4 不遇の教師
「真田、そろそろ様子を見に行ったらどうだ」
「大丈夫だよ、餌なら飼育係がやってるから」
「いったい何の話だ」
「うさぎだろ、裏庭の」
「お前が飼育委員の顧問をしていたのは去年の話だろ」
低く諭すようなその声に、真田こと真田博文はようやく手元の教科書から顔を上げた。
そこに立っているのは、同じ3年生のクラスを担当する学年主任の長谷川だ。
彼とは年も近いことがありよく飲みに行く仲だが、訳あって今週は彼と顔を合わせないようにしていた。
むろん、この話題を振られるからである。
「あの元気だけが取り柄のチカちゃんが、学校に来なくなってもう1週間だぞ」
長谷川がチカちゃんと呼ぶのは、真田を運命の相手だと勘違いしている問題児小林千佳である。
「むしろもう1週間くらい休んで欲しい」
「心配じゃないのかよ!」
「親御さんからは『いつもの悪い病気が出ただけですから』って言われてるし」
「電話したのか?」
どこか嬉しそうなその声に、真田は思わず舌打ちをする。
「担任ならするだろう」
「それをしないのがお前だろう」
ずいぶんと低い評価をされているようだが、ここでそれを議論しても仕方がない。
真田は千佳の家の住所と電話番号を手近な裏紙に書くと、それを長谷川に押しつけた。
「気になるならお前がいけ。学年主任なら、いってもおかしくはないだろう」
「担任の方がもっとおかしくないと思うが」
「俺は忙しい」
「少しくらいなら肩代わりしてやる」
「何でそこまで行かせたい」
「お前の将来のためだ」
思わず眉を寄せれば「チカちゃんの将来のためだ」と言い直される。
「あんまり長く休むと内申に響く」
「内申が悪くても、あいつの頭じゃ大学受験に落ちたりはしない」
「でも卒業できない可能性もあるだろう」
それとももう1年、あいつの面倒見るか?
その問いかけに、真田は長谷川をきつく睨んだ。
あいつともう1年。それだけは、絶対に嫌だった。
究極の選択ののち、真田は渋々ながら千佳の家を尋ねることにした。
だが学校を出てすぐ、彼は自分の選択を後悔していた。
後悔どころか完璧に間違えたと自覚したのは、千佳の家についたときだ。
「あらやだ先生、わざわざいらしてくれたんですか!」
正確には、千佳によく似た快活そうな母親に玄関で微笑まれた瞬間にである。
「さすがにちょっと心配だったもので」
「でもすいませんね、私これから外出しなくちゃいけなくて」
その言葉に内心ガッツポーズをしたのは否めない。
もちろん、その喜びは一瞬にして費えることになるのだが。
「じゃあ日を改めます」
勿論改めるつもりはなかったが、形ばかりは取り繕っておく。
だがこれが裏目に出た。突然、千佳の母親が物凄い行動に出たのだ。
「それも悪いので良かったら上がってください。冷蔵庫にケーキも入ってるから食べてってくださいな、あの子に言えば出してくれると思うので」
「え、あの…それはちょっと……」
「娘は2階にいると思います。ドアに名前のプレートがあるからすぐわかるかと」
千佳に似たのは顔だけではなかったようで、ずいぶんとざっぱな説明をされた後、彼女は真田を無理矢理家に上げた。
あり得ない言葉の応酬に戸惑っているうちに逃げる隙を失い、真田は内心慌てふためく。
しかし彼が状況把握するよりも、千佳の母親が家を出て行くほうが早かった。
その上ちゃっかり外から鍵をかけられてしまったので、逃げることも出来ない。
残念ながら、これはあの問題児に声をかけなければ帰れないようだ。
鍵を拝借するわけにもいかないし、千佳に会わずに母親の帰宅を待つわけにも行かない。
仕方なく、真田は嫌がる足を必死に動かして、問題児が潜む部屋へと向かった。
酷く長い道のりに感じられたが、彼女の部屋は母親の言うとおり一目でわかった。
扉の前でしばし躊躇った物の、逃げられぬなら立ち向かう他はない。
覚悟を決めると、真田は部屋の扉をノックした。