には名前がなかった。
よその教区から来た者が正式な住人として認められるには、前の教区から定住証明書を出してもらわなければならない。証明書がなければ、婚姻予告すら出せないの。
よそ者が住みつけば、いずれその子供が教区の負担になるかもしれない――役人たちの頭にあるのは、そんなことばかり。
二人の幸せなんて、どうでもよかったのね。
「前の教区から証明書を出してもらえば済むわ」
そう言ったら、トマスはすぐには答えなかった。
しばらく黙って、床を見ていたの。
それからやっと、絞り出すみたいに言ったわ。
「……それは、無理なんだ」
その声を聞いたとき、わかったの。あの人が私にもまだ話していない、辛いことがあるんだって。
彼のお父様は貴族だった。でも、お母様とは正式には結婚していなかった。――つまり、そういうことよ。
お父様が亡くなって、すぐにお母様も後を追うように逝ってしまった。
そうしたら不審な男たちが家の周りをうろつくようになって。
お父様には正式な奥様がいたの。その方からメアリーに縁談があると連絡がきたそうなのだけど、それが何十も歳の離れた貴族の後妻という話で。
それで、トマスはメアリーを連れてこの村まで逃げてきたのだそうよ。
前の教区に連絡を取れば、居場所が知れてしまう。だから証明書は取れない。
……なんて話かしら。
「それでも私たちは結婚してる」
「ああ。間違いない。本物だ」
「法律が何を言おうと、私の気持ちではもう夫婦よ」
トマスが私の手を強く握った。
「必ず方法を見つける」
***
トマスは方法を探したけれど、なかなかうまく行かなかった。
そうこうしているうちに、またひと月経ってしまったわ。
その頃にはね、お腹に子どもがいることは、もう私には分かっていたの。
毎日、日が過ぎることが恐ろしかったわ。
私たちが何もしないように見えたのかしらね。ある日、エベネゼルが告発すると言い出したの。
教会の公開裁判に引き出すって。白い罪人服を着せられて、会衆の前に立たされる。
父さんみたいな小さな店の商人にとっては、名誉が地に落ちるも同然だった。
そんなとき、トマスが鍛冶屋のジョンから、ある方法を教えてもらった。
ジョンも私たちのために、いろいろと調べてくれていたのよ。
「境界の鍛冶場を知ってるか」
王国と自由都市の境界にある鍛冶屋。
「あそこは自由都市の法が効く土地だ。向こうで夫婦になれば証書が出る。長老でも、それを無いことにはできないと思う」
「遠いな……馬で三日はかかる」
トマスは、お腹に赤ちゃんがいる私のことを心配しているみたいだった。
「それでも行くしかないだろ」とジョンは返した。
「行こう」と私は言ったの。お腹の子が誰の目にも明らかになる前に。
初夏なのに肌寒い朝に出発した。
父さんが路銀を用意してくれた。
ジョンが馬蹄のチャームを、スザンナは乾燥ハーブを詰めた布袋のお守りを、メアリーはあの銀のイヤリングを持たせてくれた。
道中ずっと、私はお守りと銀貨の片割れを握っていたわ。
「どうして教会が必要なんだろう。手を握って、言葉を交わして誓った。それだけで十分じゃない?」
「十分だよ。俺には十分だ」
トマスはまっすぐ前を見ながら、こう言った。
「でも、子供のためには十分じゃない……。正式な子として認められるには、世間が認める形が必要なんだ」
その頃の教区ではね、結婚していない男女のあいだに生まれた子は、台帳に「不正出産」と記されていたの。
そう記された子は、結婚が難しくなるかもしれない。まともな仕事にもつけないかもしれない。
私たちのためじゃなく、まだ見ぬ命のためだった。
実はね、その頃つわりが始まっていたの。
無理をして旅を続けたからかしら、途中の宿で私は起き上がれなくなってしまった。
トマスは必死で医者を呼んだり、看病してくれたりしたけれど、予定より一週間も余分にかかって、お金が足りなくなったの。
そうしたら、トマスはあの銀のイヤリングを売ってお金を作った。
お母様の形見なのに。メアリーから預かったものなのに。私のせいで、ごめんなさい。
そう言ったら、トマスは少し黙ってから、掌の中でイヤリングを転がすようなしぐさをした。
「……ほかに売れるものがなかった」
静かな言い方だったから、私はそれ以上何も言えなかった。
「メアリーも分かってる。何かあったときのために持たせるって言ったんだ」
胸がつまった。
自分の大事なものを、まだ見ぬ子へ差し出してくれたのね。
……メアリーの気持ちを思って涙が出そうになったけど、トマスの顔を見てこらえたわ。
あの人だって、形見を手放すのは辛かったはずだもの。
境界の鍛冶場は小さくて薄暗かった。
でもね、そこには私たちと同じような事情を抱えた人たちが何組もいたの。
同じように追い詰められて、同じように遠い道をやってきた人たち。
鍛冶屋の主人は白髪まじりの大男で、金床のそばに立って私たちを迎えてくれた。
金床には古い傷が幾筋も残っていて、黒く鈍く光っていた。
牧師でも神官でもない。ただの鍛冶屋よ。でも、たくさんの夫婦をあの金床の前で結んできた人だった。
村の人たちは彼のことを金床の司祭と呼んでいたわ。
彼は私たちの手を重ねて、言った。
「死して汝らが別るるまで」
あの結婚式のときと、同じ意味の言葉だった。
私もトマスも泣いたわ。
……びっくりした? あの人が泣いたのを見たのは、後にも先にもあの一度きりよ。
式が終わると、鍛冶屋の主人は台帳を開いて、私たちの名前と日付を書き込んだ。
それから紙に同じことを書いて、署名して、証人の名を添えて――私たちに手渡してくれたの。
「これがお前たちの証明書だ。大事にしまっておけ」
立派な教会の印章なんてない。インクの匂いがする、たった一枚の紙。
でもね、あれほど頼もしいものはなかったわ。
村に戻って、エベネゼルに証明書を見せた。
あの老人は紙を見て、長いこと黙っていたわ。
最後にぽつりとこう言ったの。
「……自由都市側で成立した婚姻を、こちらで認めないわけにはいかん。法は守らねばならぬ」
***
それからしばらく経って、女の子が生まれた。
父さんが産婆を呼んで、メアリーとスザンナが手伝って、トマスとジョンが外で祈っててくれた。
名をアンとつけた。
洗礼の日、教会の台帳にはこう記されたの。
「父トマス・ブルック、母エレン・ブルック、嫡出子アン」
その文字を見たとき嬉しいより先に、力が抜けたわ。
この子を、祝われる場所に立たせることができたから。
あの日ね、私は銀貨の半分を取り出して、トマスももう半分を出したの。
合わせると、元の一枚に戻った。
「やっと一つになったね」って言ったら、「最初から一つだったよ」ってトマスは言った。
あの夜から、ずっと。
***
後になって知ったのよ。
あの頃、王国中にね、私たちと同じような人たちがたくさんいたことを。
教会の法と庶民の古き法の狭間で揺れた人々。銀貨を割って、誓いを立てた人たち。
歴史書は彼らのことを詳しくは書かないわ。でも確かにいたのよ。
そしてどこかで、銀貨を二つに割って――互いの手に渡してた。
……さあ、おしまいよ。
え? おばあちゃん、その銀貨はどうしたのかって?
ふふ。あなたは、アンにそっくりね。
ほら。今、あなたの手のひらに乗せたそれが、その半分よ。
もう片方はね、おじいちゃんのお棺に入れたの。
だから約束は守られたのよ。
……こっちの銀貨は、私のお棺に入れてほしいわ。
いつかあなたが誰かと手を取り合うとき、思い出してちょうだいね。
大事なのは、教会の立派さでも、証明書の文字でもないの。
握った手の温かさと、交わした言葉の重さ。
本当はそれが――一番大切なのよ。




