雨があがったあとに
「またそれで時を戻したの?」
大切な客人を見送り終えた後、ロビーに飾ってあるサブリエをもとに戻していましたら、常連の彼女に声をかけられました。
サブリエというのは、フランス語で ”砂時計” という意味でございます。
彼女の口調は、少しの呆れと、幾らかのからかいが混ざり合ったような印象です。
彼女とは知り合ってから随分時間が経っていることもあり、互いに気安い間柄だと自負しておりますので、そんな口調は彼女の通常運転と受け流すところですが、今日の彼女には、いつもと少し違ってる点がございました。
いつもより、若干、世話好きな性質が強く出ているようにお見受けしたのです。
「いえ、今日はただ止めただけですよ」
私はニッコリ振り返りながらお答えしました。
彼女の様子をうかがいながら。
「それにしては、随分至れり尽くせりだったじゃない?犬の名前まで教えちゃうなんて」
「シュレーディンガーについては、つい口に出してしまっただけですよ」
「本当に?わざと名前を出して、あの子にヒントをあげたんじゃないの?」
彼女は、鋭い追及をしてきます。
少々勝ち気で、けれど洞察力に長けている彼女には、何やら思うところがある様子です。
そのまっすぐな視線には戸惑うばかりで、仕方なく私は「ご想像にお任せいたしますよ」と曖昧な笑顔をお見せしたのでした。
すると彼女は、フン、と強めの息を吐き、暖炉のある部屋へ戻っていきました。
どこからともなく現れたシュレーディンガーは、随分と彼女に懐いているようで、スタスタと後をついて行きます。
二人の後ろ姿を眺めながらも、私が思うのは、今日の若い客人のことばかりでした。
パチパチと、暖炉の火は相変わらず気ままなリズムを鳴らしております。
それを取り囲むように並べてある椅子のひとつに、彼女は深く腰をおろしました。
シュレーディンガーはその脇に行儀よく座っており、眠たそうなあくびの最中です。
そののんきな姿は、僅かに緊張していた私を和ませてくれました。
なぜ緊張していたのか?
それはおそらく、今しがた帰られた客人が原因なのでしょう。
けれど不思議なもので、彼らのことを思い返すと、今度は緊張よりも、ふわふわとしたあたたかい感情が浮かび上がってくるようでした。
するとそのとき、同じように彼女達のことを思い返していたのか、常連の女性が私に問いかけてこられました。
「ねえ、館長さん。せっかくの機会だったのに、あの子達とあんまり話せなかったんじゃない?」
気の毒そうな言い方です。
私は「そうですね…」と同意を返しましたが、
「ですが、あのお二人は楽しそうでしたから」
自然と笑顔がこぼれていました。
けれど私の返事にいまひとつ納得しきれないのか、彼女はどこか不満げな表情を隠しませんでした。
「どうせなら、名乗ればよかったのに」
「そういうわけには参りません」
「でも、最初にあの子をここに招いたのは、わざとでしょ?」
「さて、どうでしょう」
「もう!いいじゃない、教えてくれたって」
拗ねた彼女は、”天真爛漫” という言葉がぴったりです。
よもや、その年齢を正しく推し測るのはどなたにも不可能でしょう。
くるくる変わる顔色は、見ていて飽きるものではありません。
私はよく彼女に感情の差異の美しさを見せていただいております。
そのお礼というわけではありませんが、少々機嫌の良い私は、彼女に少しだけ、本心をお見せすることにいたしました。