夜4
4
少年のボールを住宅の庭に蹴り込んで後、自分用のボールを買った。変なところで迷惑をかけたくないと思ったし、自分用のボールを持ちたいと思うほどリフティングにのめり込んでいた。
ボディビルディングも同じような精神機構なのだろうか、リフティングの回数が増えていくに連れ人間的に成長したような、何か自分に芯が通ってタフになる感覚がある。集中力がもてば百の壁も越えられるようになった。
髪を、切った。肩を越えて伸びていた髪を、ばっさり、と言うほどの思い切りはないが、ショートボブにして軽い印象に変えた。髪を洗う手間が減り、今までケアにこんなに時間がかかっていたんだな、と以前の自分に感心する思いだ。
それから。
少年が公園に来なくなった。数日は風邪か何かでも引いたのかと思っていたが、不在が長引くとともにその不在が意図的なものであると直覚した。本人に聞いたわけではないから確信はない、が、少年が何かしら意図を持って公園に練習に来なくなったことはありありと分かった。遊具の配置も、照明の強さも何も変わらない公園。その中に、少年がいない。
余計なことを言ったか、と思う。どうしてメッシになりたいの? だなんて、自分でも答えの分からない質問を放って、少年を困惑させた。そもそもが書道に行きたくないという話だったのに、舳先を妙な方向に曲げられて、さぞ困惑したことだろう。そして、少年の継父のように、分かってくれない大人、として括られ嫌われたのかもしれない。少しは信頼していたものが、心を開き得ない相手に分類されてしまったのかもしれない。あるいは。あるいは、また別の点で少年の反感を買い、訣別されてしまったのか。
それを思うと苦しかった。苦しくはあったが、以前の自分なら受けたであろうほどのダメージは感じていなかった。少年の不在にまるで無関心、なわけではないのだが、それは蜂の一刺しほどの負傷で、自分が全否定されたかのような懊悩ではなかった。リフティングが強壮な精神へと霞を鍛えた。のだろう。
けれど、少年の不在は、寂しいには寂しかった。ずっとダブルスを組んでいた相棒を失ったような、仲の良い友達とクラス替えで離れ離れになったような、疼きのような寂寥があった。
リフティングで動かす体に、熱がどんどん溜まっていく。もう夜は涼しいでなく寒いのレベルだったが、運動をしていると芯から温まり、上に羽織ったパーカーはベンチに脱ぎ捨ててある。羽が生えたように、とまではいかないものの、不思議と体は身軽で、何かしらの拘束から解かれたような気分がした。
人通りの稀な夜道を、犬の散歩で歩き過ぎていく男性の姿が目の端に入る。女が一人夜の公園でリフティングしている姿がどう映るか少し気になるが、それはもう、他人の目が怖いという意味ではなくて、純粋な興味として自分がどう思われているか知りたい、という思いだった。スポーツ大好きの女性が、空いた時間に練習しているように見えるのだろうか。それとも、不思議な人、で終わるのだろうか。もし少年が共にいたなら、姉と弟と思われるのか、それとも母子と認識されるのだろうか。
母子か、と思う。母は厳しかった。父が放任主義な分、母は厳格だった。大学を出るまで実家暮らしの門限ありだったし、徹夜をしようものなら必ず一声かけて来て、それは逆らい得ない天の声だったから寝るしかなかった、だから皆が徹夜の高揚を語ろうとその感覚が分からない。未だそれを知らないのは徹夜をしたことがないからで、結局、三つ子の魂百までと云うが、この年になって猶母の律法に自分は縛られているのだ。それを思うと、少年が継父に行動を抑制されているその、根性、というか、心持ちは理解できる気がして、私は後押しをしてあげるべきだったろうに、何がどうしてメッシになりたいのなんて質問したのか、自分の間抜けぶりに当惑する。書道の話がなぜあんな珍奇な質問に終わったのか、自分で自分が分からない。
犬の散歩をしている男性が過ぎ去り、辺りはまた静まる。まるで霜が降りるほどの静けさで、でも、霞の体は温まっている。冷たい大気が却って心地よい。熱に上気した頬なんて、よほどスポーツに熱心な人でないとなり得ないだろうに、と思うと、なんだか一昔前が死んでいたように思える。溺れないよう必死に生きていたはずの自分は、実は力尽きて潮に流されるだけの死体だったのかもしれない。となると、リフティングの音は心臓の鼓動なのか。
考えるうちに愉快になって、続いていたリフティングの、八十回目でボールをコントロールし、八十一回目を高々と空に打ち上げてみる。夏の祭りの花火を、仰ぎ見る感覚。ボールは軌道の頂点で静止し、また息を吹き込んでくれと言わんばかりに霞の足元へと落ちてくる。ほとんど前後しない、正確なキックだった。庭に撃ちこんだキックとは違う、訓練されたキックだった。少年に見せたい、と霞は思った。
落ちてきたボールをキャッチする。静けさにただ一人歯向かっていたボールの音が止み、本当に静かだ。生活音もなく、虫の音もなく、そばで同じくリフティングに励む少年の、打球音や息遣いもない。宇宙空間のような孤独だ。取り残されて、でも、不思議と不安ではない。生きている。生きている孤独。
と、ポケットに入れた携帯が突如鳴り響く。蜜で満たされた空間に押し入る狼藉者のようだ。少し苛立ち、取り出して画面を見ると、上司であり恋人である高橋さんの名前が表示されている。霞は一瞬眉をひそめ、それから闖入者を受け入れた。
「もしもし」
『もしもし、高橋です』と言う。
「こんばんは」自分の声に、少し硬いな、と思う。
『今大丈夫?』
「あ、はい」
『ちょっと、言っておきたいことがあるんだけど』
そう切り出して高橋さんが語ったのは、仕事の成績が下がってきていることと私生活との連関についてだった。要するに、霞がリフティングに精を出しすぎて、私生活に注力しすぎて仕事の成績が下がっている、と言うのである。霞は彼の話を聞きながら、小脇に挟んだボールを指でいじった。空気をフルに充填されているボールは硬く、力の入らない持ち方ではへこまなかった。堅忍不抜とでも言いたくなる硬さでそこにあった。
「高橋さん」と霞は、硬い声で受けた。
『ん? 何?』と高橋さんは優しい声で促す。
「私は……」と一息入れ、視線を上げて霞は言った。「私は、仕事の成績が下がっても、リフティングは続けます。……別に、リフティングに目覚めたとかそういうことではありません、もしかしたら絵を描くことだったり、日曜大工であっても良かったのかもしれません、そこに必然性はありません、でも。自分が続けたいから続けます。やりたいからやるんです。それが私の意思です」
『……それが、霞の将来にとって、無意味、どころか、足かせになるとしても?』
「仕事を人生の第一に据えたならば、このリフティングはたしかに邪魔です。不必要です。確実にやめるべき行為です」
『遊び、じゃなくて?』高橋さんが、いつもの諭すような声音になる。
「遊びではありません。これは、言うなれば呼吸です」霞は自分の中に確かな芯を感じる。
『呼吸? やらなきゃ死ぬ類のもの?』
「そうです。必然性はないですけど、やっと見つけた生き方なんです」
電話口で高橋さんが黙るのが分かる。霞も黙る。言葉を待つ。
「なんというか」本当に言葉を探す様子で、高橋さんが言う。「気分転換の、趣味……で本業を圧迫しているようなら本末転倒だと、私は言おうと思ったのだけれど。……霞の言い分は分かった。でも」でも、と即座に付け加えて高橋さんは、「私は、仕事を疎かにする人間を、信頼できない。厳しい言い方だけど、評価に値しない人間だと思う。人間は仕事なしに生きられないのだから、そこに力を割けない人間は、人間とは、分かり合えない。時間を分かち合いたいとも思わない。だから」今度は少しの間を置いてから、棋士が確信を持って駒を打つような強さで、「霞がその生き方を貫くなら、私たちは別れたほうがいいと思う。必ず決裂の時が来るから」と言った。
茶色に変色して地面にかさばっていたケヤキの落ち葉が、風に飛ばされて擦れ合い、さらさらと音を立てる。晩秋の寒さに、しかし霞の温まった体はすくんだりしなかった。
「それなら、私は――」