婚約者を奪ったご令嬢にもっと良い縁談をご紹介します
「リディアは家柄や金ではなく、僕自身を愛してくれたんだ」
元婚約者のジュリアン様はわたくしの前に腰を下ろすなり、そうおっしゃった。
婚約解消の書類にはもう双方の父が署名している。今日は返し忘れた品を渡すだけのはずだった。
けれど彼は、それでは足りないらしい。
「君は会えば屋敷の改装だの、招く客の顔ぶれだの。結婚も伯爵夫人の椅子に座るための手段なんだろう」
「お母様からその二つについて相談しておくように言われておりましたので」
「そういうところだよ」
どのようなところか伺おうとして、やめた。
昔から、自分の知らない話をされると相手の性格に問題があると考える方だった。
差し出した小箱を彼は開きもしない。中には婚約指輪が入っている。
代わりに、隣に座る令嬢の手を取った。
リディア・フェルネ様。男爵家の次女で、桃色のドレスがよく似合う方だ。
彼女は困ったように睫毛を伏せた。右手の指先はジュリアン様の袖に触れている。左手の指はドレスの飾りを折らないよう、膝の上できちんと揃えていた。
仕草は申し分ない。
「ベアトリス様。わたくし、その、お二人の間に入るつもりは……」
「では、今回は珍しい失敗をなさいましたのね」
伏せられた睫毛が上がった。
その目に一瞬だけ灯った鋭さの方が、わたくしは好きだった。
「君はすぐにそうして人を傷つける」
「失礼いたしました。お詫びに、今度お茶会を開きますわ」
「茶会?」
「婚約を解消しても、お付き合いは続きますもの。気まずい噂ばかりでは、リディア様もお困りでしょう」
わたくしは彼女を見た。
「ブランシェ侯爵様にもお声をかけます。ご存じかしら」
彼女の指がジュリアン様の袖から離れた。
すぐに戻ったけれど、わたくしには十分だった。
「もちろんですわ。先月の音楽会に少しだけ伺いました」
「お気に召して?」
「ええ、とても。ヴァイオリンが素晴らしくて」
あの夜のヴァイオリン奏者は弦を切って二度も演奏を止めた。
素晴らしかったのは、侯爵家の大広間とそこに集まった顔ぶれだろう。
「では、お待ちしております」
ジュリアン様はようやく満足そうに頷いた。
「君にも分かってもらえてよかった。無理にとは言わないが、いずれ僕たちを祝福してくれると嬉しい」
わたくしが失恋から立ち直るには、相当な時間がかかるとお考えらしい。
寛大に待ってくださるようなお顔だった。
指輪の入った小箱を彼の手元へもう一度押した。
「ええ。わたくしにできることは、させていただきますわ」
昔はこの方の笑顔を見たいと思っていた。
今はできればしばらく、その笑顔を引っ込めていただきたかった。
◇
「それで、泣く代わりに仲人をするわけか」
翌日の午後、ヴァレリー子爵ノエル様はわたくしの話を聞き終えてそう言った。
慰めも、同情もなかった。だからこの方を呼んだ。
「リディア嬢は彼が好きなのでは?」
「ジュリアン様が持っているものはお好きでしょうね」
「本人以外?」
「本人がまったく嫌いとも思いませんわ。見栄えはよろしいもの」
ノエル様は小さく笑った。
父親同士に付き合いがあり、子どもの頃から顔を合わせている。わたくしより四つ年上で、三年前に子爵位を継いだ。
幼い頃は、わたくしの喧嘩を止めずに眺めていた。相手の子が泣きだすと、もう面白いところは終わったという顔でハンカチを出したものだ。
「本当に彼女を侯爵夫人にしてやるつもりかい」
「条件が合えば。あの方は綺麗なドレスを着て座っているだけでは満足なさらないと思います」
リディア様とは以前から茶会で会っていた。
誰がどの客の隣に座りたがっているか、どの家の奥様が誰を嫌っているか。彼女はよく見ている。
一度、わたくしへ席を譲ってくれたこともあった。初めは親切だと思ったけれど、ご自分はジュリアン様の隣へ移っていた。
わたくしが目を向けると、彼女は無邪気に微笑んだ。
あのとき一言申し上げなかったのは、わたくしの落ち度だ。
「侯爵様は新しい奥様をお探しでしょう?」
「そうだね。だが、若くて綺麗なら誰でもいいという人ではない」
「承知しております。だから、あなたに間に入っていただきたいのです」
ブランシェ侯爵様はノエル様の従兄に当たる。
奥様を亡くされてから三年。以前ほど客を招かなくなったと聞いていた。
「先日の音楽会も、従兄は軍務の話ばかりしていた。隣で退屈している令嬢たちに、最後まで気づかなかったよ」
「お客様が帰ってから、楽しい会だったとおっしゃった?」
「よく分かったね」
「でしたら、リディア様が必要ですわ」
侯爵様の屋敷と、彼女の目配り。
組み合わせてみると、案外悪くない。
「侯爵様には、わたくしが腹を立てていることもお伝えください。知らずにお付き合いいただくのは、失礼ですもの」
「従兄が君の復讐の道具になるのは嫌だと言ったら?」
「でしたら、別のお相手を探します」
「なるほど。そちらを諦める気はない」
「ジュリアン様がこの件を、二人の女に愛されながら片方を捨てた話として語り続けるのは不愉快ですの」
ノエル様は口元を隠した。
肩がわずかに揺れている。
「おかしいかしら」
「いや。君を慰めなくてよかったと思って」
そう言って、彼は菓子皿をわたくしへ寄せた。
チョコレートをかけた焼菓子だけがこちら側に来るよう、皿が向けられている。わたくしは砂糖衣が好きではない。
彼は昔からこういう気遣いを黙ってする。
「協力するよ。ただし、一つ条件がある」
「何でしょう」
「茶会の後の晩餐を、僕と二人で」
「その程度でよろしいの?」
「僕にとっては、その程度ではないんだが」
菓子を取ろうとした指が止まった。
見上げると、彼はいつもと同じ顔をしている。
「店は僕が選ぶ。君が好きな席も、もう分かっている」
「窓際は嫌ですわよ。通りの方から見られますもの」
「ほらね」
わたくしは菓子を一つ取った。
彼の視線がまだ指先にある気がして、いつもより小さくかじった。
◇
茶会は庭に面した小広間で開いた。
客は四人。席順を間違える心配はほとんどない。
侯爵様には事前にすべてをお伝えした。
お返事はノエル様を通じて届いた。
『紹介の動機は問わない。だが、先方には私が真剣に妻を探していると伝えてほしい。腹いせの芝居を頼まれるつもりはない』
結構なことだ。
わたくしも、芝居ではジュリアン様に喜んでいただけないと思っていた。
リディア様にも、手紙に一行添えておいた。
侯爵様が再婚をお考えであること。差し支えなければ、お話をしてみてほしいこと。
返事には参加を楽しみにしているとあった。さらに、ジュリアン様との正式な婚約はまだ先だと、頼んでもいない説明が添えられていた。
当日、リディア様は濃い青のドレスを着ていらした。
桃色よりもお似合いだった。
「素敵なお色ですわね」
「ありがとうございます。少し大人びすぎるかと迷いましたの」
迷った末にこれを選んだ理由は、伺わなくてもよいだろう。
向かいに座る侯爵様は三十二歳。華やかな顔立ちのジュリアン様と違って、初対面では少し近寄りがたく見える。
リディア様は怯まずに会釈した。
「先月は素晴らしい音楽会にお招きいただきまして」
「楽しんでいただけたなら何よりです。私はああいうことに疎くて」
侯爵様の返答はそこで終わった。
ジュリアン様がすかさず身を乗り出す。
「音楽といえば、うちの領地にも楽団がおりましてね。いずれ王都の屋敷を広げて、定期的に演奏会を開こうと思っているんです」
「素晴らしいお考えですわ」
わたくしが微笑むと、彼はわずかに胸を張った。
「リディアも音楽が好きだから。ねえ?」
「ええ。ですから、楽団の方は三曲ごとにお休みを取れるとよろしいですわね」
彼の笑みが消えた。
「三曲?」
「先日の会では、年配のお客様が途中でお席を外したくても、なかなか立てませんでしたもの。お茶とお話の時間がある方が、演奏にも耳を傾けていただけるかと」
侯爵様が初めて少し顔を上げた。
「ミレーユ伯母のことかな」
「お名前までは存じませんけれど、真珠の髪飾りをなさった方です」
「伯母です。あの日は最後まで居てくれなかった」
「廊下でお見かけしました。薄めのお茶をお出ししたら、少しお話ししてくださいましたわ。次の曲を楽しみにしていらしたのに」
侯爵様の指がカップの取っ手から離れた。
「それは、私が気づかなければならなかった。ありがとうございます」
「いえ、わたくしはたまたま」
リディア様は慎ましく目を伏せた。
けれど頬に浮かんだ赤みは、おそらく本物だった。
ジュリアン様の手が伸びて、彼女の椅子の背に触れる。
「リディアは誰にでも優しいんですよ。困っている人を見捨てられなくて」
「そうなのですね」
侯爵様は頷いた後、彼女の方へ体を向け直した。
「来月、もう一度小さな演奏会を開こうと思っています。もしあなたが客なら、どんな会に行きたいですか」
リディア様はわずかにためらい、わたくしを見た。
どうぞというつもりで、わたくしはカップを持ち上げた。
「……本当に、好きなことを申し上げても?」
「そのために伺いました」
「でしたら、あの大広間の東側の扉を開けておきたいです。途中で席を立つ方が、奏者の前を横切らずに済むでしょう。それから、お花はもう少し低い位置に」
「花?」
「前の席の方のお帽子と重なって、後ろからは奏者の顔が見えませんでしたの」
ノエル様が吹き出した。
侯爵様も少し遅れて笑った。
「では、私が自慢していた花飾りが邪魔だったわけか」
「自慢なさっていたのですか?」
「花屋に三度も増やさせました」
「まあ。それは申し訳ないことを申しました」
「四度目を頼む前でよかった」
リディア様はついに声を上げて笑った。
ジュリアン様の前で見せる控えめな笑い方ではなかった。
わたくしはその顔を見ながら、隣のノエル様へ目を向けた。
こちらを見ていた彼とすぐに視線が合う。
うまくいきそうだと目で伝えるつもりだったのに、何だか違う笑い方をしてしまった。
彼は一瞬黙り、それからわたくしの空のカップに紅茶を注いだ。
「君も何か食べないと」
「いただいておりますわ」
「一つも減っていない」
よく見ている。
菓子を残すと、ジュリアン様にはいつも甘いものが苦手なのかと聞かれていた。
違うと答えても、次の茶会にはもう忘れていらした。
ノエル様に勧められた菓子を一つ口に運ぶ。
そういえば今日は、菓子が美味しい。
「もちろん、うちも結婚したら好きにしていいんだよ」
向かいのジュリアン様が少し声を張り上げた。
「音楽会でも何でも。妻の希望はできるだけ叶えるつもりだから」
「お屋敷の改装はいつ頃のご予定でしたか」
わたくしの問いに、ジュリアン様は目を細めた。
「父と相談しているところだ」
「南側の棟でしたわね。確か、お祖母様がお住まいの」
「いずれの話だよ」
ええ。お祖母様がそこからお移りになれば。
あの棟を取り壊すなど絶対に許さないとおっしゃったことは、わたくしもジュリアン様も知っている。
彼はリディア様の手を握ろうとした。
けれど彼女はカップを持ったままで、彼がその手を取ることはできなかった。
「わたくし、こちらの花の置き方が好きです」
リディア様は卓上の小さな花瓶を指した。
「どのお席からもお顔がよく見えますもの」
「今日は皆様に、よくお話しいただきたくて」
彼女はわたくしを見たまま、微笑んだ。
お礼か、警戒か。その両方かもしれない。
わたくしも微笑み返した。
◇
茶会がお開きになる頃には、侯爵様の方から次の面会が申し込まれていた。
「お父上とお姉様にも来ていただけませんか。演奏会の相談を兼ねて、屋敷を見ていただきたい」
「父へ伝えますわ」
リディア様はすぐに答え、それからジュリアン様へ向き直った。
「ジュリアン様。お帰りになる前に、少しお話を」
二人を庭の方へお通しし、わたくしは侯爵様を玄関までお送りした。
彼は手袋をはめながら、ちらりと庭を振り返った。
「彼女はあちらの彼と結婚するつもりだったのですね」
「そう伺っております」
「私の爵位に惹かれているのも、分かります」
わたくしは肯定も否定もしなかった。
侯爵様は困ったように笑った。
「私の方も、華やかな妻が欲しいと言いながら、社交を引き受けてくれる人を探していた。顔合わせをすれば、皆、私の話に頷いてばかりで」
「リディア様は花が多すぎるとおっしゃいましたわね」
「三度も増やしたのに」
また少し笑ってから、彼はまっすぐわたくしを見た。
「まだ縁談が決まったわけではありません。ですが、もう一度話したいと思っています。それは私の気持ちです」
「ええ。どうか、ごゆっくりお話しください」
扉が閉じると、すぐ後ろでノエル様が言った。
「君と従兄の話が弾むと、少し落ち着かないな」
「侯爵様をわたくしへ紹介なさいますの?」
「断るよ。あの人は君のことを立派なお嬢さんだと思い始めている」
「まあ」
「苦労するのが目に見えている」
わたくしは持っていた扇で彼の腕を軽く叩いた。
その手を取られ、肘から先をそっと支えられる。
「今夜、七時に迎えに来る」
「お忘れではなかったのね」
「今日いちばん大切な約束だ」
返す言葉を考えている間に、彼は手を離してしまった。
廊下に残されたわたくしは、扇を一度開いて閉じた。
その直後、ジュリアン様が庭から戻ってきた。
一人だった。
「彼女に何を言った」
「どなたのことでしょう」
「とぼけるな。リディアが、僕とのことを考え直したいと」
「ご婚約の前で、よろしゅうございましたね」
彼はわたくしの前に立ち塞がった。
先ほどまでの余裕はない。頬が少し赤かった。
「侯爵を紹介するなんて、わざとだろう」
「ええ」
わたくしが頷くと、彼は言葉を詰まらせた。
「リディア様によいご縁があればと思って、お招きしました」
「僕への当てつけに、彼女を利用したのか」
「リディア様はお嫌ならお断りになれます。侯爵様も同じですわ」
「彼女はあんな、条件だけで相手を選ぶ子じゃない」
そうだろうか。
条件だけなら、あの方は花の高さの話までなさらなかったと思う。
「リディア様がどんなお茶会を開きたいか、ジュリアン様はご存じでした?」
「そんなことは結婚してから聞けばいい」
「侯爵様は今日お聞きになりました」
返事はなかった。
彼はしばらく庭の方を睨んでいたが、急にわたくしへ顔を寄せた。
「……君だって、本当はまだ僕が好きなんだろう」
危うく、扇を取り落とすところだった。
「それでこんなことをした。そうなんだね?」
「どうして、そのお話になりますの」
「そうでなければ、ここまでするはずがない」
彼の中で筋道がついたのが分かった。
わたくしが何を言っても、彼が愛されている証拠になってしまう。
昔、熱を出した彼へ手紙を書いた。好きだという言葉を入れるか迷って、結局、薬が苦くても飲んでほしいと書いた。
あれほど分かってほしかった頃には伝わらず、今はなくなったものまで見えるらしい。
「落ち着いたら、もう一度話そう。やはり母とうまくやれるのは君だし、家のことも分かっている。僕にも、反省するところはあった」
「今夜は予定がございます」
「明日でもいい」
「明日からも、わたくしの予定をお待ちいただく必要はございません」
玄関の方へ手を向けた。
彼は動かなかったので、わたくしの方が扉へ歩いた。
使用人が控えているのに気づくと、ようやく彼もついてきた。
「後悔するよ」
「ええ。何かしらは、するでしょうね」
昨年、流行に乗って買った帽子のことは今でも後悔している。
そんなことを考えていたせいで、わたくしは少し笑った。
彼はひどく傷ついた顔をした。けれど説明するには長すぎるので、そのままお見送りした。
◇
七時より少し前にノエル様は迎えに来た。
今夜はいつもより濃い色の上着を着ている。
「それ、よくお似合いですわ」
「ありがとう。ずいぶん迷ったんだ」
「ノエル様でも?」
「君は褒める時に嘘をつかないからね」
馬車へ乗り込むとき、差し出された手に指を重ねた。
昼間と同じ手なのに、今度は少し熱い。
わたくしの方が熱いのかもしれなかった。
店の席は奥まった壁際だった。
通りから見えず、隣の卓とも離れている。わたくしの椅子を引いたノエル様は、給仕が下がるまで茶会の話をしなかった。
「今日は楽しかったかい」
「ええ。とても」
「それはよかった」
「お怒りになりませんの?」
「何を?」
「ああいう気持ちで人の縁談をお世話したことです」
彼は少しだけ首を傾げた。
「君が僕を呼んだ時から、知っていたけれど」
「本当は寂しかったのでしょう、とか。優しいからあの方の幸せを願ったのだ、とか」
「言ってほしい?」
「いいえ」
「なら、言わない」
笑ってしまった。
ノエル様も笑った。わたくしはその顔をいつもより長く見ていた。
「ジュリアンは君を引き留めた?」
「わたくしがまだ彼を好きなのだそうです」
「それは困ったね」
「ええ。本人よりよくご存じなのですから」
給仕が前菜を運んできた。
皿の縁に添えられた小さな花を見て、わたくしは今日の卓を思い出した。
「リディア様は侯爵夫人になれるかしら」
「気になる?」
「ええ。侯爵様はもう一度会いたいとおっしゃっていましたけれど」
「帰りに従兄から聞かれたよ。来月の会までに、花屋と話し合う時間が取れるだろうか、と」
思わず口元が緩んだ。
「それは有望ですわね」
「うん。あちらは当人たちに任せておけばいい」
彼は一度言葉を切った。
「今夜くらいは、僕の方も見てほしいんだが」
フォークを置いた。
ノエル様は笑っていなかった。
「見ております」
「今日、君があまり楽しそうに笑うから、少し困った」
「茶会で?」
「僕が笑わせたわけではないのが、気に入らなかった」
耳の辺りが熱くなる。
わたくしはグラスへ手を伸ばしかけ、やめた。
先ほどから落ち着いて食事ができない。
「わたくし、あなたが笑っていたから嬉しかったのですわ」
ノエル様が黙った。
それを見て、わたくしは少しだけ気分がよくなった。
「そんな顔もなさるのね」
「君には何度もさせられているよ。見ていなかっただけで」
思い当たることがないわけではなかった。
ジュリアン様との婚約が決まった日、庭で会ったノエル様はおめでとうと言って、それきり何も言わなかった。
いつもなら何かしらからかうのに、と不思議に思った。
今日、そんな昔のことを思い出すとは思わなかった。
「次は僕の縁談も世話してくれないか」
彼の声に顔を上げた。
「お望みの条件は?」
「僕が君と結婚できること」
「それでは、紹介のしようがございません」
「そうだね。では、僕と結婚してほしい」
少しも逃げ道のない言い方だった。
わたくしは彼の目を見た。こちらの返事を待つ顔にも、もう冗談はない。
「性格のよい妻にはなれませんわよ」
「知っている」
「腹を立てれば、今日のようなこともいたします」
「相談してくれ。君の思いつきは大抵、一人で聞くには惜しい」
胸の奥から笑いがこぼれた。
きっと、侯爵様の前で浮かべていたものとは違う。
「でしたら、お引き受けいたします」
「僕の妻を?」
「ええ。あなたのことは、ほかの方へ紹介したくありませんので」
卓上に置いていたわたくしの手を彼が取った。
指先に唇が触れる。
彼にこんなことをされたのは初めてなのに、手を引きたいとは思わなかった。
◇
六週間後、リディア様とブランシェ侯爵様の婚約が発表された。
ジュリアン様とのお話はあのお茶会の日にお断りしたと、リディア様ご本人から聞いた。
新しい侯爵夫人となる方は、招待状を持ってわたくしを訪ねていらした。今度の演奏会は、客が立ち歩ける時間を十分に取るそうだ。
「お花は低い位置に?」
「ええ。けれど侯爵様が寂しがるので、階段にはたくさん飾りますの」
リディア様は楽しそうに笑ってから、少し声を落とした。
「どうして、わたくしを紹介なさいましたの」
「ジュリアン様が困ると思いまして」
しばしの沈黙の後、彼女は扇を開いた。
口元は隠れたけれど、目が笑っていた。
「そういうお方、嫌いではございませんわ」
「わたくしは好きとも申し上げません」
「存じております」
彼女がお帰りになるのと入れ違いに、ノエル様がやって来た。
わたくしたちの婚約も来週には公になる。
「演奏会の招待状?」
「ええ。お受けしようと思います」
「では、僕も」
二枚の招待状を並べる。
もう、席順に細工をする必要はない。わたくしの隣に座ってほしい方は決まっている。
「次に縁談をまとめる時も、僕を呼んでくれる?」
「その時は、何を差し上げればよろしいの」
彼はわたくしの手を取った。
「晩餐を。二人きりで」
「毎晩のことになりましてよ」
「そうなるよう、申し込んだつもりだよ」
困ったことに、この方はわたくしより少し先まで考えている。
いずれ一度くらい、見事に出し抜いて差し上げたい。
けれど今夜は、彼の選んだ店へ行くことにした。




