夜明け
潤は冬の日の朝、とてもひっそりと亡くなった。
乗り込んだタクシーの運転手が「今日は霞んで見えないんでゆっくり行かさせて貰いますよ」と、フロントガラスを見据えたまま口にする。
酷い霧が辺りを真っ白に染めて、どんなにワイパーが頑張った所で、ほんの先も見ることが出来ない。
けれど、焦って行く必要はどこにもない。もう、焦る必要はなかった。
潤は眠るように逝ってしまったのだから。
「こういう日の昼間はほんと気持ちいいほど晴れ上がるんですけどね。とにかくこの靄が切れてくれないと危なくって」
のろのろと運転しながら年配のタクシー運転手がぼやく。理央は隣に居る母と二人、ただ黙ってそれを聞いていた。
潤が居ない世界。神山も居ない。理央は何も見えない。世界は白くて何も見えない。
ぽたりと膝に滴が落ちる。世界がぼやけるのは、自分の目から溢れる涙のせいでもあることに気が付く。
本当に何も見えない。理央が小さく震えて、母親がそっと差し出してきた手を、手探りで掴んでいた。
*****
葬式も何もかも終えて、理央が喪服姿のまま力なく祭儀場の椅子に腰かけて居たら、朔が寄って来た。
すぐ横の椅子に座ると、手にしていたジャケットを弄って、封筒を一枚取り出す。
「これさ、ずっと前から預かってたんだ。この日が来たら渡すようにって」
そう言って理央の前に突きだされた封筒は見たことのある文字で『理央へ』と、記してあった。理央は封筒を受け取ると中身をゆっくりと引き出す。折りたたまれた紙を広げると、やはり見慣れた文字で文章がつづられている。
理央は顔を上げて朔に顔を向ける。
「朔の字」
朔はふっと力を抜いて笑って「そうだよ、さすがだな。潤に頼まれて潤の言葉を、俺が書いた」そう言って読む様に勧める。
「話せた頃、潤が自分で言った言葉だから。何度も二人でやり直して書いた言葉だから」
朔はそれを言うと、頬を伝いそうになった涙をワイシャツの袖口で拭った。
『理央へ
何から話せばいいのか、解りません。
僕は死に、沢山の事から解放されたとそう思って欲しい。
理央は僕にとって憧れでした。いつも元気よく走り回って、よく笑い、よく話す。
僕の出来ないことをなんでもこなす、僕の憧れの人でした。
そんな理央を僕は自分のエゴで独占することを選んでしまいました。
結婚してくれたこと、僕は嬉しくて本当に嬉しくて、そして、辛かった。
僕は死ぬくせに、君を縛り付ける結婚をしてしまいました。
幸せなのに苦しくて、理央が好きなのに苦しかった。
僕は死んだらすべてを忘れるつもりです。
ずっと好きだった君の事も、自由の効かない身体の事も、全て忘れて真新しい人間に生まれ変わるつもりです。
だから、理央も僕を忘れて欲しい。
僕は忘れるから、理央も忘れてください。
ずっと好きでした。でも、僕は死んで僕の思いも一緒に死にます。
理央は新しい人と、恋愛して、結婚して、幸せな生活を送ってください。
僕の過ちを赦してくれるなら、幸せになって僕を喜ばせてください。
僕もきっと新しい人生を謳歌しているはずだから。
理央も幸せになって。それが僕の願いです。
ありがとう、ずっと君だけを愛してました。
幸せになるんだよ、理央 』
「理央のしたことは凄いことだと思うよ。俺だったらいくら望まれても結婚はしなかった。潤も実際、理央が結婚してくれるってなって、驚いていたし、困ってたかな」
理央が手紙を読むのを止めて「困ってた……」とオウム返しに言う。
「ああ、実際潤は理央を好きだったけど、理央がそこまで潤を思ってなかったのは皆解ってたしね。でも、潤は好きだったからやっぱり結婚しなくていいとは言えなかったんだよ。結婚出来るならしたいと思ったって言ってた」
朔が手紙を指さして「それ、綺麗ごとじゃなくてさ、本心だと思う。生きてる間はどうしても言えなかったけど、ちゃんと本心だよ。だから、理央は理央の人生を歩むべきだ。潤の事は忘れてやって」言い終わってから指を引っ込める。
「神山って人どうしてる?」
理央は瞬きをして「もう、一か月以上連絡とってない」と、言う。
「連絡しろよ、好きだっただろ?」
理央は俯いて「解らない」と呟く。
朔はため息を着いて「もういいんだよ、好きだって思っても、好きだって言っても。もういいんだから」そう言って理央の肩を叩く。
「なぁ、潤だったらなんていうかな。『理央、好きにしたらいいんじゃない? 理央は素直なのが一番性にあってるよ』とか、言うんじゃねぇの?」
余りにも朔の潤の真似が似ていたから、理央は思わず肩を震わせて、堰をきったように泣きだす。元気だったころの潤が乗り移ったみたいで、理央は懐かしくて涙が止めどなく溢れて来る。
「神山さんが好きです」
泣きじゃくりながら言う理央に「それは本人に言えよ」と朔がポケットからハンカチを取り出して、渡してくれる。理央は差しだされたハンカチを俯いたまま受け取ると、ゆっくり顔を上げる。
そこにいるのは朔で潤じゃない。それがまた理央の涙を誘ってわんわんと泣きだす。何かあると持っていたハンカチを差し出してくれた潤はもう居ないのだと、涙がこぼれ落ちて止められなかった。