3.睡魔さんの困惑
アフリカはボリビアの西部に広がる広大な塩の大地。それがウユニ塩湖だ。雨季に冠水すると巨大な水たまりが空を写す「天空の鏡」という光景が現れる。
それが、360度広がっていた。見渡す限り、空の青と白い雲。まるで空の中に立っているような神秘的な景色だ。
い…意味分からん…。
あたしは困惑していた。全てを自分の思いのままにできる力。それを手にした景くんがしたことは『ウユニ塩湖を見る』ただそれだけだった。
少年よ、本気か? 健全な高校生男子としてそれでいいのか。気になるあの子とイチャコラしたいとは思わないのだろうか。それともまさかかわいい顔してすでにヤることヤってるのかな? いやそれにしたってもっと現実では不可能なことを望みそうなもんだ。ウユニ塩湖なんてスマホで画像検索すりゃいつでも見れんじゃんこのご時世。…などと、あたしが訝しがってるのをよそに、当の景くんはというと。
めちゃくちゃ感動していた。
涙を流し、呆然、と言ったように天空の鏡を眺めていた。微かに体が震えてすらいる。
マジで…? そんなに見たかったん?
「睡魔さん…すごいです、こんな景色始めて見ました。『美しい』ってこういうことなんですね」涙を拭って景くんは言った。
「そんなに感動しているところ悪いけどあたしは『アニメのOPでよく見るなあ』ぐらいの感想しか無いよ」
「アニメ? よく出てくるんですか? っていうか睡魔さんアニメなんて見るんだ」
「ま、まあ、人間の営みの勉強も兼ねて少しね」
少しと言いつつ本当はかなり見る方だけど、悪魔の威厳が崩れそうなので言わないでおいた。景くんは少し考えるような表情のあとこう言った。
「アニメとか映画って夢の中でも見れます?」
「え? いやまあ見ようと思えば見れるけど、寿命は減っちゃうよ? ひと作品につき10分ぐらいだけど」
「それだけでいいんですか? こういう風に景色を変えるのはどのくらいですか?」
「場所を変えるだけならそれこそ30分ぐらいだけど…」
そんなことよりもっと聞いておきたい夢はないの? こういうプレイは何日分ですか? とかさ。
「決めました! 睡魔さん、僕、契約します」
「えっ!?」
なんでこのタイミング? あたしが逆に驚いてしまった。でも景くんがその気になってるのにあたしが止める理由などない。腑に落ちないことはいろいろあったが、あたしは契約書とペンを取り出した。
「じゃあこれ読んで、ここにサインしてね。サインしたらもうそれだけで契約が完了して力が使えるようになるから」
高級そうな紙でできたこの『契約書』は実はあたしら悪魔の特殊な力が宿った道具の一つだ。契約者が名前を書き込み契約完了すると、自動的にあたしの能力が契約者に貸与され、あたしは契約者の寿命を徴収できる。
・悪魔(以下、甲)は契約者(以下、乙)に自らの能力を貸し与える。
・乙は甲の能力を使う代償として自らの寿命を支払う。
・甲は乙に自身の能力、そして当契約について尋ねられた際、必ず正確に回答する義務を負う。
・甲が乙の質問に対し、虚偽の回答、あるいは答えなかった場合、当契約は即座に破棄される。
・それ以外で当契約を破棄する権限は甲が持つものとする。
とかなんとか人間の契約書みたいにいろいろ規約が書いてあるけど、大体の人間はよく読まない。景くんもちらっと見ただけでさらさらと名前を書いた。
「これでいいんですか?」
「うん、これで契約完了。もう能力使えるよ。控えは枕元に置いとくからちゃんと保管しておくんだよ」
「全然実感無いですけど…」
「だろうね。でもちゃんと使えるから心配しないで。分かんないことあったらいつでも呼んでね。一瞬で駆けつけるから」
「わざわざ来てくれるんですか?」
「…契約書ちゃんと読んで無いでしょ。契約者は悪魔を『召喚』できるんだよ」
「召喚?」
あたしは景くんに例の紫色のカードを渡す。表には『ご契約ありがとうございました♡ 睡魔』と書いてあり、裏面には電話番号が書いてある。
「契約書と一緒に置いとくけど、その電話番号にかけたらあたしが景くんのところに直接現れるから。あ、でも他の人に呼ばれてる時は行けないから。あとあたし基本昼間は寝てるから昼間も行けないことが多いからね」
「すごいですね。これも悪魔の力ですか?」
「そのとーり。見たか人間! じゃああたしはこれで失礼するね。ご契約ありがとうございました、良い夢を。おやすみ〜」
「あの、睡魔さん」
帰ろうとしたあたしを景くんは呼び止めた。
「なに? さっそく質問?」
「いえ…こんな素晴らしい力をくれて本当にありがとうございます。ウユニ塩湖は両親が新婚旅行で来たところで、美しいところだと聞いていたので是非一回来てみたかったんです。睡魔さんのおかげで夢が叶いました」
そう言って景くんは深々と頭を下げた。あたしは寸の間言葉を失う。
「ど、どうってことないよ! こ、こっちこそ契約してくれてありがとね! おやすみ!」
「はい、おやすみなさい。睡魔さん」
どこまでも続く青い空の中で、景くんは手を振っていた。
気づけば景くんの寝室にいる。ベッドの上ではまだどこかあどけない顔した少年が規則正しい寝息を立てている。
契約が取れたっていうのに達成感よりも不思議な気分があたしの心を支配していた。
お礼を言われたことなんて、本当に始めてだったから。
zzz
「おかしい…」
一週間後、あたしは就業時間後の事務所でひとり、タブレットとにらめっこしていた。
この端末も悪魔道具の一種で、今まであたしが契約した人間が記録されている。そして誰がどのくらい寿命を使っているかも一目でわかる。例えば武春なんかはすでに2年分使っている。いや使いすぎだろあいつ。
ところが、景くんの使った寿命は未だ一日分にも満たない。減りかたから見て、本当に場所を変えたり映画を見るだけに使ってるようだ。
ネットフリックスかあたしの能力は!
本当に何を考えてるんだあの子は。あたしと契約した中高生が一週間一度もエロい夢を見ないなんてありえないことだった。自分専用のパソコンとかスマホを手に入れた時のことを考えて欲しい。君はどのくらいエロサイトにアクセスせずにいられただろうか。
とにかく、あたしたちの評価は契約の数だけじゃなく、人間からどのくらい寿命を巻き上げられたかも重要になってくる。だからもっとじゃんじゃんエロ夢を見てくれないとあたしとしても困るのだ。
朝丘景…一体何者なんだ君は。そんなことを思っているとタブレットが鳴り出した。あたしはため息をつく。ったくあの変態紳士め。くだらないことでいちいち召喚しやがって。あたしは画面も見ずにボタンを押した。光があたしを包む。
「はいはい。今度は女子中学生に何されたいの?」
「は?」
景くんだった。
召喚されたのは寝室じゃなくて、夜の街だった。中華風の街並みで、あちこちに赤い提灯が灯っており幻想的な雰囲気だ。ここは確か台湾の九份ってところじゃなかったかな。もちろん現実じゃなくて夢の中だ。
「ご、ごめん。どうしたの?」
「夢の中で作った携帯で呼び出しても召喚できるんですね」
「ああ、携帯を近くに置いて寝たでしょ? そしたら夢の中で電話を作ってかければ召喚できるんだよ。現実の景くんは今寝ながら携帯を操作してるよ」
「そうだったんですか。ダメ元で試して良かったです」
「それで、何を聞きたいの?」
「…実は睡魔さんを呼んだのは、質問があったわけじゃないんです」
「じゃあなんで?」
「あの、僕と一緒にこの街を観光しませんか?」
「え…?」
景くん…マジで君は何者なんだ。礼を言われたのも初めてだし、デートに誘われたのも初めてだよ。