やまない雨(6)
「あれ、まだこんな時間なんだ」
図書館が見えなくなった頃、彼が時計を見ながら呟いた。
つられて私も確認すると、学校を出てから20分ほどしか経っていなかった。
少なくとも一時間以上はあの図書館にいた気がしてた私は、彼以上に驚いた。
けれど、そのとき、さっき聞いた館長さんのセリフがふわりと浮かんできたのだ。
『―――例えばこの雨だって、後から振り返ったらほんの一瞬の夕立かもしれない』
つまり、本当にその通りだったわけだ。
思わず笑がこぼれそうになったが、彼が「あのさ…」と話しかけてきたので、「何?」と彼を見上げた。
「俺、今日話せてよかったよ。なんかこれのせいで俺達噂になってるんだろ?」
彼は手首を軽く振ってみせた。
意図せずしてお揃いの、腕時計。
噂について彼と話した事はなかったけれど、彼も知ってたんだ。
「ごめんな。そのせいだよな、最近学校で話せてないの」
今日彼と久々に話せて、やっぱり気が合うなと感じた。
でも、それはあの図書館にいる間だけの、特別な時間だと思っていた。
「しばらくは仕方ないよ」
彼と疎遠になったと周知されたら、噂も、そして彼女達の嫌がらせも、鎮まるだろうから。
だからそれまでは…
けれど彼は、意外な提案をしてきた。
「だったらさ、学校の外で話さないか?」
「え?」
「だって雨宿りに駆け込んだ先が一緒なんて、映画みたいな偶然だろ?二人で話せて楽しかったし、このあとまた話せなくなるの、勿体ない気がするんだ」
映画みたいな偶然……確かに、それは間違いない。
館長さんとも話していたように、あのとき窓の外を彼が通りかかるなんて、本当に映画のような出来事だった。
少し考えた私は、手首の腕時計をちらりと見て、それから、同意の笑顔を彼に向けたのだった。
「じゃあ、またあそこの図書館で?」
「うーん、それもいいけど、今からはどう?時間ない?さっき言ってた映画の原作本が家にあるから、もしよければ貸すよ」
「そうなの?…じゃあ、お邪魔していい?」
「やった。あの映画あんまりメジャーじゃないから、仲間が増えて嬉しいよ」
彼は体で喜びを表現するように、雨雲の立ち去った空を見上げた。
そして両腕をぐっと伸ばしながらしみじみと言った。
「あー、今日は本当、塞翁が馬だな」
思い切り聞き覚えのある言葉に、私は笑った。
「それ、さっき館長さんも言ってたよ」
「本当?うちの家の家訓みたいなものなんだ。嫌なことがあっても、それが幸せを連れてくるかもしれないよって。でも短い時間しか話せなかったけど、あの人、良い人だよな」
「うん、そうだね」私は深く頷いたあと、なんとなく館長さんの話題を広げてみた。
「あ、そういえば、館長さん犬を飼ってるんだよ」
いつの間にか別の部屋に行ってしまったようで、彼の前に姿を見せることはなかったけれど。
すると、彼は犬の話題にも好反応を示した。
「へえ。じゃあ館長さんとも気が合いそうだな。うちも飼ってるんだ」
「そうなの?どんな犬?」
「雑種だよ。でも黒くて男前」
「すごい偶然。館長さんの犬も黒い犬だったよ。ね、名前は?」
再び打ち解けた彼との会話は、休符知らずだ。
私は軽やかな気分で訊いた。
「レイっていうんだ」
「へえ…、なんだか上品な名前ね」
「ありがとう。でも、俺が付けた名前じゃないんだ。レイって名前は生まれた時から決まってて、自分で付けられなかったんだ」
「どうして?」
「お祖父さんが可愛がってた犬が産んだ子犬だったから、産まれる前から決まってたみたい。三匹産まれたんだけど、母犬の名前にちなんでシュウ、レイ、ディーって付けられてた」
「ふうん。お祖父さんの犬の名前はなんていうの?」
「シュレーディンガー」
「え……?」
「だからシュレーディンガー。ほら、前に話したの覚えてない? ”シュレーディンガーの猫”。それから取ったんだって」
「シュレーディンガー……」
「珍しい名前だろ?呼びにくいって親戚の間でも散々言われてたよ。もともとは人の名前らしいけど、それを犬に付けるのって………どうかした?」
ぼんやり考え込んでしまっていた私に、彼が心配そうに声をかけてくる。
「え?あ、ううん。なんでもない」
「本当に?犬が苦手とかじゃないよな?」
「それは大丈夫」
微笑んで返した私に、彼はホッとしたように「なら、いいけど」と言って、話題は、別のものに移っていった。
私は、こっそりと、雨あがりの公園を振り返った。
けれどもう、”時の図書館” は遠くなっていて、その姿は見えない。
――――ただの偶然だろうか。
珍しい名前ではあるけれど、あり得ない話でもない。
でも、確かに、あの図書館も館長さんも、少し、不思議な感じはした。
もし…………、もしも、再びあの図書館にたどり着くことも、あの人に会う事も叶わなければ、
それはもしかしたら…………
そんな予感がせずにはいられない、雨あがりだった。
やまない雨(完)