夜2
2
極力手を使わない。足の裏で引いたボールの、手前に転がるところの底を、スプーンで掬い上げる要領で足先で掬い上げ、ボールを浮かせる。浮かせたボールの底、真ん中を、足の甲で程良い力加減で蹴り上げる。この時、初心者は外側に反らせた足先で蹴り、ボールにバックスピンをかけがちだが、正当にコントロールするにはきちんと足の甲で真っ直ぐ蹴り上げる必要がある。後は如何に正確にボールの芯をとらえられるか、で、やるべきことは蹴り上げたボールを同じ要領で蹴り上げ続けることのみである。
リフティングのやり方はだいたいそのような感じで、少年は、顔を洗ったり歯磨きをしたり、そんな日常の動作と同じように実に容易くボールを蹴り上げ、コントロールしてみせる。わけもない、と言わんばかりの簡潔さに、すぐできるようになるだろうと甘く計算したのに現実は四苦八苦、概ね三蹴り目でボールはコントロールを失い、足の届かない範囲に飛び硬い地面に跳ね、一からやり直すもやはり三蹴りもすればボールがあらぬ方向に飛んで行ってしまう、その繰り返しだった。身の丈に合わない高山に挑んでしまったかのような、しまった、という思いが何度となく過ぎり、それでも、成し遂げたい、という思いが勝り、練習を繰り返した結果今日では二十回ぐらいはできるようになった。
「目指せ百回だね」少年が笑う。
少し汗ばんできたのでパーカーを脱ぐ。上下共に高校生の頃着ていたジャージ姿になる。それを再び着るとも思っていなかったし、ましてやリフティングに勤しみ二十回はできるようになるだなんて、予想だにしなかった。
大人が高校時代のジャージを着ることに、少年は特別驚いた様子を見せなかった。ふーん、すら思わない、全き無頓着。その反応を見て、自分が如何に他人の視線を気にしていたのかを知った。ああだこうだ言って欲しくない、けど、無反応はそれはそれで寂しい。面倒くさい奴だな、と思う。
「そういう人って、やっぱり面倒くさい?」と少年に訊いたら「そういう人ってどういう人?」と訊き返され、「……他人の意見ばっか気にする人」と、改めて言葉にすると自分が小狡い人間のように思われ恥ずかしさに少し戸惑う。当然、少年にはそれが伝わらないようにする。少年はむすっとしたような顔で少し考え、「オレ、他人の忠告を聞かないって、よく怒られる」とずれた返答を返した。「誰に怒られるの?」と訊くと、「だから他人」と質問を打ち切りに来たのでそれ以上追求するのはやめた。
少年のことは、表層的に知った。名を山下翔と云う。小学五年生で近くの小学校に通っている。小学一年生から始めたサッカーは地域クラブで教わっているらしい。補完のための練習が、この間はいつもより遅かったため、初めて霞と時間が合ったのだという。ポジションはフォワード、チームではエース格で皆から頼られているそうだ。実際、少年は活発で快活な、見るからに他人から好かれそうな言動に顔立ちで、自分が小学生の頃、こんな子がクラスで目立ってたな、と、郷愁のようなものを感じた。リフティングは時間が許す限り続けられる、千回だって楽勝、と言うのだから、前向きな性格だけでなく実力も備わってこれで好かれないほうがおかしいように思える。眩しいな、とも思う。自分だって、どちらかというと常勝側にいたはずなんだけど、いつから輝きを失ったのか。あるいは。間違った勝ち方しかできなくなったのか。
霞は、努力をする。失敗しないための努力をする。大概は上手くいく。運動も勉強も苦手としたことがない、器用と言って差し支えないと自分で思う。いや、より正確には器用貧乏なのだ。なんでもある程度はこなせる。けれど、なまじできる分、粗が目に付いて自分で自分の仕事を評価できない。承認できない。あそこをもう少し、などと悔いばかりが脳裏に焼き付く。以前、オフィスでプレゼンテーションを行った時も、表示したスライドに英語の誤訳があって肝を冷やした。誰もそこに気づかなかった、あるいは敢えて突っ込まなかったが、霞は何か、盗み食いを摘発されたような気恥ずかしさを味わった。
ただ、不完全ながらもそのプレゼンテーションを上司に褒められたことは、自己承認できない霞にとっては妙に安心することだった。自分はちゃんとできているんだ、自分は駄目じゃない、とお墨付きをもらったような感覚に気が休まる、慰撫される思いだった。その上司、高橋幸治とは結局付き合うことになり、霞が自分の立ち位置を見失った時、灯台のように足場を照らしてくれる、承認を与えてくれる存在として彼は心の拠り所となっている。
ジャージ姿で、童心に戻る、ほどではないものの蛹が脱皮したような心持ちでボールを蹴っていると、身体的な興奮と反比例するように心奧が不思議と冷える、冷静になるのを感じる。ベンチに座っている時と感覚が似ているが、身体を動かしている分、開放感が強い。無心になるような。精米ってこんな感じなのかもしれない、と考え、米に気持ちも何もないだろうと小さく笑ってしまう。
蹴って、蹴って、蹴って。雑念を削り落としながらリフティングを続けると、二十回越えが照準に入り、十七、十八、十九、と来て、二十、を数えた瞬間の気持ちの高ぶりに合わせて足に力が入り、芯を少しずれて蹴ったボールは前方に飛び出す。慌てて足を延ばし地面に落下する前に蹴り上げるが余計にコントロールを失ったボールは今度は足の届かないほど前方に飛んで、弾んだ先で少年の蹴り上げるボールに当たりそうになる。結局ぶつかりはしなかったが少年は攪乱されてボールのコントロールを失い、苦み走った顔と共にボールが地面に落ちた。
少年は天を仰ぎ首を捻り、怒りも悔いも見せずただ、しまった、とだけ言う。ごめんね、と霞が言うと、少年は、ううん、と言って、いつもならすぐにボールを取りに行ってリフティングを続けるところ、なぜか腰に手をやったまま突っ立っている。ボールを貸してもらっている立場上、いや、単純にミスした者の責務からボールを取りに小走りすると、少年が、あ、いいよ、と言ったが霞は自分のボールと少年のボール、二つを回収し、小脇に挟んで少年へと歩む。えひひ、と照れ笑いする少年の頬にえくぼができている。
はい、と、右脇抱えたボールを少年に投げ渡し、反応を窺うと、少年はリフティングせず、明らかにパスと分かる弾道で霞にボールを蹴り返した。それをトラップし、少し迷って、霞はインサイドキックで地面を転がるパスを出す。
「なんか、あった?」訊いてみる。
少年は足下に転がったボールを爪先で浮かし、リフティングを始めるかと思いきや三回蹴ると足裏で踏みつけにし、ボールを完全に止める。一度頭を掻く。
「その……なんていうか、その……お姉さんって、かっこいいよね」
「え?」
そう? なんて、自分がお姉さんと呼称されたことと、かっこいいと褒められたことに、照れ臭くなって霞は微笑んでしまう。所詮は小学生、と心のどこかで侮っていた可能性はあるが、何であれ率直な称賛は心を打った。承認欲求ここに極まれりだな、という笑いでもある。
「呑み込み早いし、運動神経高いし。拓也とかより全然上手い」
拓也、は同じサッカークラブに所属するミッドフィルダーだそうだ。多少できる分、小手先で対応して進歩のない子と聞く。
「リフティングだって、今ちょっとした壁にぶち当たってるけど、たぶん、少しやればコツも掴んですぐ何回でもできるようになると思う。なんていうか、センスあるっていうか」
そう言って微笑む少年の、本論がどこにあるのか、霞は傾聴に徹する。
少年は何が言いたいのか自分でも呑み込めていない様子で、話し始めようとして詰まること数回、そして言った。
「つまり、オレが教えられることって、もうないかな、なんて思うんだけど」
見知らぬ土地で置いてけぼりにされたような不安が急に込み上げてくる。ケヤキの葉が風に鳴く。「あ、でも」と霞は情けない声を出してしまう、その不安を感得できない少年は少しだけ首を傾げて霞の言葉を待つ。自分でも何を言うつもりか分からないまま、ここを逃したら二度と機会がないような焦りで口を開く。
「せめて、せめて百回を達成するまでは、教えてほしいな、って」
言って自分が、見捨てられるのが怖かったのだ、と知る。少年は「だから」と被せるように言う。
「オレが教えなくても、お姉さんがこのまま練習したら、割とすぐ百回とかできるようになるから。だからオレが教えなくても大丈夫だよ」
少年としては太鼓判を押してくれているのだろう。だが霞は反駁するようなやや強い調子で少年に訊いてしまう。
「私とはもう、やりたくないってこと?」
少年は困ったような、というより困惑して曖昧な笑みを浮かべる。取り乱してしまった。そう思って、すぐに別の言葉を探す。
「ごめん、言い方間違えた。なんていうか、できるなら一緒に続けたいというか、私、邪魔だったかな?」
「あ、そういうわけじゃなくて」少年は大仰に顔の前で手を振り、「そうじゃなくて、なんだろうな」顎に手をやって考え込む。「別に嫌とかじゃなくて、一緒にやる人がいると楽しいっていうか、燃えるっていうか……」
霞は、夜風のごとく焦燥が冷えていくのを感じる。別に少年に拒絶されたわけじゃないんだと分かると、湯船に浸かった時のような安心感が全身に満ちる。足を半歩動かし重心を移動させ、絡みついていた不安を払いのけると、血流が活発化して足先が温まったような錯覚を覚える。
いつもそうだ、と思う。他人が自分から離れていくのが怖い。他人から評価されない自分は零のごとく感じる。それを防ぐための努力ばかりしている。会社での評価然り、上司及び彼氏の評価然り、そして少年にさえ不安を感じている。この性格は治り得ないのかもしれない。長年培ってきた性質が、室温から冷蔵庫内に突き込んだ手の温度のようにいきなり変わるようには思えない。自分で自分を承認する。それができれば不安はなくなり、アイデンティティーが揺らぐこともないだろう。でもそんな考え方はできない。リフティング二十回では堅固な精神は生まれ得ない。それが百回できるようになれば心が変わるのか、と言われると、たぶん変わらない、とも思う。それとも、変わり得るのか。
「とりあえずさ」と少年が言う。「お姉さん、リフティングやってみてよ。できるだけ。ちょっとしたテストみたいなもの? で」
「え?」あまりに出し抜けで思わず訊き返してしまう。
「目標設定してさ、何回できたらクリア、みたいな。うちのクラブでも時々やるんだけど」
「あ」と発してから、霞は迷う。「目標……って、いくつ?」
少年は苦笑する。「いくつって、自分で決めなよ。じゃないと意味ないよ」
「えっと、じゃあ、百?」
「それは極端っていうか」少年はシャンプーするように右手で頭を掻き、なんていうか、と眉間に皺を寄せ、「自分で決めなよって言ったけど、そんな、無茶な回数じゃなくてさ、ちょっと集中すればできる、みたいな、もっと、簡単なところからっていうか」
「じゃあ、十回?」
言うと少年はまた苦笑して、腕を組んで、しかし考え込むことなくはっきりと告げる。
「二十五回」
「二十五回?」
「そ」と少年は頷く。「お姉さん、二十回が見えると気持ちが焦ってボールが下がり切る前に蹴る癖があるかも。そこに気を付ければ二十五回は行けると思う。ってか行くよ絶対」
その癖は霞も薄々感じていたことなので、納得と同時に少年の観察眼に感服する。やっぱり少年がいないと駄目、と言おうかと思ったが、とりあえず今は提出された課題に挑戦することにする。
分かった。じゃあ二十五回。と言って霞は小脇に挟んでいたボールを硬い冷えた地面に置き、大きく息を吐いて心を落ち着かせる。できるかな、と不安になる。今まで課題やテストは卒なくこなしてきた、きっとできる、いや、失敗なんてあり得ない、失敗したら私が私じゃなくなる……
「お姉さん」と少年が言う。
「うん?」
「課題っていうのはさ」と言って踏んづけていたボールを爪先でひょいっと持ち上げる。「できないことに挑戦することじゃなくて、できることに挑戦することだから。そういう気持ち忘れないで」ボールを頭の高さに蹴り上げ、頭頂部に乗せて甲羅から顔を出した亀のような顔で数秒バランスを取ってみせ、ふっと再びボールを浮かせて今度は両手でキャッチし少年は、コーチの受け売りなんだけどね、と笑う。
できることに挑戦する。そっか、と霞は思った。できること、か。
霞は、足元のボールを見つめて心が落ち着く瞬間を待つ。どこからか遅いカレーの匂いが漂ってくる、それを吸い込みながら、まるで何事もないかのように神経を集中させる。宇宙ってこんな感じかな、と感じた次の瞬間、一呼吸おいてボールを爪先で蹴り上げる。
無重力に投げ出されるように音もなくボールが浮く。それは霞の胸より少し下まで上がり、重力に従って真下へ急降下する。その無音の塊を、足の甲で捉え、蹴り上げる。真っ直ぐ真上にボールが上がる。みぞおちぐらいの高さでまたボールが落ち始め、足を少し浮かせる程度の位置まで下がったところでもう一度蹴る。
蹴り上げ、また蹴り上げ、もう一度蹴り上げ。
今の自分は、マシーンなんだと思う。言われたことを言われた通り行う、変動のない機械。上司は褒めてくれるけど、ほんとはできて当たり前の世界。できて当たり前が毎日。失敗すれば奈落。私が私でなくなる瞬間。
足の接触面がボールの芯を少し外れ、前方にボールが飛ぶ。あ、と思う間に霞は一歩踏み出してボールに追いつき、右足で掬い上げる。ずれのないキックでボールが真っ直ぐ真上に上がる。足を送って立ち位置を調整し、再び安定したリフティングに入る。
幼い頃からずっと背負い続けてきた鞄は今更下ろしようがない。きっと重い。ずっと重い。でもその重みは、自分ができるんだという、証左でもあるに違いない。
十五、十六、十七、と来て、十八でまた少し乱れる。気持ちが急く。それでも慌てず焦らず、ボールをコントロールし直し、ボールが下がり切ったところで蹴る。十九、二十、と蹴って、自己最高記録更新の予感に胸が高鳴る。でも、平静に。足を上げすぎず淡々と蹴る。回数は二十一、二十二、二十三、と増え、あと二回だ、と思うと緊張と興奮に顔がほてるのを感じるが霞は高まりすぎないよう沸騰する鍋に蓋をするような思いで静かにボールを蹴る。
二十四、二十五、を数え、真剣勝負を終えたような、汗が体中から溢れ出して後すぐ体が冷える感覚が訪れ、二十六回目を蹴った瞬間ボールはコントロールを失って前方に飛び、足を伸ばして引き戻そうとしたが叶わず二十七蹴り目でボールは明後日の方向へ飛んで宙に弧を描いてから地面へと落ち、たん、たん、と跳ねた。
少年に振り返る。少年は八重歯を見せて「できたね、二十五回」莞爾と笑う。
「うん」と返した自分の顔は今、どんなだろう。ぎこちない笑みなのだろうか、それともやり切った爽快な微笑みなのだろうか、それとも。
「二十五回まで行ったら、気、抜いちゃって。あそこで集中力を切らさなければ、もっと行けたのにね」
言い訳のように言うと少年は、変わらぬ笑顔で返した。
「でも、なんだかんだでできたじゃん」
……なんだかんだ、か。と霞は思う。テキトー極まれりだな、とは思う。そこら辺、発想が小学生だな、と思う、だって小学生だもの、と続けて思う。でも。
そうなのだ。なんだかんだで、できたにはできたのだ。なんだかんだでできてきた人生だったのだ。
そう思うと自然と笑みがこぼれる。にやけ面ほど恥ずかしいものはない、自然と上がる口角を下げようと必死に意識し、それでも駄目となるともう両手で顔を隠すしかなかった。齢三十にして女学生の様相。
霞の羞恥に少年は笑顔ながら少し首を傾げ、気持ちの確認のためだろう、握り拳を前方に突き出し、ぐっと親指を立ててみせる。ナイスプレーのサイン。顔を覆う手の間からそれを見て霞は、まだ恥ずかしさを感じるものの両手を下ろし、右拳をあばら辺りに小さく上げ、ほんの小さくだが親指を挙げて応えた。
よっしゃ、と少年は持っていたボールにバックスピンをかけて投げ上げ、それが落ちるところを右足で蹴り、もう一度蹴り、それから三度目に大きく蹴り上げ、まるで月が昇って落ちるまでのようなそのボールの軌跡を凝と眺め、地面に落ちるまさにその瞬間左足の甲と脛とでボールを挟んで静止させ、その状態でけんけんを二歩、そこから通常のリフティングに移行する。ボールと足の世界に没入する少年を見ながら、霞は小さく挙げた親指の感覚を噛み締める。できた、という親指。できるんだ、という喜び。よくできました、という、自分への称賛。
緩やかな夜風が首元に絡みついて冷たいが霞は首をすぼめたりしなかった。カイロが過熱するように身体が芯から熱かった。




