9.ムーンシャイン
空は輝き。大きな月。
突然、眩しさに気付いたように、ジェラルドは目を細めた。
月の庭だ。夜露がきらきらしている。きれいなきれいな、光にあふれる。
そっと手を放しても、彼はちゃんと、生きていた。
それまで聞こえないでいたソナタが、また流れる。フレディの手は滞ることなく、目を覚ました後の第三楽章を紡ぎ出していた。
『月光』。
Mondeschein Sonate
空を仰ぎ見るジェラルドを、私は見つめていた。この人の、深い影。どうして、そんな深淵に、この人が立っているのだろう。
なぜ。
瞬間。柔らかな風が走り抜けて、この空間すべてがぐらりと動いた。そして、私の手に触れたものがある。
緑の葉。ジャスパー、ジェイド、ベリル、アイビーのグリーンたち。彼らが守る花は、麗しの蕾を見せていた。
「バラね。きれいなピンク色」
淡いピンクに相応しい、微かな甘い香りがしていた。咲いていなくても、バラは匂うもの? バラはバラでありバラでありバラであり……。誰もが愛し、夢を見る花。その香りに包まれ生きてみたいと。
「ペルレドールだよ」
「名前もきれいね」
「君の横はセンティフォリア、その隣の白がブールドネージュ。向こうの黄色は、プリムラ」
優しい音を奏でながら、ピアノの前の彼は次々とバラの名を唱えた。まるで命を与えられたかのように、それらは金の月光を蕾に反射させる。葉に揺れる露のひとつひとつが、まるで小さな星みたいに、光を受けて輝いていた。
その中でひとつ、――自ら、光を放つものが。
「……咲いてる」
幾重にも巻き込んだ花びら。純白の中に、かすかなプリムローズイエロー。
ただひとつだけ。なぜひとつだけ? くっきりと咲いた、大輪の花。
「咲いているわ、フレディ。これ。この白いバラ……」
咲くべき季節が近づいているのだから、咲いていてもおかしくはない。けれどなぜかうなずけない、なにか超えてしまったものが、この花にはあった。触れてみようと手を出し、……私はそれを引っ込めた。
「どうして……?」
フレディは静かな顔を、ゆっくりとなにもない譜面台に戻す。なにも読み取れない、表情もない。あなた、答えを持って。
「月夜。金の滴のように注ぐ月の光。温かく柔らかく積もってゆく輝き。夢のような、それとも」
テノールの声が朗々と、そんな詩を詠いだした。
「幻」
最後は低いつぶやき。ちょっと待って。これは本当に詩なの?
呪文みたいに聞こえた、私には。魔法の言葉だと感じた。誰かの心が強く染み込んだ、力を持つ言葉だと。
……「ジェラルド?」
「そう。本当は幻の薔薇だ」
「フレディ」
答え……、を、やっぱり知っているように、ピアニストはそう言った。笑っている口元。気持ち良さそうに、踊るように手が動いて。フレディ、あなた、そんな、ピアノ、どうして。
あ、れ?
世界が急に真っ暗になって、私の考えていたことはどこかに飛んでいってしまった。私は目を閉じたわけではなくて、ちゃんとこの目はこのとおり開いていて、この通りって言っても、なにがこの通りなの。
「あぁ、そうだ。そうだったんだ」
すぐ上からそんな声がして、やっとわかった。この黒い世界は、ジェラルド様の服の黒だ。ジェラルド様、黒いタキシード。
「ど、どうしたの?! ジェラルド、あなた。だいじょうぶ?」
「みっつ。君の言った通りだ。確かにここにはみっつある」
君? だれ? 私じゃない。
「ねぇ、」
「僕は正気だ。大丈夫だよ、メアリーアン」
温かく強い腕が、私から離れて行った。大きな手には、ちゃんと温もりがあった。私の名前を初めて真面目に呼んだ。
その手をポケットに入れて、薔薇の間を縫って歩く、確かな足取り。彼の髪に、ぱらぱらと滴が滴り落ちる。木から降ってくる、バラの露だ。
「空の月。月の音楽。白い薔薇」
きらきら。きらきら光る、水。
輝く月。輝く月。うたうピアノと、白薔薇。
滴が水晶の乱反射を起こしている。
「クリステル」
クリス――
「君の言った通りだ……」
ぽーん……。
余韻を響かせ、ピアノはうたうのをやめた。手は鍵盤に軽くのせたまま、フレディはやっと、ジェラルドを見ながら、
「薔薇の名は? ジェラルド」
「ライトナイト」
ライトナイト。
「いい名前だ。光の夜にはより輝き、闇の夜にはただひとつの道標となる」
「今まで気付かないでいたけれど……。そうだったんだな。いつでも、ここで咲いて、待っていてくれたんだ。答え――。どうして見つけられずにいたんだろう……」
そうして、ジェラルドはつぶやいた。名前を。
クリステル、と。
振り向くと、薔薇は優しくたおやかなその姿を、誇らしく輝かせ。とこしえに、その光はあなたを導き行くのだろう。
永遠に。月が空にある限り。
「今のこの場所には、この曲の方があっているよ」
魔法の手は、同じ巨匠のソナタを奏で始めた。
私はピアノに頬を着け、そっと瞳を閉じてみる。溶けてきそうな月と、光を受けて輝く白い薔薇。甘く強い香りが、私に幻を見せた。
白い濃い霧から、満開の薔薇が微かに見える庭。淡いピンク色のドレスを着た少女が、純白の薔薇を抱いて微笑む姿。
緩やかに空気が動いて、優しい声で名前が呼ばれる。きっと彼女の愛する人。
『ジェラルド』
目を開けても、魔法は消えない。ジェラルドは振り返り、薔薇の茂みにかがみこむ。白い大輪の花に、そっと口づけを。
あなたがずっと求めていたものは、ここであなたを待っていた。
あなたのための、道標。
あなたのためだけの。
輝き。