表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:1幕

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/40

8話 : 野花の名前

 その日、要が帰ってきたのは昼を少し過ぎた頃だった。


 朔は庭の隅で呼吸を整えていた。掌の前に法力の膜を張り、散ってはまた練り直す。日を追うごとに安定までの時間は短くなっているが、まだ「面」を長く保つには遠かった。


 表門の向こうで砂利を踏む音がした。鍛錬着のまま、草の汁で袖口を汚した兄が門をくぐってくる。休日の朝練帰りだろう。額にうっすらと汗が光り、結い上げた漆黒の髪からほつれ毛がこめかみに貼りついていた。


 「兄上」


 朔が声をかけると、要は片手を上げて応えた。その手に何かを握っている。


 「篝は?」


 「部屋にいます。今日は普通の日で——起きてはいるけど、庭には出て来ていない」


 要は頷いて、母屋の方へ歩いていった。朔は法力の膜をそっと解き、兄の背中を追った。


---


 篝は自室の障子を開け放って、板敷きの縁側に座っていた。膝の上に古い綴じ本を広げ、瑞から借りたものだろう、薬草の挿絵が描かれた頁をめくっている。体調は悪くはないが良くもなく、庭に出るほどの力はない日だった。顔色は淡く、唇の赤みもぼんやりとして、声にいつもほどの弾みはない。


 けれど、要の姿を見た瞬間、篝の目がぱっと輝いた。


 「要兄さま!」


 篝が綴じ本を閉じて身を乗り出した。要は渡廊下を大股に歩いてきて、篝の前にしゃがみ込んだ。そして無造作に——しかし花が潰れないように気を遣いながら——握っていたものを差し出した。


 野の花だった。


 茎ごと摘まれた小さな花が三本。ひとつは白く丸い花弁が五枚ついた素朴な花で、もうひとつは薄い紫の鈴のような形をしていた。三本目は黄色い小花が穂のように連なっている。どれも里の道端に咲く、名もない草花だった。


 「帰りに見つけた。ちょうど咲いてたからな」


 要はそれだけ言って、照れたように視線を逸らした。


 篝は両手で花を受け取り、顔に近づけてそっと匂いを嗅いだ。鼻の先に花粉がついて、くすぐったそうに目を細める。


 「かわいい……。ありがとう、要兄さま」


 要が篝に花を持ってくるのは、珍しいことではなかった。修練の行き帰りに道端の花を見つけると、摘んで帰ってくる。毎回ではないが、篝の体調が良くない日に多い——と朔は感じていた。要はそのことに触れないし、篝もあえて理由を聞こうとはしない。ただ「帰りに見つけた」とだけ言って渡し、篝がそのたびに目を輝かせる。それだけの繰り返しだった。


---


 「ねぇ、要兄さま。これ、なんていうお花?」


 篝が白い五弁の花を指先でそっと持ち上げた。


 要は腕を組んで少し考え、それから頷いた。


 「梅鉢草だ。教本に載ってた。秋の終わりに湿ったところで咲く。五弁で、花びらが丸い」


 「うめばちそう」篝がその名前を舌の上で転がすように繰り返した。「かわいい名前。梅のお花みたいだから?」


 「そうだ。梅の花に形が似てるから、そう呼ぶ」


 要の説明は明快だった。教導寮で学んだ知識を、余分なものを削いで伝える。言葉が少ないぶん、ひとつひとつに無駄がなかった。


 「じゃあ、こっちは?」


 篝が紫の鈴の花を持ち上げた。


 「吾亦紅の仲間……いや、違うな。釣鐘人参だ。根が食えるらしい」


 「食べられるの!」


 「らしいぞ。教本にはそう書いてあった」


 篝が目を丸くして花と要を交互に見比べた。朔は縁側の柱に寄りかかって、二人のやりとりを聞いていた。


 「さくにぃは? この花、なにかわかる?」


 篝が三本目——黄色い穂のような花を朔に差し出した。


 朔はそっと受け取って、花の形をしばらく観察した。穂の先端から順に小さな花が開いていて、ひとつひとつは四弁の十字形をしている。茎は細いが思いのほか硬く、指先に軽い抵抗がある。葉は細長くて根元に近い方が広い。


 「……名前はわからない。でも、この花びらの形は面白いね。四枚が十字に開いていて、穂の上から順に咲いてる。風が吹いても花粉が散りにくいように、こういう形になったのかもしれない」


 要が眉を動かした。


 「お前、花を見てまずそういうことを考えるのか」


 「え……だって、気になったから」


 「名前は知らないが仕組みは考える。お前らしいな」


 要がかすかに口の端を上げた。からかっているのか感心しているのか、朔には判断がつかなかった。


 「あのね」


 篝が割り込んだ。白い梅鉢草を膝の上に戻し、花弁のひとつを指の腹でそっと撫でながら言った。


 「お母様がね、梅鉢草には花言葉があるって。『深い愛情』だって」


 「花言葉?」


 「お花にはね、ひとつひとつに気持ちが込められてるんだって。篝、お母様にたくさん教えてもらったの」


 要が目をしばたたいた。


 「俺はそういうの、教本に載ってなかったぞ」


 「教本には載ってないよ。お母様が知ってるの。お母様のお母様から、聞いたんだって」


 篝は嬉しそうに花を揺らした。「釣鐘人参はね——えっと、なんだったかな。『誠実な愛』だったと思う。……さくにぃが持ってるのは、わからないけど」


 朔は黄色い花を見下ろした。名前も花言葉もわからない。でも穂の先端から順番に咲いていく構造と、風に抗うための四弁の十字形は、朔の目にはとても合理的に映った。


 三人はそれぞれ違うものを花に見ていた。


---


 花の話がひとしきり続いた後、篝は三本の花を水を張った小皿に挿した。白と紫と黄色の小さな花が、欠けた皿の中で不揃いに並んでいる。窓から差し込む午後の淡い日差しを受けて、花弁が半透明に光っていた。


 「きれい……」


 篝がうっとりと呟いた。


 要が篝の後ろに座り、壁に背を預けた。朔は篝の横に腰を下ろした。三人が一箇所に集まることは、実はそう多くなかった。要は教導寮の修練で日中いないことがほとんどで、朔は鍛錬、篝は部屋にいる。三人が同じ時刻に同じ場所に揃う午後は、不意に訪れる贈り物のようなものだった。


 篝が要に教導寮の話をせがんだ。要は口べたながらも、今朝の修練で練習相手に投げ飛ばされた話をした。


 「投げ飛ばされたの? 要兄さまが?」


 「相手が俺よりでかいんだ。一つ上の奴だから当然だ」


 「痛かった?」


 「痛いに決まってるだろう。でも次は投げ返す」


 篝がくすくすと笑った。要が力を込めて言い切る「次は投げ返す」には、威張りでも虚勢でもない、当たり前の確信があった。要は約束したことは守る。篝もそれをわかっているように見えた。


 話がひとしきり弾んだあと、篝の瞼が少しずつ重くなり始めた。声の間隔が延び、相槌の回数が減っていく。花を挿した小皿を膝の脇に抱えたまま、篝の首がゆっくりと傾いた。


 「……要兄さまの話、もっと聞きたいのに……」


 篝が最後にそう呟いて、二人の間にそっと沈むように目を閉じた。掛布が肩からずり落ちかけたのを、要が黙って直した。


 小さな寝息が聞こえ始めた。


---


 篝が眠ると、部屋がしんと静まった。


 午後の陽が障子を透かして、畳の上に薄い四角を落としている。花を挿した小皿の水面が微かに揺れ、天井に小さな光の粒を散らしていた。風はなく、敷地結界の纏う土の匂いだけが部屋の隅に淀んで、ひそやかな午睡の空気が満ちている。


 篝の寝息が規則正しく繰り返されるのを、要は壁に背を預けたまま聞いていた。しばらくしてから、低い声で言った。


 「朔」


 「うん」


 「お前、最近ずっと庭で何かやってるだろう」


 朔は少し迷ってから頷いた。


 「……鍛錬を、少し」


 「少し、じゃないだろう。毎日やってる。親父が何か言ったのか」


 「いいえ。自分で始めたことです」


 要はこちらを見なかった。篝の寝顔に視線を落としたまま、短く息を吐いた。


 「そうか」


 沈黙が数秒流れた。遠くで鳥が鳴いている。里の中のどこかで薪を割る音が、風に乗ってかすかに届いた。


 「……篝のこと、どう思う」


 要が言った。声の温度が少し変わっていた。兄としてではなく、何かを確かめるような口調だった。


 朔はすぐには答えなかった。眠っている篝の顔を見た。日に焼けていない白い頬。前髪が目にかかりそうになっていて、瑞が毎朝梳いた漆黒の髪が襟元で乱れている。呼吸のたびにかすかに動く肩。掛布の端を小さな手で握ったまま、ぐっすりと眠っている。


 「……どう、というのは」


 「このままでいいのかって話だ」


 要は少し間を置いてから、続けた。


 「篝は身体が弱い。外には出られない。母さんの薬湯と、親父の敷地結界がなければ、普通に暮らすこともままならない。——それはお前も俺も知ってる」


 朔は頷いた。


 「でもな」要は眠る篝に目を向けたまま、言葉を選ぶように続けた。「篝は今、笑えてるだろう。花を見て喜べる。本を読める。お前と話せる。俺が帰ってくれば嬉しそうにしてくれる。——それは、幸せなんじゃないかと俺は思うんだ」


 要の声は穏やかだった。断言ではなく、自分自身に確かめるような響きだった。


 「篝はこのままでも幸せだと思う。俺たちが守ればいい」


 朔は黙って聞いていた。要の言葉は正しいと思った。篝は確かに、今この瞬間を幸せに生きている。


 でも——。


 「……兄上」


 朔はゆっくりと口を開いた。


 「僕も、篝に幸せでいてほしいと思います」


 「ああ」


 「でも——篝が自分の足で歩いて、自分の目で外を見て、自分で行きたい場所に行けるようになったら。その方が、もっと」


 言葉がうまく繋がらなかった。胸の中にあるものに、まだ名前をつけられない。


 要はしばらく黙っていた。


 それから、小さく息を吐いた。


 「——お前は、変えたいんだな」


 朔は頷いた。


 要はこちらを見た。鋭い漆黒の目が、弟妹に向けるときだけ見せる柔らかさを帯びていた。


 「俺は守る。お前は変えたい。——どっちも、篝のためだ」


 それだけ言って、要は視線を篝に戻した。


 眠る篝の寝息が、変わらず穏やかに繰り返されていた。三本の花が水の中で静かに揺れている。白と紫と黄色。名前がわかったものと、わからないもの。花言葉を知っているものと、知らないもの。


 同じ花を見ているのに、見えているものは三人ともに違った。篝の将来についても——きっとそうなのだ、と朔は思った。


---


 篝の目が開いたのは、日が傾きかけた頃だった。


 「……あれ。篝、寝ちゃった?」


 寝ぼけた声で呟いて、ゆっくりと身を起こす。掛布が肩からずり落ち、乱れた髪を小さな手で掻き上げた。


 要はもう立ち上がっていた。壁に寄りかかっていた姿勢を解いて、鍛錬着の裾を払っている。


 「寝てたぞ。盛大に」


 「えー……。要兄さまの話、途中だったのに」


 「続きは次に帰ってきたときだ」


 要はそう言って、篝の頭をぽんと叩いた。乱暴なようで力加減が正確な、兄の手つきだった。


 「あ、お花」


 篝が小皿を見た。三本の花はまだ枯れていなかった。白と紫と黄色が、傾いた陽を受けて少し温かい色に変わっている。もらったときとは違う顔をしていた。


 「梅鉢草と、釣鐘人参と——名前のわからない黄色いの」


 篝がひとつずつ指差して、名前を言った。覚えの良い子だった。


 「さくにぃ、この黄色いの。名前、調べてくれる?」


 「うん。母上に聞いてみるよ」


 「花言葉もね。きっと、いい言葉があると思う。だってきれいだもの」


 篝は花びらの先を指でそっとつまんで、ふうっと息を吹きかけた。黄色い穂が微かに揺れた。


 要が渡廊下に立って、こちらを振り返った。


 「朔。鍛錬、続けるんだろう」


 「はい」


 「——がんばれ」


 それだけ言って、要は母屋の方へ歩いていった。大きな背中が渡廊下の角を曲がって消えるまで、朔は見送っていた。


 篝が朔の袖を引いた。


 「ねえ、さくにぃ」


 「なに?」


 「要兄さまって、いつもこうやってお花を持ってきてくれるでしょ。——あのね、篝、知ってるの」


 「何を?」


 「篝の具合が悪い日に、多いんだよ。要兄さまがお花を持ってきてくれるの」


 篝はそう言って、小さく笑った。嬉しそうに、でもどこか大人びた表情で。四歳の少女がそんな顔をするのかと、朔は少しだけ驚いた。


 「要兄さまはね、言わないけど——篝のこと、すごく心配してくれてるの。篝にはわかるよ」


 西の空が橙と紫に染まり始めていた。結界越しの光が屋根の上でかすかに揺れている。小皿の花が夕日を浴びて、影を畳の上に長く伸ばしていた。


 三人の午後は、もう終わりかけていた。


 でもその温かさは——花の名前と、花言葉と、花びらの形とともに、朔の記憶に静かに残った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ