夜1
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大通りから一本ずれた、自動車が何とかすれ違える程度の幅しかない小道を、夜に潤んだような風が横切り、市川霞は首を竦める。暑さに疲弊した夏も今や昔、今では寒さが幅を利かせて小春日和の日も夜は上着なしに外出できない。歩きながらフルジップパーカーのジッパーをもう少し上げ、試しにはあっと息を吐いてみるがさすがに白くはならない、透明なまま、まるで霞の魂が一部抜け出たかのように息は質量を持って吐き出され、そして間もなく大気へと散る。
機関車だ、と思う。自分が特急か何かの機関車だと、霞は考える。もう随分長く、駅に停まっていない。噴き上げる煙の、真っ黒な機関車。
大学を出て外資系商社に就職し、早六年が経とうとしている。毎秒三十万キロメートルぐらいの、あっという間に潮目の変わる業界で、溺死しないよう必死に水を掻いて水を掻いて、今でも必死に掻いて生きている。泳ぎ方は、もう、クロールなんだか背泳ぎなんだか平泳ぎなんだか、分からない。きっと無様な犬掻きで、少なくとも生き生きとしたバタフライでないことは確かだ。死にたくないなら泳げ。そんな生活。
とにかく忙しい。忙しい、忙しい、言って生活している人間はただ単に自己陶酔しているだけのナルシスト、そう思っていたのだが、実際のところ、月並みだがそれこそ猫の手も借りたいような忙しさで、決して自己をより良く見せようと多忙を語っているわけではないと知るのに要した時間は一年未満、それがよく六年も続いたな、とまるで他人事のように自らに感心してしまうのだけれど、無理は無理、無茶は無茶、疲弊した心は何度も曲げた鉄のように折れやすくなっている。でも、折れたら死だ。死ぬのは嫌だ。なら、折れずに耐えるしかない。
小道の脇には安アパートが建ち並び、窓の多くはカーテンから漏れる照明で明るく縁取られ夜に浮いている。まだ寝静まるには早い時間帯だ。料理油やカレーの匂いなんてものは漂っていないけれど、生活の気配が心臓が脈打つように静かにけれど確かに感じられる。
頼りない街灯に照らされた道を行くと、住宅街の中央、まるで異世界への入り口かと惑うような唐突さで、公園が立ち現れる。ケヤキを四方に配置し、フェンスで囲った、どこにでもありそうな小ぶりの公園。先を見通しづらい夜道の先にその公園が見えると、霞はいつも安堵の小さなため息をつく。安心、とでも呼べばよいのだろうか、きゅっと絞めつけられていた精神がゆるり弛緩するのを感じる。
正門のような、フェンスとフェンスの途切れた間口から公園に入り園内右手、硬い地面の広がるばかりで遊具のない、休憩用のベンチだけが離島のように静かにたたずむフェンス際へと歩を運ぶ霞は、少しの驚きに息を呑む。誰かいる。
霞はほぼ毎日、この公園に歩を運んではフェンス際のベンチに座る。本を読むだの誰かに会うだの、何か特別なことをするためではない。強いて言うなら心の整理だろうか。仕事に疲れ、次第次第に生活にも倦みだした頃、気分転換に有効だよ、と教わったランニングがさしたる成果もなく肉体に疲労を蓄積するのみの苦行と化し、無駄な時間を過ごしたな、と、やはり時間の奴隷のような思考に陥った自分に苦笑しながらひとまず休憩しようと立ち寄ったこの公園のこのベンチに座ると、座って休んでいると、心のもやもやが静まっていくのを感じた。ただ座るだけの、言ってしまえば不毛な時間。あるいは、無為な時間を過ごすことによって忙しさに復讐しているのかもしれない。
何にせよ、不思議と心の整うこの公園のこのベンチに座るという行為を、霞は戒律を守る僧のように愚直に行い続けた。夜気に冷える身体と心の安楽に、奇妙に無感覚になる時間を、生活を成り立たせる糧として貪り続けた。どんなに忙しくとも時間の都合をつけて座り続けた。
だから、誰かいる。となると、自分が守り続けた聖域が侵されたような気がして、霞は、率直に、嫌だな、と思った。休めない、と思った。
歩を進めて霞は、誰なのかを確認しようと目を細める。骨格に少しの脂肪、あとは皮だけで成り立つ、無駄を省いた肉体。霞の胸までの背丈。整髪料を付けていないのに、自然と立ち上がった髪の毛。小学生高学年、くらいかな、と目星を付ける。腕時計をちらりと確認すると、午後八時が近づいていた。
少年は、ベンチから少し離れた位置、邪魔する遊具のない開けた硬い地面に立ち、サッカーボールでリフティングをしていた。左足を小さく上げ、時に右足に切り替えながら、乱れることなく一定のリズムでボールを蹴り上げている。無駄のない、洗練された動作。一般教養程度にしかサッカーを知らない霞にも、彼が上手なのが分かる。確かに、見れば見るほど如何にもなサッカー少年だな、と思い、いや、でも、如何にもなサッカー少年ってどんな像なんだろう、と考えてしまう。如何にもなんて、誰が決めたんだろう。
ふっ、と冷たい風が吹き、しかし少年は意に介さず少しの動揺もなくリフティングを続けている。熱中している。が、霞が、邪魔しちゃ悪いし、と、踵を返そうと足を揃えた瞬間、気配を察知したのか少年のボールコントロールが乱れ、ふわっと浮いたボールが少年を離れ、てん、てん、と跳ねながら霞のほうへ転がってきた。あ、と声無しに口を開いた少年と目が合った。霞は一瞬怯み、しかし、どうしよう、と悩む間もなく気づけば小さく跳ねるボールを掴んでいた。
互いに目が合ったまま、動けずにいた。奇妙な沈黙があった。車も何も通りかからず、少し前までは姦しかった秋の虫の音も今はぱったり止んでいた。
「ボール……」と少年が、かすれて弱々しい、声替わり前の男子の声で言う。
「あ」と霞は反射的に言って、手にしたボールを投げ返そうか置いて蹴り返そうか少し迷ったが、ちょっとした好奇心から、投げ上げたボールをさっき見たリフティングの要領で蹴り返してみた。
次の瞬間、霞はより切迫した「あ」という短い叫びを上げていた。少年を狙ったボールは、方向こそほぼ真っ直ぐに飛んだが高さが想定よりかなり高くなってしまい、少年の頭上を越えようとした。それを、少年は二三歩素早く後退してジャンプのてっぺんでキャッチし、着地した。ふう、と一息吐き、「ありがとうございます」と言う。霞も小さく会釈を返す。少年はまた会釈を返し、それから少し躊躇って、しかしもう霞はいなくなったものとして再び無心にリフティングに取り組み始める。
硬い地面に立ったままの霞は、少年に向けていた視線をベンチへ移動させる。いつも座るベンチ。今日はまだ座っていない。不意の少年の登場と先ほどのミスキックもあってか、心の中は撹拌された水のように乱れている。座りたい。座って静めてから帰りたい。でも少年がそばにいて座りづらい。でも、今日仕事で溜め込んだもやもやも未消化だからやはり座って帰りたい。でも、少年の邪魔にもなるし。でも、気持ちの整理が。
でも、でも、と逡巡するうち、霞は黒く塗りつぶしたキャンバスみたいな、暗い気持ちになる。自分には、欲望がある。あれをこうしたい、それをああしたい、といった支配欲のようなものが、本当はある。けれど、いつも自分の中の、他人の視線を気にする自分が、自らの欲求を挫く。そんなことをしたら周囲から見放されると霞の行動を変質させる。恋人に対してもそうだ、よく勉強しているね、と褒められると、その期待に応えたくて、いや、応えなければならないような気がして、でないと失望される気がして、本当は意欲がないのについ勉強するポーズを取ってしまう。自分の意向を大事にせずに、頑張ってしまう。それが苦しくてたまらない。自分を曲げると自分が波にさらわれる砂の城みたいに損なわれていく感覚がする。自分が静かに瓦解していく気分。本当は自由にしたいのに。思うがままに生きたいのに。
少年が、たん、たん、たん、と音を立ててリフティングしている。まるで糸で操っているかのようにボールを自在にコントロールしている。
ふと、霞は思い出す。さっきの、ボールを蹴った時の感触。硬いのに弾力があり、重みもある。ボールは霞の意に沿わず、イメージより少し遠くに飛んだ。
サッカーボールを、随意にコントロールできたら?
霞は頭の中で、歯車が噛み合う音を聞いたような気がする。それはほんの小さな音だったけれど。
人生とサッカーボールは全くの別物だ、サッカーボールを思い通りにコントロールできるようになったからといって人生も思い通りに拓けるわけではない、そんな夢物語はあり得ない。けれど。
ゆっくりと、霞は少年に歩み寄る。高校生辺りで置き忘れた胸の高鳴りが、まるで文化祭や体育祭に出場した時の高揚が、霞の中に蘇る。夜の公園でいい歳した大人が子供に声をかけるなんて、後で通報されたりしないだろうか、と、あながち冗談とも言えない心配を感じつつも霞の覚悟は揺るぎなく固まった。
再び接近を始めた霞にやや遅れて気づくと少年は、戸惑いと少しの恐怖を顔に浮かべ、蹴り上げていたボールを小脇に抱え、体を霞に正対させる。霞は、声を外さないよう、気持ちを可能な限り落ち着かせ、口を開いた。
「あの」
少年の、ボールを抱える手に力が入る。
「私」
警戒の色に歪んだ少年の表情が、やや疑問符に傾く。
「私、その、やってみたいんだけど。リフティング」
冷えた風が吹く。身を少し固めた霞に、やはり硬い顔ながらも少年は、いいけど……、と、不審の中にどこかふてくされを感じさせる声音で答えた。