夜3
3
リフティング百回を達成するまでは、と言った手前、霞は百回という数字に縛られてしまい、そこを目標として頑張っているのだが、二十回の壁を越えて後三十、四十、五十、と順調に増えていったリフティング回数は、七十、八十辺りで停滞してしまった。リフティングは安定してできるものの集中力が中途で切れてしまいボールコントロールに失敗してボールが地面に落ちておじゃん、再びの零からのスタートとなる、という流れを繰り返していた。
実際問題として、リフティング百回にはよほどの集中力を要する。一回一秒として計算すると百秒、つまり一分四十秒かかるわけで、その間ずっと集中を保つというのは簡単に聞こえるが現実には至難の業で、少なくとも苦行であって、霞は人生それほど楽をしてきた覚えはなかったが百回の苦は存外度し難く、特に八十回まで積み上げたのにボールを落としてしまいまた初めから、となると、もう一度向かって行こうと自らを奮い立たせるのはなかなかに困難だった。
霞は地面に落ちて動かなくなったボールを見つめる。六十回で取り落としたので精神的な傷は比較的浅かったが、食欲のない時に出される飯みたいなもので、数歩先のボールを取るのさえ億劫に感じた霞は、少年とのリフティングに取って代わられる以前、自分を慰撫してくれたベンチに気だるげに腰を下ろした。下ろして、ベンチの冷たさに驚き、腰を上げそうになるが座り続けることにする。試しに吐いた息は、白く濁ることなく透明なまま夜に溶け込んだ。
少年に目を向けると、少年はボールを前に仁王立ちで、視線は足下、どこか生気がなく、時折思い出したように指の逆剥けを取り除く動作をしている。普段快活なだけにその姿はある種異様で、ある意味分かりやすいサインと言えた。何か悩み事があるのだ。霞は「ねえ」と声をかけ、とんとん、と指先でベンチを触り、「ここ、座りなよ」と言った。少年は叱られた子犬のような、喜びと惑いが宿る目で霞を見て、首肯し、霞の横に腰を下ろした。
「学校、どう?」
まずは軽い質問から入る。
「フツー」とは如何にも現代っ子だ。
「今の学校って、フットサルとかやったりするの?」サッカーを始めて、少し勉強したところによると、最近の小学校は敷地面積も狭くかつ皆がボールに触れるフットサルを大味なサッカーに代わって導入したりしているらしい。知識自慢がしたい、という意図もこの質問にはあったかもしれない。
「やんないよ、サッカーしか。やればいいのに、とは思うけど。小畑先生、たぶんルールとかあんま知らないから、やるとめんどくさいからやらないんじゃないかな」と、少年の口調が少し熱を帯びる。サッカー、好きなんだな、と思う。同時に、自分の中の空洞を思う。何かがしたくて、人生の指針を決めてきたことなんてなかった。ただその場その場で有効に見える選択肢を選んできただけで、今の会社だって明確な目的があって入ったわけでもなく、理由らしき理由を拵えて入社しただけだったように思う。意志により選択した人生ではない。流れに乗るばかりの生だ。あるいは、自分にも昔、少年にとってのサッカーのような、夢、に似た何かが確かにあったのか。
メッシはね、すごいんだけど、あの髭はどうかと思う。少年は流暢に語っていたが、ふと言葉に詰まる。「あのね」と言ったぎり黙り、指先をいじる。霞は頷いて、少年の次の言葉を待つ。
やがて少年は、友人が収集した宝石に手を触れる時のような、躊躇いを多分に感じさせる声音で言った。
「その……オレ、書道に通ってるんだよね」
「うん」霞は少年の語りを妨げぬよう、そっと相づちを打つ。
「書道はさ、あんまり好きじゃないんだよね」
「うん」
「ていうか、嫌いかも。めんどくさいっていうか」少年が微かに唇を噛む。
「書道は、嫌い?」訊き返してみる。
少年は、まるで悪いことをしているかのように憂いげに目を伏せ、訥々と語る。「嫌いかも。漢字とか、別にどうでもいいっていうか。正直、つまんないかも。それだったら、サッカーやってたい、ていうか」両膝に手を置き、膝頭を二度揉む。「メッシみたいになりたくて。バルサに入って、あ、あの髭は生やす予定ないけど。とにかくメッシになりたいんだ。書道やるより」
「つまり、書道やってる時間があったら、サッカーやりたい、と」と訊くと、
「うん」と答える少年の声は元気がない。
一呼吸置いて、「じゃあ、書道、辞めちゃえば?」と訊くと少年は滅相もないといった激しさで首を横に振る。
「無理」
「どうして?」
「だって、お父さんがやれって言うから」
「そんな、誰かがやれって言うからやってることって、身につかないよ。自分が本当に求めてやらないと……」と言って、どの口が言う、と思う。私だって、本気で求めて生きる人生じゃない。偽りの、他人に舵を預けた人生だ。
自分に跳ね返ってきた言葉に二の句が継げないでいると、少年が、力なく、ぽそぽそと言う。
「お父さん、お父さんじゃないんだ」
「え?」意味が分からず、少し首を傾げて少年を見つめる。
「お父さん、ほんとのお父さんじゃないっていうか……血が繋がってないお父さんなんだ」
「……え?」霞は怯んでしまう。理解が遅れて来る。血の繋がってない親子がいること、それがさして珍しいことではないと知識上知っていたが、子供からそういう言葉を聞くとなぜだか衝撃を受けた。
「お母さんはほんとのお母さんなんだけど」一気呵成ではないものの、何か重しの取れたように少年はすらすらと内省を口にする。「前の、ほんとのお父さんとは離婚して、オレが小学二年生の時、そこから小学四年生の時、だから一年前ぐらい前の話なんだけど、今のお父さん、義父? と結婚して、それで、なんていうか、一家で住んでるんだけど、お義父さん、厳しくて。勉強ちゃんとやれって。むしろ熱心っていうのかな? それで書道の教室に通わされてるんだけど、サッカークラブがいいって言ったんだけど、書道やるよりサッカーやらせてって言ったんだけど、書道もやれって。サッカーやらせてあげるけどだからといって書道をやらないっていうのはないんだって」
少年は喋り止んで俯いたままだ。霞はまだ戸惑っていた。赤の他人と言うべきか、ただ夜の公園で一緒にリフティングしているだけの人間が、安易に少年の人生に介入してはいけないと、常識で分かった。どんな助言をしても、それは無責任な第三者の発言になってしまう。結果、少年を余計に傷つけたり、家庭環境を掻き乱し、掻き乱しておいて責任を取らない、取れない、という結末が容易に想像できる。だからこんな時は曖昧に微笑んでやり過ごすのが、霞が学んできた生き方だった。失敗を避けるための処世術だった。
でも。
両手で顔を覆い、視覚を遮断して考える。
私は少年にリフティングを学んだ。適切な目標設定することを学んだ。自分を肯定する方法を学んだ。それはささやかだけれど自分を変えたと思う。自分はできるんだ、という自己承認は、動物たちがなわばりを広げるみたいに、私の『生きている』世界を広げ始めた。全世界が塗り替わる、なんて大仰なものではないが、今まで潮目の観察に躍起になっていた自分が、余裕、のようなものを憶えた。『自分』の境界線が、じりじりと膨張している気がする。リフティングに根を詰めすぎているのか会社の業績は少し下がった、上司であり彼氏でもある高橋さんにはその点で注意を受けている、けれど、なぜだか不安定になることがない。以前の自分なら吊り橋が揺れて今にも落ちそうな恐怖を感じていたものが、今の自分にとっては軽い擦り傷の痛み、程度にしか感じられない。そういう面では、私は成功者と言えるのかもしれない。
成功者の言葉には反発を覚える。それは成功した者だからこそ言える台詞だと鼻白む思いが強い。でも、この、自分を保つという感覚を、少年に何とか伝えたい。出し抜けだったり、唐突だったり、的外れだったりするのかもしれない。けど、霞はとにかく、少年に何かしら力を与えたかった。
「書道なんて辞めちゃえ、なんて、簡単に言えないけど」手を外し目をしばたたく。膝に下ろしたはずの手が気付けばうなじに触れている。「やりたいことがあるっていうのは大事なことだから、その、たとえ辛くともやりたいことがあればそれを支えに生きていけるっていうか、……」違う、そんなことが言いたいんじゃない、自分に言ってやりたいことを言うんじゃなくて少年の訊きたいことを訊かなければならない。なんだろう、何が……
頬をつねるも何も出ない。ジャージ姿で動かないままだと体に寒気が浸透し芯まで冷え切りそうで腕を抱える。「だから、その……」吐いた息の先の、地面に薄い影を落としているサッカーボールが見える。頼りない照明に照らされて薄白く発光している。その弱々しさほどの確信もないまま、霞は少年に質問を投げかけた。
「どうして、メッシになりたいの?」
脈絡も何も不明の問いに、少年は面食らったように少し首を傾げ目をしかめ、思弁するように眉を寄せた後、疑問の余地もないという声音で言った。
「だって、サッカー上手いし」
「うん、それはそうなんだけど、そうじゃなくて」そうじゃなくて何なんだろう、と自分でも小首を傾げながら、霞は尋ねる。「なんで、自分じゃなくメッシになりたいのかなって、思って」
「言ってる意味がよく分かんないんだけど」
少年が訝しむように返し、「うん」と霞も頭を抱え、「私もよく分かんないんだけど」と呻いてしまう。でも、と頭にある言葉を整理する。「でも、メッシになりたいって、どうして、あの人みたいになりたいって、人は考えるんだろう?」
霞は少年を見る。少年は怪訝そうな顔で、夜風に少し身を硬くする。同時にカサカサと鳴ったケヤキの葉はもう紅葉が始まっていて、季節の一区切りを予告している。車の音も民家からの生活音もまるでなく、公園は深海に沈めたかのような静けさだ。止まっているようで、でも動いている。
腕を組んで、首を左右に傾け、うーんと瞑目した少年は、ついに耐えきれなくなって「よく分かんない!」と小さく叫びベンチから腰を上げ、手前に転がっていたボールを足でひょいっと浮かし、リフティングを再開した。霞は、変に追い詰めてしまったか、と焦ったがなんと言葉をかければよいのか分からず、とりあえずベンチから腰を浮かしたが何もできずに棒立ちだった。
少年に借りたボールが闇にぽつねんと佇んでいる。まるで今の自分だと霞は思う。少年も似たようなものかもしれない、とも思う。ブレイクスルー。日常を壊したくて、でも壊すだけの力が無くて。
霞は両頬を手で挟むように叩く。音に反応して少年はリフティング中のボールを手でつかみ、霞に注目する。霞は足に力をこめ、のしのしと象が歩くようなイメージで落ちているボールへ向かう。微風にも怯まない。薄明りに照るボールを拾い上げ、数回リフティングの要領で蹴り、それから、ありったけの力をこめてボールを上空へ蹴り上げた。ボールは高々と上がり、その軌道の頂点でエネルギーを失い降下する。その、落ちてきたボールを両手でキャッチし、少年を見る。驚いたような、また、訳が分からない、といった顔をしている。
「ねえ、どっちが高く飛ばせるか、勝負しない?」
話を振ると少年は苦笑いする。
「勝負してどうするの?」
「分っかんないけど」と霞も苦笑してしまう。「でもさ、楽しいよ、無秩序に、ルールとか何もかも無視して力いっぱい蹴り上げるのって」
「ノリがよく分かんないんだけど」
「私もよく分かってないけど、蹴れば気持ちいい。それだけの話」
「筋力からして大人に敵うわけないじゃん」少年は困ったように襟足をねじる。
「メッシだって身体が小さくても何とかしてるじゃん」
「それとこれとは全然違うよ」
荒唐無稽さについてこない少年を促すように、霞はもう一度ボールを蹴り上げる。ケヤキの樹高と同じくらいに上がり、それから落ちてくるボールをキャッチすると両手が滝に打たれているかのように重くて痛くて、少しだけ心地よい。笑顔で、ほら、と顎をしゃくると、少年も仕方なくの態でボールを利き足で思い切り蹴り上げる。
どん、という打球音と共に空気を切り裂くしゅうううという音を立てボールは、ケヤキよりも僅かに高く飛翔して、また手元に戻ってくる。前後にほとんど動かないのは正確なキックの証だ。
ボールをキャッチして少年は、霞の顔を窺う。霞は歯を見せて笑ってみせ、「負けないぞ!」と、もう一度手元のボールを蹴り上げた。先ほどの少年のキックよりやや低い軌跡を描き、ボールが落ちてくる。霞は四歩ほど前進してこれをキャッチする。少年を見る。
少年は、「意味分かんないんですけ、ど!」と、再び力をこめてボールを蹴り上げる。ボールはケヤキの木より少しだけ高く飛んで、落ちてくる。
霞もボールを、今度は小さくジャンプして蹴り上げる。ボールは先ほどの少年のキックより少しだけ高く上がったように見えた。
どっちが勝ちか分かんないじゃん。言いながら少年はまた高々とボールを蹴り上げる。落ちてきたボールをキャッチし、にっと笑う。
私の勝ちだ、よ! と霞はまた全力でボールを蹴り上げてみせる。
と、ボールは左方向に飛び、公園の小さな仕切りなど軽々と越え、道も横切って住宅の庭に弾んだ。あ、と二人で間抜けな声を出し、反射的に身を伏せて隠れようとする。ボールは庭で数回バウンドし、落ち着いた。明かりの微かに漏れる窓が開き家人が様子を窺うかもしれないと二人は身を硬くしたが、十数秒待っても何も起きなかった。
公園はただ静かだった。霞は立ち上がり、ビビったね、と言った。少年は舌を出した犬の顔で笑った。霞も笑った。二人でしばらく笑い合った。