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大英雄が無職で何が悪い  作者: 十文字青
sacrifice for liberty編
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第71話 青い谷



 船が動きはじめると、ジャンカルロはしゃべらなくなった。こっちの経緯を話しても無反応。何か訊いても答えない。そう強くはない風を読んで、帆の向きを調整することに集中しているのか。それも何か違うような気がする。ジャンカルロの顔には笑みらしきものが浮かんでいた。きっとこの男は楽しんでいる。船を操るのが好きなのだ。


 やがて俺たちも口をつぐんだ。


 海が凪いでいるせいもあるにしろ、船がこんなにも静かに、滑らかに進むものだとは思っていなかった。


「……すごく、速いです」

 出港してずいぶん経ってから、ギンジーがぽつりと言った。

「この船。僕、帆船のことはまったくわかりませんけど、それにしてもこんな弱い風で、こんなに……」

「気持ちいいのだ……」

 ハイネマリーは夜風に目を細めて、うっとりとしているみたいだ。

「海か……世界はすごいな……こんなものがあるとは……」

「ええ」

 ミリリュが微笑んでうなずいた。

「本当に……」

「オレ、船、何度も乗った」

 ドンは少し眠そうだ。

「この船は、イイ。イイ船だ」


「ハッ……」

 ジャンカルロが顎を上げて短く笑い、ようやくしゃべった。

「コルネリアを褒めるやつが、まさかおれ以外にもいるとはな」


「コルネリアってのはこの船の名前か」

 俺が尋ねると、ジャンカルロは、

「ああ」

 と答えた。

「だが、てめえらはその名で呼ぶんじゃねえぞ。コルネリアがつむじを曲げちまう。こいつはおれにだけ愛されればいいのさ。偏屈な女なんだ。あと、黙っとけ。もうここは連中の縄張りだ」


 気づいていなかったわけじゃないが、暗いせいもあっていまいち遠近感がない。そうはいっても、だいぶ近づいていることはわかる。


 涙の島だ。


 その名の由来は、島の形が涙滴型だからだとか、この島にある泉の水が涙みたいにしょっぱいからだとか、何十人もの女がここで死ぬ事件があったからだとか、諸説あるらしい。

 とにかく、この島はずっと前から海サハギンの領土だったわけじゃない。もともと海サハギンは、もっと北のほうの海岸線と島嶼群に住みついていて、そこから南下してきて涙の島を占領したみたいだ。それまでこの島には小さな漁港があって、集落も存在したという。海サハギンは侵略者なのだ。


 ジャンカルロの船は涙の島に接近してゆく。でも、まっすぐじゃない。どうやら、ヴェーレから見て裏側に回りこもうとしているようだ。おそらく、そっちのほうが手薄で見つかりづらいのだろう。


 翡翠濡れ草は涙の島の北西部にある紺碧洞という洞穴で採れる。北西部といったら、それこそ裏側のほうなので好都合だ。


 俺たちは口を開かないどころか、ほとんど身じろぎもしなかった。


 ジャンカルロだけが悠々と身体を動かして船を操っている。


 本音を言うと、何事もなく島に到着するなんて思っていなかった。何か起こるだろう。そうやすやすとは上陸できないに違いない。そんなふうに予想していたのだが、ジャンカルロの船は岸壁にあいた穴にスゥーッと吸いこまれるように入っていった。


 中は暗いなんてものじゃない。光が一切ない真っ暗闇だ。ジャンカルロが魚油のランプに火をつけるまで、さしもの俺も息がしづらかった。


「慣れてるな」

 と俺が言うと、ジャンカルロは、ハッ……と顎を上げて短く笑い、

「そうでもねえ。昔、何度かきたんだ。度胸試しってやつさ」

「……それは……命懸けなのでは」

 ミリリュが少し掠れた声で言った。

 ジャンカルロはちょっと間を置いてから、

「おれはいやだったんだが、妹がはねっかえりでな。あぶねえことばかりやりたがった」

「妹御がいるのか」

 ハイネマリーの問いかけとも言えない問いかけに、ジャンカルロは肯定も否定もしなかった。

 わけありか、死に別れたか。

 そんなところだろう。


 ジャンカルロは程なく船を止めて、錨を下ろした。岸までは一メートルかそこら。その間に、ランプの明かりに照らされて緑色に見える海が横たわっているが、跳び越えられないような幅じゃない。


 ジャンカルロは残るのかと思いきや、湾刀を引っ提げてついてきた。俺たちは手探りで洞窟をあとにした。入ってきた海側じゃない、別の出口だ。


 夜空の下に出ると、そこは小高い岸壁の中腹だった。窪地が見おろせる。いくつかだが、明かりがあった。海サハギンの集落らしい。


 アウギュストの小姓だか弟子だかのダンテが書いてくれたメモを広げても、この暗さでは読めない。俺は記憶を頼りに場所の見当をつけた。翡翠濡れ草は三角山の麓にある青い谷とやらに自生しているらしい。三角山。あれか。こぢんまりとした山だが、シルエットが三角形で、いかにも三角山だ。俺たちは涙の島の北西部にいて、今は東を向いている。青い谷は、三角山の北。つーことは、だいたいあのあたりだな。


「どのへんだ」

 とジャンカルロに訊かれたので指さしてみせると、やつは、ふうむ、と唸って、

「往復三時間ってとこだな。戻ってくるころには明るくなりはじめてるかもしれねえ」


「……い、急ぎません?」

 ギンジーは早くもうろたえている。

「僕ら陸サハギンは夜にも漁をするんですけど、海サハギンは基本的に朝型なんじゃないかなーとか……見つかっちゃったら、ちょっとやばいと思いますし。ちょっとっていうか、だいぶっていうか、かなりっていうか、洒落にならないんじゃないかなみたいな……」


 言われるまでもない。俺たちは歩きだした。まず三角山を目指す。山裾らへんについてから北へ向かえば、青い谷とやらを見つけられるだろう。


 海サハギンが住みついているといっても、大部分は森林のようだ。たぶんやつらは、窪地や海辺の平地に集落を作って、そこで寝起きしている。陸サハギンが湖でとれる魚や水草を食べて暮らしているように、海サハギンの主食は海産物だろうから、そう森の中をうろついているとは思えない。もちろん最低限の注意は払わないといけないが、それよりまず、朝がくる前に用事をすませて島を離れないといけない。そっちのほうが重要だ。


 俺たちは黙々と歩いた。息が弾むほどの速度で歩きに歩いた。


 三角山まで、ついてしまえばあっという間だった。そうして俺たちは北側に回って、唖然とした。


 青い谷らしき谷はすぐに見つかった。まだ真っ暗でも、あれなら一目でそれとわかる。


「ヌウ……」

 とドンが腕組みをして唸った。


 明かりだ。


 谷に三つ四つ、明かりが灯っている。


 集落がある。


 あの谷には海サハギンが住んでいるのだ。


「クッ……」

 ジャンカルロは噴きだして、俺の肩を叩いた。

「最悪だな。どうする」


「ほ、他に……」

 ハイネマリーはきょろきょろして、

「他に谷はないのか? まだあるかもしれぬぞ。あれは青い谷ではないかも……」


「……そうです、ね」

 ミリリュもハイネマリーに同意した。

「とりあえず、近くに別の谷がないか、探してみるというのは……」


「そ、そうと決まればっ」

 と、ギンジーが逃げだすように駆けだそうとした。

 俺がその襟首をつかむと、首が絞まる形になったみたいで、ギンジーは、

「ギィヨッ!?」

 と呻いてじたばたした。


 俺は手を放してやって、首を左右に曲げた。

「おまえらはここで待ってろ。翡翠濡れ草があるかどうか、確かめてくる。なかったら他を当たればいい」


「キ、キサラギ様お一人で……っ!?」

 ミリリュがすがりついてきた。

「危険です、どうかお考えなおしくださいっ」

「どけ」

 俺はミリリュの手を振りほどいた。

「うだうだやってる時間はねえ。行ってくる。ドン」

「ウム」

「こいつらを頼む」

「任せろ」

 ドンは余計なことを言わない。止めても無駄だとドンはわかっている。きっと、ドンが俺だったら同じことをするからだろう。


 俺は銃を片手に一度も振り返らず谷間の集落へと近づいていった。


 怖くはない。考えてもみろ。自分たちのテリトリーに人間が入りこんでるなんて、海サハギンたちはこれっぽっちも思っていないはずだ。ヴェーレのやつらは海サハギンを嫌悪しているが、それ以上に恐れている。海サハギンの南下で勢力圏が接しなければ、触らぬ神に祟りなしでいけたかもしれないが、そういうわけにもいかなくなったので、ヴェーレの連中は困っているのだ。よっぽどのことなければ、涙の島に立ち入ろうなんて考えもしない。海サハギンにしても、それくらいわかっているだろう。だから当然、日常的なレベル以上の警戒はしていない。ゆえにこっちも、そこまで神経質になる必要はない。冷静に考えればそうなる。


 俺は俺の判断を信じる。俺一人で充分だ。何人かで集落に入りこんだりしたら、かえって危ない。


 ところが、軒先に松明か何かを二つ灯してある茅葺き的な家が木々の向こうに見えてきたちょうどそのとき、俺は後ろに何かの気配を感じた。

 足を止めて振り返ると、ジャンカルロが立っていた。ほとんど見えないが、やつは声を出さずに笑ったようだ。


 俺はため息をついて先に進んだ。ジャンカルロもついてくる。


 いくらなんでも松明の火に身をさらす気にはなれない。俺たちは松明の家の裏手に回った。そこから目を凝らして見ると、すぐ先に空き地があって、その周りにやはり茅葺き的な家が何軒も建っているらしい。ただ、松明の家ほど大きくない。というか松明の家は、他の家より二回りほどもでかいみたいだ。この集落の有力者の家なのかもしれない。


「谷底はあっちだな」

 ジャンカルロは俺に耳打ちをして、空き地の向こうを指さした。

「建物が込んでやがる」

「なんできた」

「待ってるのは退屈だしな。酒でも持ってくりゃよかったんだが」

「俺一人でよかったんだ」

「おれはてめえの子分でも友だちでもねえ。やりたいようにやる。文句があるか?」

「ねーよ、ジャンカルロ」

「そうかい、キサラギ」

「谷底まで行ってみる」

「なんだか、大声で叫びたくなってくるな」

「好きにしろ」


 俺は忍び足で谷底方面へと向かった。


 行けども行けども、家。家。家。それから、空き地。


 空き地といっても、黒っぽい土が露出していて、しっかりと踏みかためられ、中央に竈みたいなものが設置されている。共同の炊事場なのかもしれない。


 見ると、茅葺き的な家はどれも新しそうだ。この集落は最近できたらしい。


 翡翠濡れ草は青くぼんやりと光るので、すぐにわかるはずだとダンテのメモにはあった。ようするに、翡翠濡れ草で青く光る谷間こそが青い谷だってことだ。


 ここが青い谷かどうかはわからない。いや、青い谷だったのかどうかはわからない、と言うべきだろう。


 俺は家々の裏や空き地の隅々まで、丹念に、それでいて大急ぎで、探した。海サハギンが起きだしてきて、見つかったらどうする。そんなことは露とも考えなかった。それどころじゃなかった。


 俺は最後の空き地に膝をついて、表面の土を掘りかえしてみた。土の中は土だ。土しかない。


「さあて」

 ジャンカルロが俺の肩を抱いて、クッ……と低く笑った。

「次はどうする、キサラギ」


 俺は湿っぽい土を握りしめた。


 青い谷。


 仮に、かつてここがそうだったとしても、もはやその名で呼ぶには値しないだろう。


 ここには翡翠濡れ草はない。

 それだけはたしかだ。

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