ミランダの箱
わたし、ミランダは、気晴らしに町を歩いていた。
胸の奥に溜まったものをどうにかしたくて、わたしはあてもなく石畳を踏みしめていた。人通りの多い通りを選んだのは、にぎやかさに紛れてしまえば、この重たい気持ちも少しは軽くなる気がしたからだ。
わたしは役所の下っ端として長く働いてきた。この部署に来てから、何年になるだろう。気づけば誰よりも長くここにいて、新しく来た上司に仕事を教える立場になっていた。年下の上司に「お願いします」と頭を下げられるたび、少しだけ誇らしい気持ちになった。
上の方針が変わり、女性登用の話が持ち上がったとき、わたしが推薦されたと聞いた。
ああ、ようやく報われたのだと思った。
長く、真面目に、黙々と働いてきた日々が、やっと認められたのだと。
若い上司が、小さなお祝いをしてくれた。
「ミランダさんなら当然です」
そう言われたとき、胸の奥がじんわりと熱くなった。がんばってきてよかった、と、心から思えた。
――それなのに。
「見栄えが必要だ」
その一言で、すべてがひっくり返った。
わたしではなく、別の部署の若くて美しい女性が正式に任命されたと聞いたとき、頭の中が真っ白になった。何をどう考えればいいのかわからなかった。ただ、静かに、何かが崩れていく音だけが聞こえた気がした。
だから、わたしは町を歩いている。
ここにいても、何も変わらないとわかっているのに。
ふと、露店の一角に置かれた箱が目に入った。
思わず足を止める。
元はきれいな箱だったのだろう。細やかな装飾が施されていて、どこか古びているのに、不思議と光を宿しているように見える。けれど――同時に、言いようのない不気味さも感じた。
近づいて覗き込む。
やっぱり、きれいだ。
でも、怖い。
なのに、目が離せない。
まるで、何かに呼ばれているみたいだった。
値段を見る。
――高い。
普段のわたしなら、絶対に手を出さない額だ。
けれどそのときのわたしは、普段のわたしではなかった。
「……これ、ください」
気づけば、そう言っていた。
不幸なことにそれだけのお金を持ち歩いていたのだ。
なんでも買えるんだ。こわいものなどない。そういった気持ちだったのだ。
箱を抱えて帰る道すがら、胸の中が少しだけ軽くなっているのを感じた。理由はわからない。ただ、何かを自分で選んで、自分のために買った――それだけで、救われた気がした。
部屋に戻り、わたしは丁寧に箱を拭いた。
布でそっとなぞるたび、くすんでいた表面が少しずつ艶を取り戻していく。
棚に置くと、殺風景だった部屋が、ほんの少しだけ明るく見えた。
それからというもの、わたしは毎日その箱を拭いた。
仕事から帰ると、まず箱に触れる。それが、いつの間にか日課になっていた。
ある日、底の感触に違和感を覚えた。
指先でなぞり、慎重に押してみる。
――カチ、と小さな音がして、底が外れた。
二重底だった。おぉと思ったが、何も入っていない。
少しだけ、がっかりした。
でも、すぐに思いついた。
――なら、わたしが入れればいい。
わたしは、あの推薦状を取り出した。
報われるはずだった証。
奪われた証。
叶わなかった希望の死骸を、この美しい箱に埋葬した。
その瞬間、箱はただの飾り物ではなくなった。
わたしのものになった。
わたしだけの、大切なものに変わった。
それからは、ますます丁寧に箱を拭くようになった。
まるで、それがわたし自身を保つ行為のように。
――そんなある日。
例の「見栄えの人」が殺されたと聞いた。
耳を疑った。
犯人は、もともとそこへ昇進する予定だった人物だったという。
「わたしの努力を踏みにじった。わたしが準備していたものすべてを奪った。許せない。彼女もお前たちも」
そう叫びながら連行されていった、と。
話を聞きながら、胸の奥がざわついた。
……わかる。
犯人のその気持ちが、わかってしまう。
だけど、もし、あの場所にいたのがわたしだったら――
箱を拭く手が、ふと止まる。
あそこに行っていたら、殺されていたのは……わたしだったかもしれない。
そう思うと、背筋が冷たくなった。
けれど同時に、奇妙な安堵もあった。
わたしは、ここにいる。
箱を、そっと撫でる。
中には、わたしの願いがしまわれている。
翌年、わたしが指導していた上司が昇進し、部署を去っていった。
その後任として、わたしの名前が呼ばれた。
今度は、誰にも奪われなかった。
部署の全員が、わたしを祝ってくれた。
笑顔で応えながら、わたしは思う。
――遠回りだったかもしれない。
でも、これが、わたしの道だったのだと。
その夜、部屋に戻り、いつものように箱を拭く。
布越しに伝わる感触が、やけにやさしく感じられた。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからない。
それでも、わたしは今日も箱を磨く。
これからも、きっとずっと。
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