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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

異常者

作者: 舞茸

 放課後の部活、中庭でテニスのラリーをしている時、相手の子の打った球が大きくネットを超えて坂を転がっていきました。


「私、取ってくるね」


 私は相手の子が何か言う前に、笑顔でそう言って中庭のテニスコートのそばの坂を下っていきました。ボールは悪いことに、坂の下の体育館横に設置された男子トイレの中に転がっていきました。困りましたが、このためにわざわざ他の人を呼ぶのも悪い気がして、私はきょろきょろ周りを見渡して確認したあと、ボールを取りに中へ入りました。ささっと出れば大丈夫だと思ったのです。


 ボールは奥の掃除用具入れの前まで転がっていました。思いの外綺麗なトイレでしたし、私自身あまり細かいことを気にする方でもないので屈んでそれを拾ったのですが、そのとき入り口の方で足音がしました。


 正直にボールを取りに入った、と言えばよかったのですが、私は男の子とあまり話すほうではないので、そんな女子が男子トイレに入っているところいきなりを見られると、男の子の間で悪い評判でも立てられるのではないかと思って、焦りました。それで私は咄嗟に、すぐ前にあった掃除用具入れを開けて、その中に入って息を潜めました。入った瞬間に後悔しましたが、一度隠れてしまった以上、隠れ通すしかありません。自分の馬鹿さ加減が情けなくなり、心の中で自分に悪態をつきながら狭い掃除用具入れで縮こまりました。


 弱弱しい足音がして、誰かが入ってきたようでした。その人は私のすぐ横の個室に入りました。排泄音を聞かないといけないのかと思うと、それそのものの不快感よりも、隠れて男子の排泄音を聞くという行為の変態チックな響きに、戦々恐々としました。私はそんな変態ではありません。いますぐ出て行って弁解したい気がしましたが、誰もいないはずの掃除用具入れから物音がするのはまずいと思い、自分の運命を嘆きながら耐えました。


 すると、隣の個室から誰かのすすり泣く音が聞こえてきました。あまりにか弱い声なので、はじめ女の子が泣いているのかと思いましたが、男子トイレなのでそんなはずはありません。声は小さく震えながら、時折小声で何か聞き取れない言葉を発し、また静かにしゃくりあげ、何か辛いことに耐えるように吐息を漏らしました。


 それを聞いているうち私は、もう心が痛くてたまらなくなりました。誰かは知らないけど、周りの誰にも見せないように、このトイレに籠って、人知れずつらいことを我慢して泣いている男の子がいるのです。私は出て行ってその子を抱きしめてやりたいような気すらしました。何もそんなに我慢して泣くことはないのに。誰かに頼ればいい、でもこの人は不器用で誰にも頼れないのかもしれない、私なら話を聞いてあげられるのに。そう思うと私自身のことのように、胸が詰まってくるのです。


 そのうち泣き声は止み、個室の扉が開く音がしました。入り口近くの手洗い場で、水の流れる音がして、その人はトイレから出て行こうとしました。私は思わず掃除用具入れの扉を少しだけ開けて、その人の後姿を窺いました。一目見ただけでわかりました。その人は、私たちのクラスで理科を教えている、浅野先生でした。


 私は浅野先生のことが苦手でした。浅野先生は、若くて爽やかで整った顔立ちの、いつも完璧な笑顔を絶やさず、誰にでも分け隔てなく優しい、生徒たちに人気の先生です。男子にも慕われているようでしたが、特に女子からの人気はアイドルに対するそれのようで、女子たちの間でまず一日に一回は休み時間の会話が浅野先生についての話になり、その度に溜息に似た歓声が上がります。でも私は浅野先生の、行き届いた服装や髪型、また誰にでも優しい態度やその完璧な笑顔の中に、一種の胡散臭さを感じていました。もしかすると浅野先生は、こうして女子生徒にちやほやされる状況が嬉しくてたまらないのではないでしょうか。だとすればなんだか厭らしい。そう思って私はそれまで、浅野先生のことを冷めた目で見る傾向がありました。


 しかしあのすすり泣きを聞いた日から、私の考えは変わりました。浅野先生はきっと心に闇を抱えているのです。あの完璧な笑顔や身だしなみの裏に、誰にも言えない孤独や悲しみを抱えて、人を頼れずにああして一人、トイレですすり泣きをしているのです。そう思うと、浅野先生の誰にでも優しい振る舞いや、一部の隙もない笑顔なども違って見えてきます。そんなに無理しなくてもいいのに、そう完璧にふるまおうとしても疲れるだけなのに、きっと不器用な人なんだろう、本当は笑顔なんてうんざりしているはずなのに。浅野先生のいつもの授業風景を見ていても、そんな余計な考えが湧いてきます。気づけば私は黒板ではなく、浅野先生の整った横顔ばかりをじっと見つめているのでした。


 普段のように教室でA子やB子と話をしていても、やきもきします。A子は、今日浅野先生が休み時間に男子たちとサッカーをしていたけど、それがプロみたいにうまくてびっくりした、という話をうっとりしながらB子にします。B子はそれに興奮して小さな悲鳴をあげ小刻みに左右に揺れ動き、しまいにA子とB子で手を取り合ってきゃっきゃと楽しそうに上下しています。私はいつもならそんな二人を可愛らしく思って、ニコニコしながらその光景を見守っているのですが、この日の表情はどこか違っていたようです。


「カナ、どっか調子でも悪い?」


 A子が私に聞いてきたので、私は慌てて笑顔を見せて首を振りました。さっき二人が話している間、私は浅野先生のことを考えていたのです。浅野先生はどういう気持ちで男子たちとサッカーをしていたのでしょう。


 いつも浅野先生を観察していると、たまにびっくりするくらい疲れた顔を覗かせることがあります。そんな時はいつも一瞬で、またすぐにいつもの笑顔に戻るので、他の生徒たちは気づいていないようです。私はそんな浅野先生の顔を見るたび、急激に胸が痛くなります。私を頼ってほしいと思います。A子やB子は今日も、浅野先生のたわいもないエピソードを話しては、些細な事ばかりを褒めちぎって、二人で興奮しています。浅野先生の傷ついた心に目を向けているのは私だけです。私なら浅野先生の痛みを分かってあげられるのに。


 ですが、数か月すると、そんなA子たちの態度も変わってきました。ある時から不意に、休み時間の会話の中で、浅野先生の話題が上がることが少なくなったのです。私はそれを不満に思って、それとなく二人に浅野先生の話を振ってみたりするのですが、二人はだいたい興味無さそうにその話を打ち切ってしまいます。


「最近浅野先生の話しないんだね」


 そんなことが続いたある日、私はこらえきれずに、そう二人に切り出しました。すると二人は、スマホを弄っていた手を止め、不思議そうに顔を見合わせました。


「まあそうだね。ブーム過ぎたって感じかな」


「確かに」


 二人はそんなことを言って、また別の他愛のない話を始めます。所詮、二人の浅野先生に対する気持ちなんてそんなものだったのです。私は、満足したような、物足りないような、複雑な気持ちになりました。

 それからまた数日して、放課後の掃除の時間、私は、三階の理科室前の廊下を、一人で履き掃除していました。三階には掃除用具入れのロッカーが無いので、二階まで箒やら塵取りを取りに一々階段を上り下りしなければいけません。大した手間ではないと思うのですが、みんなそれを嫌って二階や一階を掃除したがるので、いつも私が三階を一人で担当していました。


 窓から西日が差し込んできていました。ですがそのうち西日は弱弱しくなっていき、遠くで陽が沈み始めているのを感じました。学校は丘の上にあるので、陽が沈むのがよく見えます。私はしばらく箒を動かす手を休めて、窓のそばに立ち、沈む夕日を見ていました。太陽が半ばまで沈むと妙に寂しくなります。全部沈んでしまうと、あたりは暗くなってしまいます。


 すると廊下の奥の理科室で、椅子の動く音がしました。私はその理科室の扉を見ました。それまで理科室からは、目だった物音もしなかったのです。中にいた人は、じっと物音もたてずに、いったい何をしていたのでしょうか。私はきっと、夕日を見ていたのだと思いました。そして半ばまで沈んだ太陽を見て寂しくなって、思わず目を背けたのです。そして夕日を見ていたその人が浅野先生であることを、私は疑いもしませんでした。浅野先生のことを思うと、私の胸はまた痛くなってきます。気づくと私は理科室に近づき、その扉を静かに開けていました。


 浅野先生は黒板に書かれた文字を消しているところでした。しかし黒板にはまだ文字がほとんど残っていますし、何よりさっきまで浅野先生が座っていたであろう椅子は、西日の差し込む窓の方を向いていました。私は先生と心が通じ合った気がして、泣きたいくらい嬉しくなりました。


「浅野先生。一組の村田です」


 私が声をかけると、浅野先生は振り向いて、いつもの完璧な笑顔を顔に浮かべながら優しい声で言いました。


「どうしたの? 理科室の掃除?」


 私はそんな浅野先生の態度を恨めしく思いました。そんな他の生徒にやるみたいな、誤魔化しの態度はやめて欲しい。私は他の生徒とは違います。時折見せる浅野先生の、疲れた顔に気づいています。私にだけは先生は素顔を見せてもいいのです。


「先生、私この前、先生が体育館横の男子トイレで泣いているの聞いてしまいました」


気づくと私は、感情に任せて、そんなことを口走り始めていました。


「その時から私、先生のことが心配でたまりません。先生はいつも完璧な態度を取り繕ってみんなに優しく接して、すごいと思います。でも、きっと疲れてるんですよね? 誰にも相談できない悩み事があるんですよね? 私は時々先生がとても寂しそうな顔をしているのに気づいてます。そんな顔を見るたびに、私は胸が痛くなるんです。だから先生、私を頼ってほしいです。私なら先生の気持ち分かってあげられると思います。先生の上辺だけを見ている人ばかりじゃないってことを知ってほしいんです」


 一気に思いの丈をぶちまけると、なぜか涙が出て来そうになりました。それをこらえて浅野先生の方を見ると、先生はやはり笑顔のまま私を見つめています。ですが、その目はどこか遠くを見るようで、疲れているようにも、また私を蔑んでいるようにも見えます。私は思わずその目に怯えてしまいました。先生は深く溜息をついて言いました。


「村田さん。君は勘違いしてるよ」


 先生はそう言ったあと、不意に卑屈に笑って、黒板の隅の方に行きました。先生がそんな笑い方をするのをはじめて見ました。黒板の隅には最近学校に導入されたばかりの大きなディスプレイがあります。先生はそのディスプレイに自分のタブレット端末を繋ぎ、電源をつけました。


 ディスプレイに先生の端末の写真フォルダの一覧が映し出されました。そのうちの一つに、コレクションというフォルダがあります。先生がそのフォルダを開くと、その中には似たような写真がびっしりと並んでいました。私は息を呑みました。薄暗い背景、どこかのベッド、浮かび上がる肌色、屈辱的な格好をさせられた女の子、その脇に見慣れた制服。率直に言って、そのフォルダは最低な写真で埋め尽くされていました。先生は卑屈な笑みを浮かべながら、次々写真をスクロールしていきます。出てくるのは見覚えある女子生徒ばかり。さらにひどいことには、みな泣き顔だったり、体の一部が赤く腫れていたり、髪の毛がボサボサにされていたりと、ただ淫猥というより、それをさらに越えた異常性を感じます。その中にはA子とB子の写真も混じっていました。


「僕は君の想像してたような男かな」


 先生はなおも悲しく卑屈な笑みを浮かべながらそんなことを言って、今度は動画のファイルを開きました。動画が再生され、裸にされた女の子がすすり泣きながら先生に懇願している映像が流れました。よく聞くと、私が男子トイレで聞いた泣き声にそっくりでした。


「これでわかっただろ。全部君の思い込みだよ」


 先生はディスプレイの表示を切りました。先生はこれで私が幻滅すると思ったに違いありません。実際、先生の見せた写真の衝撃は、深く私の胸に刺さっていました。


 でも私はそれ以上に先生の卑屈な笑みのことを考えていました。あんな悲しい笑い方をするのは、心の傷ついた人しかありえません。ことさら自分を貶めるのも、失望されるのが怖いからに違いありません。あんなひどい写真を、わざわざ大きなディスプレイに表示して私に見せるという偽悪的な行動を考えても、きっと先生はこれ以上傷つけられるのが怖くて、自分を傷つけようのないくらい最低なものに見せたかったとしか思えません。そんなことをせざるを得なかった先生の心情を思うと、また胸が張り裂けそうになって、苦しくなります。私は溢れてくる涙を目に浮かべながらまっすぐ先生を見つめました。


「確かに先生が悪いことをしているのはわかりました。でもそれ以上に、先生が誰よりも傷ついているのも私には分かるんです。全部私に話してください。私なら先生のことを分かってあげられます。全部話して、すっきりして、一緒にみんなに謝りに行きましょう。私が先生を助けます。本当にもう、心配しなくて大丈夫です。もう一人で悩まなくていいんです」


 言っていると涙がぽろぽろと流れ落ちてきて、前が見えなくなりました。私はもういてもたってもいられなくなって、浅野先生に近づきました。いますぐ抱きしめて、安心させてあげたいと思いました。

しかし浅野先生は、後ずさりして私から離れました。私は驚いて浅野先生の顔を見上げました。そこには何か得体の知れないものを見る、微かに怯えた視線がありました。


「村田さん、意味が分からない。君、気持ち悪いよ」


 先生は焦ったようにそう言うと、そそくさと荷物をまとめて理科室から出て行きました。

私はしばらく呆然としていましたが、しばらくすると笑えてきました。いったいどの口が言うのでしょう。私はそんなに異常でしょうか。異常者に異常者扱いされるほど。窓の外では夕日が地平線の向こうに隠れ、夜空に星が出ています。などと月並みなことを心の中で呟いてみました。


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