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8.ピアニッシモ


 ―――『わかつた。ぼくがひいてあげるよ。』

 『ほんとう?』

 『じょうずにひけるかわからないけれど。ずいぶんながいあいだひいていないんだ。』

 『うぅん。あなた、とてもじょうずだわ。わたし、わかるもの。』

 『ぼくにたすけてあげられるのは、ざんねんながらそこまでだね。』―――


 誰? 誰と話しているの? フレディ、……ね?

 おんなのこ。淡い色のドレスが風に揺れている。なにかの光かしら? とても眩しくて、顔が全然見えない……。



 なにか聞こえる。


 そう『思いながら』、私はベッドの上で身を起こしていた。夢の中で思ったのか、その音のために目を覚ましたのか、どちらだかわからない。


 音。音楽。


 やわらかなピアノ。不思議な気がする。

 すぐ近くのような、かろうじて聞こえるくらいの遠くのような。夢なのか現実なのか。


 音に誘われるって、ある。

 なにもかも、ほかのことはどうでも良かった。闇も恐ろしくはなかった。

 足が、まるで行き先を知っているかのように、前へ前へ。

 この目覚めには。どんな意味が待っているのか……。この音楽は。


 月は微かに西。

 グランドピアノしかない、円形のサンルーム。昼間見た時とは印象が違う。


 浮かび上がるような、ピアノ。

 と、そこから生まれる、まるで空気に踊るような音たち。


 月の光だけの明かりなのに、それだけで充分だった。窓の外に、暖色に輝くフルムーンと、その前を流れてゆく細い雲が見える。夜のプリズム。不可思議な色に照らされた雲が。


「眠れない?」


 顔も上げずに、そう言って。手も、止めないまま。ベートーヴェンのソナタ。哀しみの『月光』だ。


「そこにいる?」


 うん。


 うなずいた私が、譜面台に映った。真っ黒に光るピアノの中で、フレディは笑ってくれた。いつだかわからないけれどいつもの、そういう微笑みを確かに見たことがある、

 苦笑のような、それとは意味が違うことはわかっている、ような。


 それでも。笑ってくれたので、安心した。


 白い鍵盤の上を滑る彼の手を見つめているうちに、空からは雲が流れ去り。

 あとは月だけ。冴え輝く、金銀の光。闇を包み支配する、細かな光の粒子。


 空気が張り詰めている。世界が黙り込んでいる。こんなに美しい夜の中で、どうして……。

――気が付くと、


 ピアノの向こう側に、ジェラルド様が立っていた。


『どうして』、の続きが、私にもわからなかった。ただ、どうしようもなく不安だった。綺麗な音と、綺麗な風景。ただただ不安で。

 光を知っている気がした。心の中で矛盾がある。初めて見る光景なのに、どこかで知っていたような。心が。


 わからないわ……。


 闇よりも深い黒に、映るジェラルド様の顔。正装のままのタイ。

 吸い込まれて行きそう。どこまでも、底へと。二度と後戻りはできないくらい、重たく冷たく、足首を掴まれ、のしかかられ、背後から見つめられる。


 いったい、どこへ。


 音楽は激しくなった。絶妙の緩急。そしてそれがふいに途切れたとき、


 ……私は白い光を見い出したのだ。

 真っ直ぐ、ジェラルド様へと、その、


――「庭」


 私の声が、言葉がわからないみたいに、彼は頭を軽く振っただけだった。

 どこにいるの。


「庭に出て。外、外よ。早く」


 どこにいるのよ。


「そと」


 あなた、いったい、どこに行っているの?!


「なにをしているの、聞こえないの?」


 ピアノ。大きなグランドピアノ。ぐるりと回って、私はやっと、彼の手に届いた。

 ぼんやりとした温かさ。だらりと力なく下がるだけの腕。


「ジェラルド」


 私は。

 私は、偽物のようなそれを強く握って、冷たいガラスの扉を開き、飛び立つような勢いで、その光の下へと躍り出た。


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