6.睡魔さんの選択
「景くんって音楽やってるの?」
あたしがそう聞くと景くんは驚いたような表情をした。リュウグウノツカイがその横を踊るように泳いで行った。
「なんでわかったの?」
「いや、はじめて部屋にお邪魔した時、部屋にキーボードがあったのを思い出して。CDもたくさんあったし」
景くんは少し恥ずかしそうに顔をかいた。海面に近いところでは大量の銀の魚が群れをなして進んでいる。
「実は、そうなんだ。音楽がずっと好きで、キーボードは中学の頃に始めた」
「すごいじゃん。将来も音楽やりたい感じ?」
「うん。それを仕事にできたら一番いいけど…」
「いいじゃん。スティービーワンダーみたいで。今度なんか一曲弾いてよ」
「え? でも…あそっか。楽器も出せるのか」
「もちろん! グランドピアノだって望めば出てくるよ」
「じゃあ次会うときにでも…練習しておかなきゃな」
「約束だよ!」
揺らめいていた青い光が突然消えた。あたしたちの頭上をジンベエザメが通ったのだ。
zzz
「お疲れ様でぃーす!」
事務所のドアを開けると同時にあたしは言った。
「レムちゃんなんか最近いいことあった?」部長がそんなことを聞いてきた。
「え、そう見えます?」
「うん。契約数も増えてきてるし…俺としては嬉しいけど」
「あ〜やっぱ『お試し券』の効果ですかね」
「何にせよ、この調子で頑張ってよ」
「もちろん! 同期ナンバーワン目指しますよ」
そんな軽口を叩きながらあたしは自分の席に着いて、パソコンを起動する。今日は月初めなので先月とった契約をパソコンでを整理しなくてはならない。悪魔だってデスクワークもするのだ。
「ねえ、レムちゃん」
キーボードをカタカタやってると向かいの席に座っているフラミュが話しかけてきた。
「あ? なに?」
「レムちゃん最近人間に会ってるでしょ?」
あたしは飲んでたミルクティーを噴き出した。
「な、なんで…」
「私昨日事務所に忘れ物しちゃって、一回帰ってきたんだけど、机の上にレムちゃんの荷物が残ってたから、あれ? 召喚されてるのかなーって」
こいつ…見てたのか…
「まあ、確かに会ってたけど、それがなに? 仕事終わった後だし問題ないでしょ」
「わざわざ仕事終わった後になんで人間に会うの〜?」
「……」
墓穴…!
「大丈夫だよぉ。部長に言ったりしないし。それより教えてよ、どうやって誘ったの?」
「はあ!?」
「あれ、違うの?」
「違うわ!」反射的に言ってしまったが、もはや完全に特定の人間と会っていることを認めてしまったようなもんだ。
「な〜んだ私てっきりレムちゃんもそういうの始めたのかと思って」
「淫魔と一緒にしないでよ…っていうか人間を落とす方法なんてあんたの方がよく知ってんじゃん。あたしに聞かなくても」
「ん〜でもほらレムちゃん普通にやったら人間なんて絶対落とせないじゃん?」
「は?」
「だってほら、レムちゃんの目気持ち悪いし、おっぱい小さいし、それでどうやって人間を誘えたのかな〜って気になってさ。勉強になるかもしれないし」
「……」
「でもそういうんじゃなかったんだね。ま、そりゃそっかあ! レムちゃんだもんね。それか相手の人間の性癖がよっぽど歪んでるか…」
「おい」
あたしは、自分の中で黒いものが沸き立つのを感じた。
「今、なんつった?」
「……は?」
フラミュの顔からすっと表情が消えた。あたしたちの間の空気が張り詰めたように重くなる。あたしの机の上のミルクティーのペットボトルがベコッと凹んだ。
「ちょ…ど、どうしたの二人とも」
一触即発の空気を破ったのはトイレから戻ってきた部長だった。あたしらの尋常ならざる雰囲気を見てうろたえている。
「別に何も…じゃああたし失礼しますね」
「う、うん…お疲れ…」
事務所の備品のシースルーコートを乱暴にひっつかんであたしは外に出た。フラミュの方は見なかったけど、あいつがこっちを見てるのはわかった。
zzz
夜の街を飛びながらあたしはさっきの自分の言動を反省した。
淫魔ってのは概してプライドが高い。中でもフラミュは自分の能力の高さを鼻にかけ、無自覚に人を見下したような発言をする。でもそんなのわかってたことじゃないか。いつもならスルーするのに、なんであたしは今日に限ってあんなに頭に血が上ったんだろう。
職場の人間関係こじらせてもいいことないんだから、反省反省。ま、あいつアホっぽいし一晩たったら忘れてるだろ。
…というあたしの推測が大間違いだと分かったのは次の日の夜だった。
あたしは武春くんに召喚されて彼の寝室にいた。
「契約解除したい? なんで?」
武春くんの突然の申し出にあたしは驚いた。
「君めっちゃ使ってたじゃん!」
「なんでそれを…でも仕方ねえんだよ」
「どういうこと?」
「もうあんたのじゃ満足できないんだ。…あんなの知っちまったらもう…」
言いながら、武春くんは恍惚の表情を浮かべた。
あたしの能力を超える快感? そんなのあいつらしかいないじゃないか。あたしは武春を問い詰める。
「誰に誑かされた?」
zzz
案の定、武春を籠絡したのはフラミュの野郎だった。あの乳、どういうつもりだ…? こんな露骨な嫌がらせをしてくるなんて…。
あたしはハッとする。フラミュはあたしの契約書を見たんだ。じゃあ景くんの名前も…。
即座に翼を広げ、彼の住むマンションまで飛んで行く。まさかとは思うがあいつ…。
景くんのマンションが見える。彼の部屋の窓を開けて中に入る。
「景くん!」
「あれ、早かったねえ」
「す、睡魔さん…?」
フラミュは景くんの上に覆いかぶさりベッドに押し付けていた。景くんは抵抗してるようだけど、女と言えど悪魔のフラミュの方が力は強い。
「フラミュてめえ…どういうつもり? 人の顧客に手ェ出しやがって」
「ん〜…なんか分かってないみたいだから教えてあげようと思ってさ」
「は…?」
「あのね。レムちゃんは大した能力じゃないんだから調子に乗っちゃいけないんだよ? 目立たないようにそれなりに頑張ってればよかったのに、あんなこと言うからさあ。私がその気になればレムちゃんのお客なんてぜ〜んぶ私のものになるんだよ?」
言い返したかったのに、言葉が出なかった。
そう。あたしの能力は所詮『まがい物』だ「現実に近い」ってだけで現実じゃない。圧倒的なリアルを提供できるフラミュには…
「そ…そんなことない!」
「え?」
「睡魔さんの力は十分すごいよ! あなたなんかよりよっぽどいい!」
「景くん…」
「うふふ。そう言えるのも今のうちだよ。一回私を知ったら君の方から『契約してください』って言いたくなるから…」
フラミュは景くんの顔に自分の顔を近づける。
「やめろ!」
あたしはフラミュの肩を掴んだ。その途端、ガバッとキスされた。フラミュに。
「う…む…?」
え…な、何この展開…?
だが、すぐに意味が分かった。体の自由が効かなくなり、あたしは床に倒れたのだ。野郎、事前に媚薬かなんかを口に…
「うふ。耐性がないとよく効くでしょ? そこで見てなよ、お客を奪われる瞬間を。…ひょっとしてこの子? 会ってた人間」
「う…あ」
ふざけんな! そう言いたかった。だけど脳が痺れて呂律が回らない。
「さ、君の番だよ。景くん、だっけ? 見えなくてもわかるでしょ? この柔らかさ…全部君のものにしていいんだよ…?」
「あ…ああ…い…」
フラミュは景くんの顔を自分の胸で挟んだ。
「嫌ですね。あなたみたいなしわくちゃのおっぱいじゃ」
「は…? 何を…!?」
フラミュは気づく。自分の自慢のバストが、まるで老婆のそれのように垂れ下がっているのを。
「い…いやあああ!! なっなにこれっ!? わ、私の胸が、手がなんでこんな……!? こ、声まで…!」
胸だけではなく、声も歳を重ねたようなしわがれたものになっていた。手も顔も皺が深く刻まれ、かつての美貌は見る影もなかった。
「そ、そんなああああ!!あああ…」
「う…うう…わ、私のおっぱいがあ…ああ…」
ベッドから転げ落ちたフラミュはわかりやすくうなされていた。馬鹿な奴だ。あたし相手にあんなに近づくなんて。
キスされた瞬間にあたしの能力で眠らせてやった。あとはおなじみの夢操作で悪夢を見せてやったというわけ。夢オチはあたしの専売特許だ。…まあ、あたしもこんなザマだからカッコつけらんないけど…
「睡魔さん!」
景くんはあたしとフラミュに交互に触れたあと、あたしを抱き起こした。
「大丈夫!?」
「うん…しばらくすれば効果も切れると思う…ていうか景くん、今なにであたしとフラミュを区別した…?」
「…ご、ごめん。その、胸の大きさで…」
「エッチ…」
景くんは赤面する。あたしは痺れる脳を抑えながら話し始めた。
「景くん…ごめんね…」
「え?」
「あたしのせいで景くんはこいつに襲われるところだった…ほんと…ごめんなさい…」
「そんな…睡魔さんのせいなんかじゃないよ」
「ねえ…あたしさ…景くんに会えて、景くんのおかげで毎日楽しいんだ…だから…景くんの寿命をこれ以上減らすのはもう嫌なんだ…はは…悪魔失格だね…それに、またこうやって景くんに迷惑をかけちゃうかも…」
「睡魔さん…?」
「だから…さ、景くん…あたしとの契約…もう、終わりにしようよ…ね…?」
景くんは、何も言わずにあたしの言葉を聞いていた。
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「女子中学生に鞭で殴られたいんだが、何日分だ?」
紳士はそう尋ねた。あたしはため息をついて答える。
「三週間」
「安いな!」
「じゃあ失礼しま…」
「待った!女子高生なら…」
「三週間」
あたしは事務所に戻る。これで今日のお仕事はもう終わり…じゃないや、今日は金曜だった。
「部長! これ、あたしの今週分です」
部長の机にどさっと紙の束を置く。
「おお! いいねえ、どんどん増えてるじゃないか」
意気揚々と部長はあたしの契約書を数え始めた。へっ、調子がいいったら。
「お疲れ様で…うっ…!」
事務所に入ってきたのはフラミュだった。あたしを見るなり顔を青くした。
「おかえりフラミュちゃん。…どしたの?」
「い、いえ…」
あたしはにやりとして自分の荷物を手に取る。
「じゃああたしお先に上がりま〜す。お疲れ様でしたー」
「あ、おつかれ〜」
「フラミュも、お疲れ様!」
「ひっ!」
通り過ぎざまにポン、とフラミュの肩を叩いてやった。たったそれだけでフラミュは猫のように体をのけぞらせた。
青ざめてるフラミュと不思議そうな顔をしてる部長を置いて、あたしは事務所を後にした。
…まあ、フラミュの奴が大人しくなったのは良かったけど、あたしもまだまだだな。契約の数で言えばまだあいつの方が全然多いし。つってもそんなあくせくやるつもりもありませんけどね。そもそもそんな真面目キャラじゃないし。
あたしは目の上に巻いていた布を取る。最近気温が高くなってきたから蒸れてしかたない。これを外した時が一番仕事終わったーって気分になる。
シースルーコートを羽織って翼を広げ夜の街を飛ぶ。『友達』が住むマンションまで、一直線に。
その部屋の窓は空いていた。中に入ると、まだどこか幼さの残る少年がベッドの上で寝息を立てている。
あたしは彼の夢の中に入る。
一面、黄色い花が咲き乱れるお花畑だった。その中心、ミステリーサークルのように丸く刈り取られた空間には大きな一台のグランドピアノが置いてあって、美しい旋律を奏でている。弾いているのはもちろん景くんだ。
「よお、景くん」
「あっ!レムさん!今日はもう仕事終わり?」
「うん。やーっと終わったよ。聞いてよ! あの変態紳士の奴がさ…」
あたしは仕事の愚痴を始めた。景くんは面白そうに耳を傾ける。
そのあと、あたしは景くんの学校での話を聞く。これがあたしたちの習慣になっていた。
「…でね、その軽音部の友達の紹介で、今度ライブハウスで演奏することになったんだ」
「マジ? すごいじゃん! こっそり見に行ってやろうかな」
「ええー恥ずかしいなあ」
「なに弾くの?」
「好きなシンガーソングライターの新曲」
「へーちょっと一発弾いてみてよ」
「えー。まだ練習中なんだけど…」
「いいからいいからほら」
景くんはぶつぶつ言いながらもピアノと向かい合う。
鍵盤に、景くんの指が触れる。明朗なメロディーが流れ出す。この美しい景色に、これ以上ないほどマッチしていた。
あたしは目を閉じて、その調べに身をまかせる。
いつまでもこの音を、聞いていたいと思った。
お読みいただきありがとうございました。–––菊沢