生まれた日
あるところに小さな港街があった。
街には大きな通り中央通りが街の入口から港までの東西を分断している。中央通りからはいくつかの通りが東に西に伸びていた。
港はいつも漁業で賑わい、信仰深い漁師達は朝早くから神に祈るため、中央通りにある小さな教会へと向かうことが日課になっている。
港から教会へと向かう道には、屋台の準備をしているのだろうか、いくつもの馬車が並んでいる。準備をしている馬車からはいい香りが漂っていた。
それからしばらく行くと、教会が見えた。道を挟んだ反対側には市場がある。市場には、今朝上がった新鮮な魚や土が少しついたままの野菜、香りの良い果物などが陳列されている。そのためか、朝早くから遅くまで賑わいを見せた。それは市場がある商業通りはもちろんだが、中央通りまで人だかりができているほどだった。
住民達の多くは、健康的な生活を送っているようで、教会のミサには多くの人が訪れている。農業をしている人も多く、みな生き生きとしていた。
だが、中には港に近い中央通りのにある酒場で朝から飲んでいるものや、港で酔いつぶれている者も多く見えた。
そんな小さな街では、教会の神父の妻が産んだ子供の話題でもちきりだ。神父の子供であり、街で初めて獣の刻印を持っているから話題にならないわけがなかった。それを神父は、あまり心良くは思っていない。誰でもそうだろうが、自分の子供につく悪い噂は気分が悪かった。
それでも、市場や酒場、港に至るまでどこでも神父の子供の噂ばかりで、漁師ですらウンザリしていた。それほどまでに神父から獣の刻印持ちが生まれることは珍しいことなのだ。
当の神父といえば、信心深くて街のみんなに慕われていたことや、決して贅沢をせず布の服で神父をしているものだったので、尚のこと噂は止まることを知らない。気にしないように努めていた神父は、小さな教会の一室で子供をあやしていた。そして同時に神を初めて恨んだ。
(これはあんまりにも残酷じゃないか……神よ……どうして私の子供にこんな試練を与えるのですか……?)
子供を産んで疲れて眠っている妻に気が付かれないように、心の中でつぶやいた。
神父はとても疲れているようで、やつれた顔で子供の手の甲にある刻印を眺ていた。こんなものさえなければという苦悶の表情を浮かべ部屋を出た。
部屋を出て廊下を玄関までゆっくりと歩き家を出た。神父は今日が知り合いのためにミサを行う日だと思い出したのだ。
外で深呼吸をして落ち着こうと考えたのだ。ドアの前で深呼吸をし、ゆっくりと息を吸い込んだ。それから眼前の中央通り、そしてその先にわずかに見える市場を見て落ち着きを取り戻した。
落ち着きを取り戻した神父は、家の横に咲いていたアサガオの香りを感じられるほどにはかいふくした。そうして、ゆっくりと礼拝堂へと向かった。
神父はだれからどんな仕打ちを受けようが、ミサだけは絶対にサボらないと決めていた。いつものように小さな礼拝堂で祈りを捧げる。集まった漁師たちのために祈るのだ。
神父が十字を切ることによってミサは始まった。それから少しの間、祈りが捧げられた。
祈りが終わると、小太りで身長の高い顔立ちのいい男が神父のもとへと駆け寄ってきた。その男は漁師の中でも『頭』と呼ばれる男で、神父の子供に対する噂のことを心配していたのだ。男は若くして薄くなってしまった自身の頭をなでながら、神父に申し訳なさそうに囁いた。
「あなたのお子さんのことは、なんというか……すみません、言葉が出てこねぇ……
あなたは私達のために祈ってくれているというのに、私はあなたに恩を返すことすら出来ないのか……」
彼は煮え切らない言葉を発しただけで黙り込んでしまった。神父はそれが自分に気を使ってのことだは気がつき有り難いと感じた。
だが、慰められてばかりいる自分を情けないとも感じた。自身が神の教えを説く立場であるにもかかわらず、なぜ神を恨んでばかりいるのかわからない。
神父もまた、誰かに教えられることが多かった。
このまま黙り込んだままでは心配をかけると思い、精一杯元気に振る舞った。
「いえ、私は大丈夫です。確かに僕の子は刻印を持って生まれてしまった。だけど、なにがあろうが僕の息子だ。何をしようと僕だけはあいつを信じますよ。」
神父の言葉を聞いて安心した頭は、それ以上は刻印のことに触れなかった。ただ「おめでとう」とだけお祝いしてくれた。それにつられ、他の漁師たちも代わる代わる祝の言葉をくれた。
それだけで神父の心は軽くなり、子供と向き合うための心の余裕が生まれた。息子が生まれてきたのが漁師達が海に出る直前でよかったと思う神父であった。
神父はミサを終えると、漁師達を見送るために港へと来た。海の様子は良好で波も比較的に穏やかだった。神父には漁のことがよく分からなかったが、素人目に見ると安全そうに感じため安堵する。
「さすが神父様が祈ってくださっただけはある。これなら安心して漁に出られるよ。」
漁師の頭が愉快そうに笑い声を上げた。その様子に神父も笑った。そうして、再び十字を切り漁師達の安全を願った。
疲れもあったのだろう、海の潮は匂いがきつく、神父は匂いに酔ってしまったようで立ち眩んでしまう。それがまた漁師を心配にさせた。
「神父さん。大丈夫ですか?」
「すまない、少し海の香りに酔ってしまったようだ。でも、もう大丈夫だよ。」
急いで弁解し、漁師に心配ごとが残らないようにした。それから、少したち漁師達は海へと旅立った。漁師達がいなくなった港は活気を失い元の姿へと戻るのだった。
神父は漁師達の出航を見送ると、急いて帰路に就く。妻はただでさえ不安なはずだ。潮の香りがまた心音を速めた。
(早く帰らなければ……)
そう思うが、急げば急ぐほど悪いことが起きるのが世の常である。港から協会までの最短ルートである中央通り、そこを通れば10分もかからないはずであった。しかし、今日は街1番の漁師達が出航する日ということもあり、中央通りはいつもよりも人が多い。
いつもある出店だけではなく、他の町から来たであろう行商人達までもが道を塞いでおり通ることすら出来ない。
それに、行商人達が売っているものは神父の目から見ても珍しいものばかりで、目移りしてしまう。
例えば、そこで煌びやかなドレスのような服を着ている男性は、大きな鉄の鍋を物凄い大きな火であぶり肉料理を作っている。そのパフォーマンスだけでも眼を見張るものがあるのに、その肉料理の匂いも足を止めさせた。
その男の店の反対側で、暑そうなコートを来た男がやっている屋台の白いスープの香りも堪らない。
他のどの店からもいい香りが漂い、食欲をそそる。そんなものがあった時には大行列が出来ていても不思議ではない。
神父はあまりにも多い人に当てられ、気分が悪くなった。そのため、仕方なく遠回りすることを決めた。
神父は大通りを通り家に帰る算段を立てたが、港から大通りまで行くことすら叶わなかった。そのため、いつもは通らない路地に入らざるおえない。路地は非常に狭く、人が1人入るのがやっとだ。
(こんな場所があったのか……)
初めて通る道に困惑しながら、急ぎ足で奥へと進んだ。路地を少し奥に行くと左右に道が2つ別れており、神父は迷いもせずに教会の方向、すなわち右の通路へと入った。
そこはあまり気持ちの良いところではなかった。空気は湿り、ゴミはもちろん家畜のフンもそのまま放置されていた。それに、何より気持ちが悪かった。
(流石にこれでは、精神的によくはないだろうけど仕方がない……。急ぐためにはここを通る他ないな……)
神父は出来る限りゴミなどを避け、狭い通路を通ったが、全てを避けることは出来ないほど不衛生的だった。
臭いはかなり酷く、吐き気を催すほどのものだ。何せ壁に囲まれた空間だから、臭いが抜けることもない。おそらく、以前通った人が我慢しきれなかっだのだろうか、嘔吐物が溢れており、その刺激臭も酷いものだった。
(よくこんな場所を放置出来るものだな……)
狭い通路を抜けると少し開けた場所だった。神父は臭いから解放されるとともに安堵を覚えた。狭いことは変わりないが、圧迫されているという感じがなかったからだろうか。それとも、先ほどまでとは違い、自然が溢れているからだろうか。だが、人から見放された場所であることには違いなかった。
雑草に囲まれたそこには井戸があり、周りに何もなく木のバケツが1つころがっているあるだけだ。そこは不思議な場所だった。上を流れる雲はどこかいつもよりも美しく、周りも家の壁に囲まれていおり、先ほどの通路とさほど変わらないはずだ。
それなのにここにだけはゴミなど一切ない。神父は不思議に思った。
(どうして、こんなにもこころが洗われるのだろうか? それにここには人が通った形跡すらないのはなぜだ?)
神父は我慢出来ず、家へ帰るのも忘れ井戸を覗き込んだ。
それからというもの、神父の姿を見たものは誰もいなかった。神父がどこへ消えたのかを知るものはだれもいなかった。
家で待っていた妻は、見送りから帰らない神父を心配していた。最初こそすぐに帰って来るだろうと悠長に構えていた。それもそのはずで、神父はこの日になるといつも買い物をしていて遅くなる。だから気にする必要はないと思った。
しかし、さすがに丸一日帰らないとなると話は違う。妻は子供を抱えながら、近隣の家をかけまわったが、結局見つかることはなかった。
どうして、神父が姿をくらましたのかは、妻を含み誰にもわからなかったが、息子の刻印が関係しているのではないかと噂になった。
しかし、神父のことを慕っていた街の人達は、神父がそんなに薄情者ではないことを知っている。それに、漁師達の証言からも神隠しにあったのではないかと結論づけた。
それからというもの、行方不明になった神父の話は有名になった。最後に神父と話した漁師の頭は自分のことを責め続け、いつも神父の妻と子供に世話を焼いている。
それから、月日はながれた。神父がいなくなってからというもの、行方不明が増え始めたのだ。その原因はわからないが、神隠しが噂されている。
なんでも、この街には存在するはずもない路地が稀に現れる。その路地は心に余裕がない者の前に現れ、いつも形は違うらしい。
ただ、1つだけ同じ部分がある。それは最後に繋がっているところは同じところだということであった。
この噂は、街の住民を恐怖に陥れた。別の街から来た青年が流した噂ではあったが、街の人達の証言からも信憑性は高いからだ。それからというもの、街で見たことのない路地をみた者は、絶対に入らないようになったという。
結局、噂は噂である。いつの間にかなかったかのように誰も話さなくなった。しかし、神父のことだけはいつまでも忘れられることはなかった。