第82話 なくしたもの
俺は速く走るコツってやつをつかんだ。走ろう、走ろうとすると、ついつい腿を高く上げたくなってしまうが、そうじゃない。肝心なことは、とにかく身体を前へ前へと進めることだ。しかも、スムーズに進める。そのために、とにかく地面を蹴って自分の身体を押しだす。走る、というよりもあくまで、進む、というイメージだ。全身運動で自分の身体をどんどん推進させる。それを妨げるものはぜんぶ削ぎ落とし、切り捨てる。
だから俺は当然、銃も放り投げた。
手ぶらで走った。
走りに走った。
歩くのは苦にならないが、走るのは好きじゃない。疲れるしな。息が切れて、身体中が軋む。はっきり言って、苦痛だ。
それでも、この感覚は悪くない。風を切って走るっつーのはこういうことなのか。
これでモサに追いかけられていなければ、もっとじっくりこの快感を味わえるかもしれない。ただ、追いかけられているからこそ、こんなふうに走ることができている。そんなふうにも考えられる。だとしたら、俺はむしろモサに感謝するべきなのかもしれない。
できるものなら、だけどな。
今のところは、とてもじゃないが感謝なんかする気にはなれない。
俺は振り向きたい。モサとの距離を確かめたい。その欲求、衝動は強力だ。あらがいがたいが、何が何でもあらがわなきゃならない。顔だけちょっと振り向かせる。その些細な動作は間違いなく俺のフォームを狂わせる。今はひたむきに走れ。走れ。
ただ走れ。
そのポイントめがけて、走れ。
背中がゾクゾク、ゾクゾクする。やつが、モサが迫っている。
俺はなんでまだ生きてるんだ? そんなことを思う。もうモサにバクッと食われてもいいころだ。なんでそうなってねーんだ?
俺は奇声を発したくなる。ウヒョーでもウハーでもヤッホーでもギャヒーでも何でもいい。声を出したい。口許に引きつった笑みを、いや、顔中を引きつらせ、目を見開いて、走れ、走れ、走れとひたすら念じている。そんな自分が馬鹿に思えてきて、叫びたい。叫ばせてくれ。楽になりたい。解放されたい。
だけどな。
もうだめだ、なんて思うものかよ。それだけはない。どうせだめなときはだめだ。終わるときは終わる。モサが俺との勝負に勝てば、つまり、俺に追いつけば、俺は食われる。そこでゲームは終了だ。それまでゲームはつづく。今もつづいている。つづいているかぎり、だめだなんて考えるのは無駄だ。生きているかぎり、俺はこの勝負を捨てない。捨てる必要がないからだ。
大丈夫だ。翡翠濡れ草は確保した。ミリリュが持って帰ればイチカが助かる。そんな余計なことを考えるな。負けたときのことなんかどうだっていい。でも翡翠濡れ草のことは言っときゃよかったかなと思う。ミリリュとハイネマリー、それからドンにしっかり言いふくめておくんだった。だからよせって。くだらねーぞ。いいから走れ。走れ。走れ。
どうせもうすぐだ。
あとちょっとだ。
そのとき、俺は弱気になった。ようやくだ、やっと終わる、終わらせたい、きつい、きつすぎる、もういやだ、ゴールだ、そんな気持ちがいっぺんに押しよせてきて、俺は安堵した。そのことに俺は気づいた。
よくねえ、と思った。
ここで、この肝心なときに気をゆるめるのは阿呆だ。俺は阿呆に成り下がっている。阿呆の俺はきっとしくじる。何か悪いことが起こる。このままいってしまいたい、どっちにしろ終わりだ、そんな甘ったれた根性に押し流されまいとして、俺はあえて振り返った。
「ひょう……!」
と変な声がもれた。
モサが大口を開けていた。
食われるな。
こりゃ食われる。間違いねえ。いや。
間違いねえ、とかな。
ねーよ。
間違いなくたって、間違いにしてやる。俺は自分の勘に従って振り向いた。おかげでモサ、おまえの顎から逃れるチャンスをえたってわけだ。さすが俺だ。
つーわけで、チャンスはある。俺の目の前にぶら下がっている。
あとは俺がそれをいかせるかどうか、だ。
「っ……!」
当然、俺はチャンスをモノにしてやるつもりだ。
俺は跳んだ。後ろはない。やつに食ってくれと頼みこむようなものだ。前も同じだ。前に身を投げだしたところで、やつの口は俺に届いてとらえる。
右か。
それとも、左か。
俺は右を選んだ。
とっさに、俺の位置がモサの正中線から右に寄っていると見てとったからだ。言うまでもなく、俺は左右どっちか一方に同じだけしかジャンプできない。もともと右寄りにいるのだから、右に跳んだほうがまだしもやつの「かぶりつき」から逃れられる可能性が高いと考えたわけだ。
ただ、不恰好な逃げ方になった。俺は振り返って、半分くらいモサのほうに身体を向けていた。その状態で右方向に跳んだら、変に上体が残るような体勢になった。モサの上顎と下顎が噛み合って口が閉じる瞬間を、俺は目の前で見た。そのときは何も感じなかった。ただ、おわっ、すげー、としか。
それから、自分が生きていることを知った。俺は食われなかった。チャンスをモノにした。どうだ。ざまあみろ。
モサがムオオオンと吠えながら頭をもたげて首を振り、隻眼で俺を睨んだ。次は食ってやる、とやつの血走った目が言っていた。
「やってみろよ……!」
俺はせせら笑ってまた走りだした。
妙だな、と思った。
どうもバランスが悪くて、走りづらい。何だ? 疑問を抱きながらも、俺はそのポイントへと向かった。もうちょっとなんだ。本当にあと少し。モサは完全に俺という餌に食いついている。俺を食わずにはいられなくなっている。俺がそう仕向けた。モサは俺の術中に嵌まって、また俺を追いかけようとしている。そうだ。いいぞ。こいよ。こい。こい! こい……!
それにしても、おかしいよな。
何がおかしいって……、
左腕だ。
俺の息は弾んでいる。俺は馬鹿みたいに汗をかいている。さっきまでとは明らかに違う。身体がおかしい。
ちらっと、左腕に目をやった。
ぎょっとしなかった、と言ったら嘘になる。
……ない。
俺の左腕が。
肘の少し下から、きれいさっぱりなくなっている。
どうやら、モサのやつに食いちぎられたらしい。マジかよ。
そうきたか。そうきやがったかよ。わはは。マジか。マジだ。俺は左腕を半ば失った。事実だ。現実だ。そうくるとはな。くそ。上等だ。くそったれ。上等じゃねーか。
血か。さすがに出血がやばいレベルだった。だったっつーか、今も血がドバドバ出まくっている。それでか。
やたらとふらつく。力が抜ける。痛みはまだない。ジワアァァとしみるみたいな、いやな感覚はある。かなりいやな感じだ。
「それが……っ!」
どうした。なくしたものを嘆いてどうなる。どうにもならない。戻ってくるわけじゃねーんだ。ふらつくとかいやな感じとか言ってる場合かよ。
俺は力を振りしぼって走る。
こうなったらフォームもクソもヘッタクレもない。つんのめりそうになっても、身体を前に出す。進める。倒れたら這ってやる。腕がどうした。知ったこっちゃねえ。進め。おら、進めよ。進め。突き進め……!
もうそこだ。
そのポイントに俺はたどりつこうとしている。
モサが吼える。ムオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンと吼えて、スピードに乗ろうとしている。おまえもこい、モサ。
「いっくぜえええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ……!」
俺はついに踏みだした。
そこには地面がない。
草木に覆われて目立たない、崖だ。
その下は、谷底。
俺は落ちる。転落する。
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