表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/12

9.ムーンシャイン


 空は輝き。大きな月。


 突然、眩しさに気付いたように、ジェラルドは目を細めた。

月の庭だ。夜露がきらきらしている。きれいなきれいな、光にあふれる。


 そっと手を放しても、彼はちゃんと、生きていた。


 それまで聞こえないでいたソナタが、また流れる。フレディの手は滞ることなく、目を覚ました後の第三楽章を紡ぎ出していた。


 『月光』。

 Mondeschein Sonate


 空を仰ぎ見るジェラルドを、私は見つめていた。この人の、深い影。どうして、そんな深淵に、この人が立っているのだろう。

 なぜ。


 瞬間。柔らかな風が走り抜けて、この空間すべてがぐらりと動いた。そして、私の手に触れたものがある。

 緑の葉。ジャスパー、ジェイド、ベリル、アイビーのグリーンたち。彼らが守る花は、麗しの蕾を見せていた。


「バラね。きれいなピンク色」


 淡いピンクに相応しい、微かな甘い香りがしていた。咲いていなくても、バラは匂うもの? バラはバラでありバラでありバラであり……。誰もが愛し、夢を見る花。その香りに包まれ生きてみたいと。


「ペルレドールだよ」

「名前もきれいね」

「君の横はセンティフォリア、その隣の白がブールドネージュ。向こうの黄色は、プリムラ」


 優しい音を奏でながら、ピアノの前の彼は次々とバラの名を唱えた。まるで命を与えられたかのように、それらは金の月光を蕾に反射させる。葉に揺れる露のひとつひとつが、まるで小さな星みたいに、光を受けて輝いていた。


 その中でひとつ、――自ら、光を放つものが。


「……咲いてる」


 幾重にも巻き込んだ花びら。純白の中に、かすかなプリムローズイエロー。

 ただひとつだけ。なぜひとつだけ? くっきりと咲いた、大輪の花。


「咲いているわ、フレディ。これ。この白いバラ……」


 咲くべき季節が近づいているのだから、咲いていてもおかしくはない。けれどなぜかうなずけない、なにか超えてしまったものが、この花にはあった。触れてみようと手を出し、……私はそれを引っ込めた。


「どうして……?」


 フレディは静かな顔を、ゆっくりとなにもない譜面台に戻す。なにも読み取れない、表情もない。あなた、答えを持って。


「月夜。金の滴のように注ぐ月の光。温かく柔らかく積もってゆく輝き。夢のような、それとも」


 テノールの声が朗々と、そんな詩を詠いだした。


「幻」


 最後は低いつぶやき。ちょっと待って。これは本当に詩なの?

 呪文みたいに聞こえた、私には。魔法の言葉だと感じた。誰かの心が強く染み込んだ、力を持つ言葉だと。


……「ジェラルド?」

「そう。本当は幻の薔薇だ」


「フレディ」


 答え……、を、やっぱり知っているように、ピアニストはそう言った。笑っている口元。気持ち良さそうに、踊るように手が動いて。フレディ、あなた、そんな、ピアノ、どうして。


 あ、れ?

 世界が急に真っ暗になって、私の考えていたことはどこかに飛んでいってしまった。私は目を閉じたわけではなくて、ちゃんとこの目はこのとおり開いていて、この通りって言っても、なにがこの通りなの。


「あぁ、そうだ。そうだったんだ」


 すぐ上からそんな声がして、やっとわかった。この黒い世界は、ジェラルド様の服の黒だ。ジェラルド様、黒いタキシード。


「ど、どうしたの?! ジェラルド、あなた。だいじょうぶ?」

「みっつ。君の言った通りだ。確かにここにはみっつある」


 君? だれ? 私じゃない。


「ねぇ、」

「僕は正気だ。大丈夫だよ、メアリーアン」


 温かく強い腕が、私から離れて行った。大きな手には、ちゃんと温もりがあった。私の名前を初めて真面目に呼んだ。

 その手をポケットに入れて、薔薇の間を縫って歩く、確かな足取り。彼の髪に、ぱらぱらと滴が滴り落ちる。木から降ってくる、バラの露だ。


「空の月。月の音楽。白い薔薇」


 きらきら。きらきら光る、水。

 輝く月。輝く月。うたうピアノと、白薔薇。

 滴が水晶の乱反射を起こしている。


「クリステル」


クリス――


「君の言った通りだ……」



 ぽーん……。

 余韻を響かせ、ピアノはうたうのをやめた。手は鍵盤に軽くのせたまま、フレディはやっと、ジェラルドを見ながら、


「薔薇の名は? ジェラルド」

「ライトナイト」


 ライトナイト。


「いい名前だ。光の夜にはより輝き、闇の夜にはただひとつの道標となる」

「今まで気付かないでいたけれど……。そうだったんだな。いつでも、ここで咲いて、待っていてくれたんだ。答え――。どうして見つけられずにいたんだろう……」


 そうして、ジェラルドはつぶやいた。名前を。

 クリステル、と。


 振り向くと、薔薇は優しくたおやかなその姿を、誇らしく輝かせ。とこしえに、その光はあなたを導き行くのだろう。

 永遠に。月が空にある限り。


「今のこの場所には、この曲の方があっているよ」


 魔法の手は、同じ巨匠のソナタを奏で始めた。

 私はピアノに頬を着け、そっと瞳を閉じてみる。溶けてきそうな月と、光を受けて輝く白い薔薇。甘く強い香りが、私に幻を見せた。


 白い濃い霧から、満開の薔薇が微かに見える庭。淡いピンク色のドレスを着た少女が、純白の薔薇を抱いて微笑む姿。

 緩やかに空気が動いて、優しい声で名前が呼ばれる。きっと彼女の愛する人。


『ジェラルド』


 目を開けても、魔法は消えない。ジェラルドは振り返り、薔薇の茂みにかがみこむ。白い大輪の花に、そっと口づけを。


 あなたがずっと求めていたものは、ここであなたを待っていた。

 あなたのための、道標。

 あなたのためだけの。


 輝き。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ