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夜5


 5


 ケヤキの葉もすっかり落ちて、季節は初冬、空気もいよいよ冷たく厳しくなり、霞は運動中もフルジップパーカーを脱がなくなった。改めて、時間が経ったんだなと思う。まともにできなかったリフティングも、今では堂に入ったもので、時間の許す限りほぼ安定して蹴っていられる。以前は放送されていること自体知らなかった深夜のサッカー番組を視聴して、いくらか技巧的な、あるいは装飾的なリフティングを試みたりもする。何事にもコツというものがあり、それを会得してからが楽しいものだと聞くがそれがまさに今で、リフティングの中に遊びができて、さらには技術の巧拙が分かって、いっぱしのサッカー小娘と言えるかもしれない。ドリブルはまるでだめだけれど。

 公園の、今時は珍しいのかもしれない、球体の蛇口が天に向かい一筋の水を発射する水飲みから噴出する水を、覆い被さろうとする髪を手で押さえながら飲む。水は存外ぬるく、昔、科学の授業で冬場の水は日照を受けて地中のどうのだから温かいのだ、という話を聞いた憶えが蘇りそうになり、だがその細部はほとんど忘れられていて、もう小学生の頃など、茫漠とした想い出でしかない、小学生時代の自分が何を考え何を理由に動いていたか不明だった。私はあの少年ほど真剣に、人生に取り組んでいただろうか。たぶん、取り組んでこなかった。そして取り組んでこなかった結果が今までで、取り組んだ結果が今なのだろう。

 水を飲み終え、再びのリフティングに戻る。足の裏でコントロールしたボールの、その下にすっと足先を差し込んで無音で宙に持ち上げる。まるで見えない糸で吊り上げられたようにふわりと上がったボールの、底を蹴ってリフティングを始める。蹴った瞬間の確かな重みがどこか心地よい。自分が生きた世界にしっかりと接触しているように感じる。

 三十、六十、九十と回数を積み重ねる。一蹴りにかかる時間は短縮できない、だから百回蹴るのには時間がかかる。ただボールを蹴り続けるだけの、言ってしまえば無為の行いにそれだけの時間を割くなんて狂気と言えば狂気で、ここで自分は生産性の世界からは脱落したように思う。生活の余裕、潤いなんて呼称すればかっこいいが、突き詰めると無駄である。でも、その無駄が、決して無駄ではないと、今の霞は感じている。

 それを無駄と判じた高橋さんとはあの日の電話口で別れた。別に、彼が料簡の狭い男だとか無理解の男だとかそういう話ではない、生き方の違いなんだと思う。実際、彼が指摘した通り仕事の成績は下がり続けているわけで、真っ当な生活を望むならこの球蹴りを即刻やめるべきだ、止めて以前の潮目をきちんと読む生活に戻るべきだ、受動的だがドロップアウトしない方向に腐心する日々に戻るべきだ、とは思う。思うが、楽することに慣れた身は、あるいは、自分で人生を切り拓かなくてはならなくなった身は、以前の生活には堪え得ない。贅肉が付き過ぎたのだ。骨太にもなっているけど。

 リフティングが百回を超えるといちいち数えるのも面倒くさく、そのうちに遊び心も疼いてついつい装飾的リフティングに走り、結果ボールを取り落としてまた初めからやり直しとなる。ちぇっ、とは思うが、地団太を踏んで悔しがるほどのことではない、それはたしかにダメージだけれど絶望してしまうにはあまりに浅い傷なのだ。

 上げたボールをアシカがショーでやるように頭に載せてバランスを取る。神経が接触面、おでこより少し上に集中し、顔の皺もおでこに寄ってきっと今自分はひょっとこみたいな顔になっているのだろうと思う。あまり、知り合いには見られたくないな、と思いつつボールをコントロールしていると、出し抜けに近くで声がした。

「あの」

 ボールに集中しすぎて気づかなかった、驚いてボールを取り落とし、しかしそれを追わずにまずは声の主を確認する。

「こんばんは」

 少年だった。一瞬間、目の前で拍手されたような狼狽えを感じ、それから急に山上の雲が開けるような思いで言った。

「久しぶり!」

 霞の勢いに気おされたように少年は怯み、しかしすぐにはにかんで小さく頷いた。

「久しぶり」

 少年が霞をどう思っているか不明だが霞は久しく会っていなかった友人と再会したような、全き喜びにいる。なんなら抱き着きたい思いだが、さすがに自重して笑顔だけにしておく。

 少年は、あ、ボール、と言って霞が落としたボールを拾ってくれる。少年は両脇に一個ずつボールを抱えている。霞のボールをチップキックで返してくれる。キャッチして霞は、少年が脇に抱えたボールを見て訊く。「そのボールって、私用?」

 少年は頷く。

 霞は自分のボールを、両手で少年へと突き出して見せる。「私、買ったの、自分用」

 少年はぎこちなく微笑む。「もしかして、オレが来なくなったから?」

「ううん、違うの。自分で、自分の意思で買ったの」他人んちの庭に飛び込んだこともあったし、と付け加えると少年は、ああ、あったね、と薄く笑った。

 遠くで犬の吠える声が聞こえる。そちらに振り返って、また霞に向き直り少年は、気まずいのか照れ臭いのか少し固まり、それから両脇に抱えたボールを手放す。二つのボールはほぼ同時にバウンドし、より大きく弾んだ左手側のボールを少年は足の外側、足首の少し下で受けて跳ね上げ、数回のリフティングの後に両手で持った。

「その……」

 続きに何を言うのか、霞も緊張してしまう。

「あの」と少年は、意を決したように言う。「書道、辞めたんだ」

 霞は小さく頷き、その本筋を見出すべく続きを促す。

 少年のまなじりに力がこもっている。「お父さんに、辞めるって言った。そしたら喧嘩になって、というか、一方的に叱られて、でも、そこで黙らずに、オレはやりたいことをやりたいし、やりたくないことをやりたがってるように演技するのはもう無理だって伝えた。そしたら……」

「そしたら?」

「そしたらお父さん、急に黙り込んで、腕組んで、それで、うーんって唸って、そんなに嫌か、って訊いたの。だから、そんなに嫌なんだって、正直に言った」

「お父さん、なんて?」

「じゃあ、辞めちゃえ、って」少年はなんでもないような顔で言う。

「そんなに、簡単に?」霞のほうが戸惑ってしまう。

 うん、と頷き少年は、「辞めるなって言われると思ったけど、あっさりしたもんで。どうせモノにならんだろうし、先方に失礼かもしれないしな、とか言って、一人でうんうん頷いてた」莞爾と笑って、「言ってみたら意外と分かってくれた」

「そうなんだ」それはよかったね、と言うと、よかった、と少年は笑う。それから気づいたように、あ、それで、と言う。

「ん?」

「それで、書道辞められたのは良かったんだけど」と指先をいじる。「なんかその、なんていうか、その、彼女? みたいのができちゃって」

 現代っ子はませている、とからかいたかったが少年が黙るといけないので茶化さない。

「その子が、サッカークラブのコーチの子供なんだけど、あれするなこれするなとか、指図が多くて」

「束縛するタイプだ」と合いの手を入れたが少年には束縛の意味が理解できなかったのだろう、ん?という風に首を傾げるので、「何でも自分の思い通りにしないと気が済まない、みたいな感じ」と補足する。

「そうなのかな」と言って、「そうなのかも」と少年は顎に手を添える。「夜の、午後八時の公園なんて危ないから行くなとか、それだったらうちの庭でやったらどうか、とか、果ては私にサッカー教えてとか言い出して。滅茶苦茶で。しばらくは言う通りにしたんだけど、ちょっと、もう、って感じで」実は、今日もお忍びみたいなもんで。と困ったように笑う。

 霞は、納得と、安堵とが胸に溢れるのを感じる。「私、私とやるのが嫌になったから、もう来なくなったのかと思ってたんだよ」

 え? という風に少年が目を見開く。意外、と言わんばかりに。「そんなんじゃないよ、全然」

「前、もうオレが教えなくても大丈夫とか言ってたから、そのまんま捨てられたのかなあ、なんて」私の知らぬ間に幸せになっていたのかあ、と意地悪を言うと少年は心外だとばかりにまなじりを上げて抗弁する。でも、本当に、捨てられたのかなとは思ったんだよ、と、これは口にはしないでおく。

 少年はコーチの娘の束縛愛について語り、「あ、そう言えば」と軽く手を叩く。

「何?」と訊くと

「メッシの話」と言う。

「メッシの話……って、ああ」どうしてメッシになりたいの、という霞の問いについてだろう。「正直、支離滅裂な問いかけだったけど、何か分かったの?」と訊く。

「いや、あんまり分かんなかったんだけど」と言うので少しずっこけるが少年は気にせず続ける。「メッシになりたいのってさ、単純にサッカーが上手くなりたいっていうのもあるんだけどさ、なんていうか、それなら他の選手でもいいわけで、で、なんで特別メッシなのかって考えたら、やっぱり、憧れなのかなって。今が最高に楽しそう、そんな生き様に惹かれてるんじゃないかって思って。メッシみたいに、楽しくありたいっていうのかな」

「書道に無駄な時間をつぎ込んでないで?」

「うん、そうなんだと思う」

「彼女に黙って夜の公園にリフティングしに来て?」

「それは……」と少年が言葉に詰まり、頬を膨らませる。「まあ、そうっちゃそうなんだけど」

「ごめんごめん。茶化しちゃって」と詫びを入れて、思う。「今が最高に楽しそう、か。上手さがとかじゃなくて、人の有り様、か」

 霞はボールをバスケットボールのドリブルの要領で二度突き、弾んだボールが落ちるところを爪先と脛とで挟み込んで保持する。お、上手い、と少年が言う。限界まで保持し、力の均衡が破れてボールが転げ落ちたところで、それが小さく跳ねてすぐ止まったところで、少年に言う。

「私はね、リフティングを優先して、恋人と別れちゃった」

 少年は意味が通じないようにぼんやりと霞を見て、少し遅れて「え、お姉さん、彼氏いたの?」と失礼なことを言うので「いたわよ」と少しむくれてみせる。少年が返す言葉に迷っているので「失礼言いやがって」と笑う。少年も安心したように笑う。「私ね」と続ける。「恋人と別れて、人生レースからも降りて、リフティングを頑張る道を選んじゃったの。自分でも苦難の道だなって思う。でも、あなたが言ったように、有り様っていうのかな、本当になりたいものになろうと思ったんだ。もう自分は誰かの言いなりにはならないつもりだし、それで生きていけるだけ強くなったとは思えないけど、以前よりは随分自由になったと思う。偉そうに言いながらやっぱり日和るかもしれないけどね。とにかく、なんだかんだで私も、自分の人生に芯ができたっていうか、自分ってものが見えてきたんだと思う。そのために、削るとこは削って、盛るところは盛る、そうやって生きていきたいの、生きていくって少なくとも今は決心してるの」

「んん? 難しくてよく分かんない」と少年は首を傾げる。

「要するに!」

 少し離れた位置に落ちている霞のボールに向けて数歩で間合いを詰め、その芯を蹴り抜く。シュート性のボールが飛び、薄暗がりに沈みかけている緑の金網に当たる。ガシャーン、と音がする。

「要するに、思う通りに生きるってこと。あなたが書道をやめたように、ね」

 少年は、いきなり蹴るからびっくりした、と言って、やがてはにかんで、やっぱりよく分かんないけど、と言いながら手に持っていたボールでシュートを打つ。より金属的な、ガシャーンという音が静寂の公園に響く。遠くの犬が再び吠えるかと思ったがうんともすんとも言わなかった。

 霞は微笑み、少年も微笑んだ。それで十分だった。

 どちらともなく、跳ね返ったボールを回収し、思い思いにリフティングを始める。空気をフルに充填したボールは腿でコントロールすると少し痛い。その痛みと重みを上澄みだけ味わって、霞は再び足先でボールを蹴る。安定したキックはどこか宇宙的だ。膨張と収縮の繰り返しだ。その安定を、技巧的なリフティングで崩す。調和は崩れ、コントロールを失ったボールは明後日の方向へ飛び出して、てん、てん、と弾む。

 人生って何だろうと思う。生きるって何だろう。生き様って何だろう。メッシみたいに憧れられる人生を自分は送っているのだろうか。いや、別に、スターだけが正しい人生ではない、大事なのは自分が自分を肯定して生きているかだろう。思うに、昔は自己否定ばかりだったが、今は肯定がだいぶ増えた。無理と言われた課題、リフティング百回だって、今ならできる。けど、それ以上に大事なのは、できることが増えることより大事なことは、自分ができてると素直に頷けることではないか。自分は競争社会の観点からは失敗している、でも、不安にならないのは、確固たる芯が自分の中に通ったからだ。できてるという保証が他人でなく自分の中にあるからだ。自分が杓子定規になれたからだ。そこに至る方法を小学生との交流から学ぶなんて、少し不思議だった。ランドセルを背負っているような、まだ高校のジャージも買わないような子を通して人生を学ぶなんて、自分の価値観が壊れた思いだ。自らの再構築。ドラえもんがのび太を通して学習した、みたいな話を藤子不二雄は描いただろうか。

 少年を見る。少年は一心不乱にリフティングに取り組み霞の視線に気づかない。霞はその、美しさの前の切実さを、じっと眺める。フルジップパーカーのジッパーを少し下げると夜気が布と布の間に飛び込んで来るが寒さに震えることはなかった。吐いた息は微かに白く、すぐに大気へと掻き消えた。シュートで金網に跳ね返ったボールを取りに行きながら霞は、今年の冬もまた寒いのだろう、と思った。


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