部屋
暗いんだ。部屋の天井から垂れ下がっている丸い蛍光燈を点けても、四隅が仄かに明るい程度だ。
暗いんだ。四方の白い壁が薄暗い。もぞもぞと陰が浮かび上がる。
座敷の中央で正座しながら、カップラーメンの三分が経過するのを待っていた。砂時計をちらちらと何度も見ていたから、神経質になっているのかもしれない。紙の蓋が開かないように重石の代わりとして珈琲カップを置いといた。
暗いんだ。その中に淹れた珈琲が、どす黒い。
砂糖を少し入れただけで牛乳は追加していない。湯気が立っている。カップの中を覗こうにも――当たり前だが――底までは見えない。
スプーンで掻き混ぜる。何もない、と想う。
掻き混ぜる混ぜる混ぜる。
何もない。
ない筈だ。
この座敷にいるのは、卓袱台と僕だけだ。
入る時には誰もいなかった。
今は、いる。
いる?
卓袱台の向かいにいる。顔も躯も、全てが黒い。
有り得ないだろ。
首を振ってもう一度確かめる。
やはり、黒い。
いる。
誰だ。
何だ?
そもそも誰だって何だ。人間なのか?
何時からそこにいたのだろう。
僕はどうして気づかなかったのだろう。
見るなよ。こっちに顔を向けるなよ。その無表情はやめてくれ。嫌いなんだよ、誰かの目がすぐ傍にあるのは、厭なんだ。
相手は正座していた。辛くないだろうか。僕は足の裏が痒くなっている。
黒い手がこちらに伸びた。背筋が凍った。
手はカップラーメンの容器を掴んだ。カップをゆっくり卓袱台に置くと、暗いそいつは蓋をベリッとめくり、割り箸を綺麗に割ると、食べ始めた。
ずるずると、仄かに明るい部屋にその音がした。他には、僕の荒くなる息遣いくらいだ。
人間、なのか?
僕は観察した。
その人でいうなら、顔の口の辺りが開いた。黄色ばんだ八重歯がちらっと覗けた。
「いやぁ助かった」
そいつは低い声で話しかけてきた。低い声だ。男性だろうか。がっかりした。
「腹が減っちまってよぉ」
姿勢を崩し、影は胡座になった。
「なんで僕のカップ麺食ってるんだよ」
「なんでって。これ、俺のだろ?」
僕は呆然とした。見ず知らずの相手にカップラーメンを作った覚えはない。
「返せよ」
「厭だよ」
「ふざけんな」
ダン、と卓袱台を叩いた。
痛い。
カップラーメンで躍起になっている僕がいた。影は容器を大事そうに持った。
「そんな向きになるなよ。たかだかカップ麺だろ。いいか。そもそもこの部屋は誰の部屋か、解ってるのか?」
「僕の部屋だ」
影はゆらゆらと首を振った。
「違ぇよ」
「そんな筈はない。僕はあの水道から薬缶でお湯を」
沸かしたんだと指差そうとしたが、この座敷には、ガス、水道の類はなかった。ぐるっと見回すが、何もない。影の後ろに窓がある。
四方は、白い壁ではなかったのか?
「そんな、莫迦な」
振り返ると、影はけらけらと笑っていた。
「お前は莫迦だ。コンビニのポットで入れてたじゃないか。寒い中、零れないように慎重によちよちと歩いていたくせに」
「この珈琲は」
「それも同じポットからだ。飲まないなら俺が貰うぞ」
影の手が掴むより先に、僕はカップを取った。飲んだ。熱い。舌が焼ける。
影は大きな声で笑い、呆れたようにいった。
「少しは冷ましてから飲めよ、お前、猫舌なんだからよ」
舌がひりひりする。
「砂糖要るか?」
影の手にスティックシュガーがある。僕ははっとした。
「なんで猫舌なのを知ってるんだよ」
影はスティックシュガーをササッと入れ、スプーンで掻き回していた。
「知ってるからだよ」
影はカップラーメンを啜る。
「ここは誰の家なんだ」
「知らねぇよ」
知ってるんじゃなかったのか、と訊いた。
「ここは、俺の家でもお前の家でもないってことだよ」
「知らない人の家にどうやって入ったんだ」
「ん、あの窓」
影は麺を啜りながら、後ろ手の窓を指差した。
あの窓だ。いつからあった。ここは四方を壁に囲まれた部屋じゃなかったのか。
「お前は莫迦だな。そりゃあ四方には壁紙が貼ってあるよ」
でも、と影は天井を指差す。
「よく見ろよ」
頭上で辺と辺がぶつかっている。五つある。
五角形だ。
「解ったろ。そもそもこの部屋の入口は、あの窓だけなんだ。住人はどういうつもりで、こんな作りにしたのか疑問だ」
住人は、いるのだろうか。
こんな、意味のない部屋に。
そんな莫迦な。
僕は間違いなく、この建物の住人だ。四隅が怖いから隅を一つ増やしてもらったのだ。
だったら目の前でカップ麺を食べているこの影は、何だ。
まさか――
卓袱台に置いた砂時計の砂は、すっかり落ちている。
「俺の家で何やってやがる」
背中に声がかけられた。振り返ると、男がいた。彼の背後の白い筈の壁が黒い。
また、こいつも影なのか。
それにしては、輪郭がはっきりしている。五十代、額はつるつるに禿げている。
「何やってるんだって聞いてんだよ。いいか、そこにいろよ。警察呼ぶからな」
男は闇に消えた。男の独り言が聞こえてきた。闇の先に仄かに光の筋が見える。
カップラーメンが消えていた。図々しい影も消えている。
僕は珈琲カップを掴むと、光を求めて走り出した。




