雨があがったあとに(3)
以前、とあることがきっかけで、彼女の体の時間を随分逆戻ししたことがございます。
そういえば、そのとき彼女が貸出本に選ばれたのも、確か夕刻に関するものだったと記憶しております。
今回と異なっているのは、そのときの貸出には返却期限がなかった、ということでしょうか。
どういういきさつで返却期限がなくなったのかについては、長い話になりそうですので、またの機会にさせていただきたく存じます。
私の返事を聞いた彼女は、安心したように、口角をニッと上げました。
「ま、そういう約束だったしね」
彼女はそう言うと、もうパンプスを脱いで、駆け出す気満々のようです。
何も駆けて行かなくとも、私共にはそれ相応の移動手段というものがあるのですが、彼女の気持ちは今にも走り出してしまいそうなほどなのでしょう。
「では、返却は三十分後にさせていただきます。すでにご承知いただいてるかと存じますが、この貸出本を紛失されると、もとの時間の流れに戻ることが不可能になりますので、くれぐれもご注意ください。また、何らかの事情により返却が送れる場合には、必ずご連絡くださいますようお願いいたします」
「了解」
「ではロビーへどうぞ」
そう言って、私は彼女をサブリエにご案内いたしました。
ここからが、”時の図書館”館長の腕の見せ所でございます。
私はサブリエの絵の前に立ち、丁寧に、落ちゆく黒い砂に触れました。
その刹那、ひりりとした感覚が走り、指先には砂の気配が感じられます。
そしてその感触が消えない間に、反対の手で、貸出カードをサブリエの中に挿入いたしました。
貸出カードが、少しずつ、少しずつ、まるで落ちる砂を止めるかのように、そう、擬音を付けるのならば、グッ、グッ、と、絵の中に入っていきます………
ここ ”時の図書館” は、”時” に関すること専門の図書館でございます。
私は館長を務めさせていただいております。
そして、ここ“時の図書館”には、いくつかの決まりごとがございます。
ひとつは、もう皆さまもご存じの通り、入館者は、館内にいる者からの招待を待たなくてはならない、ということです。
無差別に大勢の方が来館されますと、先にご利用の方々にご迷惑をおかけすることも考えられるからです。
他にある決まりごとといたしましては、
ロビーのサブリエの絵には触れてはいけない、
他の利用者の迷惑になる行為はしない、
などがございますが、皆さまに最も承知しておいていただきたいことは、
<この ”時の図書館” 内では館長命令は絶対> という掟でございます。
なにぶん、私自身のことですので、自ら申し上げるのも僭越かとは存じますが、”時の図書館” のご案内において館長である私のことをご説明しないわけにも参りませんので、このまま続けさせていただきます。
つまり、この ”時の図書館” 内において、館長である私めの権限は絶大なのです。
そしてその権限の中に、<自由に時間を動かせる> という項目がございます。
細かいご説明は今は必要ないかと存じますので端折らせていただきますが、私のその権限を目当てに、この ”時の図書館” に来られる方も多くございます。
そして私がその方々のご依頼をお受けする場合、皆さまには館内から書籍を一冊借りていただきます。
どの書籍でも構いません。
ただし、その貸出本は、もとの時の流れに戻る鍵になりますので、紛失した場合はもとに戻れなくなります。
鍵が無い場合、私の仕事も少々厄介なものになってしまいますが、幸いなことに、これまでに紛失された方はお一人もいらっしゃいません。前館長からもそう伺っておりますので、ひとまず、その点においての心配は無用ということでよろしいかと存じます。
それから…………おや、そうこうしてる間に、サブリエの砂は完全に止まってしまったようですね。
では、これ以上のご説明は、またの機会に……
さあ、準備は整いました。
「それでは、貸出期間は三十分です。お気をつけて行ってらっしゃいませ」
そう申し上げ、扉までお送りしたところ、ちょうど窓から夕刻色の光がロビーに侵入してまいりました。
なかなかの光景です。
通常ならば刹那的なこの光を、今日ばかりは彼女のおかげであと三十分ばかり楽しめるわけです。
扉を開いてさしあげると、彼女も橙色の景色を見て、足を止めました。
「ああ、あの子の色だわ……」
不思議な呟きが聞こえましたので、私は扉を支えたままお尋ねいたしました。
「あの子、とは?」
「私の孫のことよ。夕映えと書いて、夕映という名前なの」
綺麗な名前でしょ?
自慢げに言う彼女に、私も「そうですね。素敵なお名前です」とお答えしました。
すると彼女はにっこりと、実に嬉しそうに微笑まれました。
同じ孫を持つ身としては、そのお気持ち、よく理解できます。
「さて、返却期限もあることだし、そろそろ行ってくるわ。館長、いろいろありがとうね」
「いいえ。私は自分の仕事をしたまでですから。では、お気をつけて」
「行ってきまーす」
彼女の楽しそうな声がロビーに響き終える頃には、もう彼女の姿はありませんでした。
足には自信がある、というのは、真実だったようですね。
私はゆるやかに扉を閉じました。
正面には、額縁の中で、落ちゆく砂を止めたままのサブリエ。
透明の入れ物に黒い砂達がひしめく姿は、少々無機質な印象も受けますが、ロビーに差し込む夕焼けのおかげで、いつもとは趣の異なる様子にも感じられます。
夕映えと書いて、夕映。
彼女は、もう、夕映さんの忘れ物を無事に届けられたでしょうか?
なぜ彼女が夕焼けや夕刻に関する書籍ばかりを選ばれるのかが、やっと分かりました。
お孫さんを、今でも深く想ってらっしゃるのでしょう。
かく言う私も、孫息子のことをずっと想っております。
例えそばにいられなくても。
例え言葉を交わせなくても。
例え会えなくなっても。
例え、少しずつ忘れられてしまっても……
大切な人を想う気持ちは、死ぬことはないのです。
永遠に。
……さて、仕事に戻ることにしましょうか。
ここ ”時の図書館” は、”時” に関すること専門の図書館でございます。
私は館長を務めさせていただいております。
もし、ご縁がございましたら、どなたさまも是非お越しくださいませ。
ご来館を、心よりお持ち申し上げております。
雨があがったあとに(完)