8話 : 野花の名前
その日、要が帰ってきたのは昼を少し過ぎた頃だった。
朔は庭の隅で呼吸を整えていた。掌の前に法力の膜を張り、散ってはまた練り直す。日を追うごとに安定までの時間は短くなっているが、まだ「面」を長く保つには遠かった。
表門の向こうで砂利を踏む音がした。鍛錬着のまま、草の汁で袖口を汚した兄が門をくぐってくる。休日の朝練帰りだろう。額にうっすらと汗が光り、結い上げた漆黒の髪からほつれ毛がこめかみに貼りついていた。
「兄上」
朔が声をかけると、要は片手を上げて応えた。その手に何かを握っている。
「篝は?」
「部屋にいます。今日は普通の日で——起きてはいるけど、庭には出て来ていない」
要は頷いて、母屋の方へ歩いていった。朔は法力の膜をそっと解き、兄の背中を追った。
---
篝は自室の障子を開け放って、板敷きの縁側に座っていた。膝の上に古い綴じ本を広げ、瑞から借りたものだろう、薬草の挿絵が描かれた頁をめくっている。体調は悪くはないが良くもなく、庭に出るほどの力はない日だった。顔色は淡く、唇の赤みもぼんやりとして、声にいつもほどの弾みはない。
けれど、要の姿を見た瞬間、篝の目がぱっと輝いた。
「要兄さま!」
篝が綴じ本を閉じて身を乗り出した。要は渡廊下を大股に歩いてきて、篝の前にしゃがみ込んだ。そして無造作に——しかし花が潰れないように気を遣いながら——握っていたものを差し出した。
野の花だった。
茎ごと摘まれた小さな花が三本。ひとつは白く丸い花弁が五枚ついた素朴な花で、もうひとつは薄い紫の鈴のような形をしていた。三本目は黄色い小花が穂のように連なっている。どれも里の道端に咲く、名もない草花だった。
「帰りに見つけた。ちょうど咲いてたからな」
要はそれだけ言って、照れたように視線を逸らした。
篝は両手で花を受け取り、顔に近づけてそっと匂いを嗅いだ。鼻の先に花粉がついて、くすぐったそうに目を細める。
「かわいい……。ありがとう、要兄さま」
要が篝に花を持ってくるのは、珍しいことではなかった。修練の行き帰りに道端の花を見つけると、摘んで帰ってくる。毎回ではないが、篝の体調が良くない日に多い——と朔は感じていた。要はそのことに触れないし、篝もあえて理由を聞こうとはしない。ただ「帰りに見つけた」とだけ言って渡し、篝がそのたびに目を輝かせる。それだけの繰り返しだった。
---
「ねぇ、要兄さま。これ、なんていうお花?」
篝が白い五弁の花を指先でそっと持ち上げた。
要は腕を組んで少し考え、それから頷いた。
「梅鉢草だ。教本に載ってた。秋の終わりに湿ったところで咲く。五弁で、花びらが丸い」
「うめばちそう」篝がその名前を舌の上で転がすように繰り返した。「かわいい名前。梅のお花みたいだから?」
「そうだ。梅の花に形が似てるから、そう呼ぶ」
要の説明は明快だった。教導寮で学んだ知識を、余分なものを削いで伝える。言葉が少ないぶん、ひとつひとつに無駄がなかった。
「じゃあ、こっちは?」
篝が紫の鈴の花を持ち上げた。
「吾亦紅の仲間……いや、違うな。釣鐘人参だ。根が食えるらしい」
「食べられるの!」
「らしいぞ。教本にはそう書いてあった」
篝が目を丸くして花と要を交互に見比べた。朔は縁側の柱に寄りかかって、二人のやりとりを聞いていた。
「さくにぃは? この花、なにかわかる?」
篝が三本目——黄色い穂のような花を朔に差し出した。
朔はそっと受け取って、花の形をしばらく観察した。穂の先端から順に小さな花が開いていて、ひとつひとつは四弁の十字形をしている。茎は細いが思いのほか硬く、指先に軽い抵抗がある。葉は細長くて根元に近い方が広い。
「……名前はわからない。でも、この花びらの形は面白いね。四枚が十字に開いていて、穂の上から順に咲いてる。風が吹いても花粉が散りにくいように、こういう形になったのかもしれない」
要が眉を動かした。
「お前、花を見てまずそういうことを考えるのか」
「え……だって、気になったから」
「名前は知らないが仕組みは考える。お前らしいな」
要がかすかに口の端を上げた。からかっているのか感心しているのか、朔には判断がつかなかった。
「あのね」
篝が割り込んだ。白い梅鉢草を膝の上に戻し、花弁のひとつを指の腹でそっと撫でながら言った。
「お母様がね、梅鉢草には花言葉があるって。『深い愛情』だって」
「花言葉?」
「お花にはね、ひとつひとつに気持ちが込められてるんだって。篝、お母様にたくさん教えてもらったの」
要が目をしばたたいた。
「俺はそういうの、教本に載ってなかったぞ」
「教本には載ってないよ。お母様が知ってるの。お母様のお母様から、聞いたんだって」
篝は嬉しそうに花を揺らした。「釣鐘人参はね——えっと、なんだったかな。『誠実な愛』だったと思う。……さくにぃが持ってるのは、わからないけど」
朔は黄色い花を見下ろした。名前も花言葉もわからない。でも穂の先端から順番に咲いていく構造と、風に抗うための四弁の十字形は、朔の目にはとても合理的に映った。
三人はそれぞれ違うものを花に見ていた。
---
花の話がひとしきり続いた後、篝は三本の花を水を張った小皿に挿した。白と紫と黄色の小さな花が、欠けた皿の中で不揃いに並んでいる。窓から差し込む午後の淡い日差しを受けて、花弁が半透明に光っていた。
「きれい……」
篝がうっとりと呟いた。
要が篝の後ろに座り、壁に背を預けた。朔は篝の横に腰を下ろした。三人が一箇所に集まることは、実はそう多くなかった。要は教導寮の修練で日中いないことがほとんどで、朔は鍛錬、篝は部屋にいる。三人が同じ時刻に同じ場所に揃う午後は、不意に訪れる贈り物のようなものだった。
篝が要に教導寮の話をせがんだ。要は口べたながらも、今朝の修練で練習相手に投げ飛ばされた話をした。
「投げ飛ばされたの? 要兄さまが?」
「相手が俺よりでかいんだ。一つ上の奴だから当然だ」
「痛かった?」
「痛いに決まってるだろう。でも次は投げ返す」
篝がくすくすと笑った。要が力を込めて言い切る「次は投げ返す」には、威張りでも虚勢でもない、当たり前の確信があった。要は約束したことは守る。篝もそれをわかっているように見えた。
話がひとしきり弾んだあと、篝の瞼が少しずつ重くなり始めた。声の間隔が延び、相槌の回数が減っていく。花を挿した小皿を膝の脇に抱えたまま、篝の首がゆっくりと傾いた。
「……要兄さまの話、もっと聞きたいのに……」
篝が最後にそう呟いて、二人の間にそっと沈むように目を閉じた。掛布が肩からずり落ちかけたのを、要が黙って直した。
小さな寝息が聞こえ始めた。
---
篝が眠ると、部屋がしんと静まった。
午後の陽が障子を透かして、畳の上に薄い四角を落としている。花を挿した小皿の水面が微かに揺れ、天井に小さな光の粒を散らしていた。風はなく、敷地結界の纏う土の匂いだけが部屋の隅に淀んで、ひそやかな午睡の空気が満ちている。
篝の寝息が規則正しく繰り返されるのを、要は壁に背を預けたまま聞いていた。しばらくしてから、低い声で言った。
「朔」
「うん」
「お前、最近ずっと庭で何かやってるだろう」
朔は少し迷ってから頷いた。
「……鍛錬を、少し」
「少し、じゃないだろう。毎日やってる。親父が何か言ったのか」
「いいえ。自分で始めたことです」
要はこちらを見なかった。篝の寝顔に視線を落としたまま、短く息を吐いた。
「そうか」
沈黙が数秒流れた。遠くで鳥が鳴いている。里の中のどこかで薪を割る音が、風に乗ってかすかに届いた。
「……篝のこと、どう思う」
要が言った。声の温度が少し変わっていた。兄としてではなく、何かを確かめるような口調だった。
朔はすぐには答えなかった。眠っている篝の顔を見た。日に焼けていない白い頬。前髪が目にかかりそうになっていて、瑞が毎朝梳いた漆黒の髪が襟元で乱れている。呼吸のたびにかすかに動く肩。掛布の端を小さな手で握ったまま、ぐっすりと眠っている。
「……どう、というのは」
「このままでいいのかって話だ」
要は少し間を置いてから、続けた。
「篝は身体が弱い。外には出られない。母さんの薬湯と、親父の敷地結界がなければ、普通に暮らすこともままならない。——それはお前も俺も知ってる」
朔は頷いた。
「でもな」要は眠る篝に目を向けたまま、言葉を選ぶように続けた。「篝は今、笑えてるだろう。花を見て喜べる。本を読める。お前と話せる。俺が帰ってくれば嬉しそうにしてくれる。——それは、幸せなんじゃないかと俺は思うんだ」
要の声は穏やかだった。断言ではなく、自分自身に確かめるような響きだった。
「篝はこのままでも幸せだと思う。俺たちが守ればいい」
朔は黙って聞いていた。要の言葉は正しいと思った。篝は確かに、今この瞬間を幸せに生きている。
でも——。
「……兄上」
朔はゆっくりと口を開いた。
「僕も、篝に幸せでいてほしいと思います」
「ああ」
「でも——篝が自分の足で歩いて、自分の目で外を見て、自分で行きたい場所に行けるようになったら。その方が、もっと」
言葉がうまく繋がらなかった。胸の中にあるものに、まだ名前をつけられない。
要はしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「——お前は、変えたいんだな」
朔は頷いた。
要はこちらを見た。鋭い漆黒の目が、弟妹に向けるときだけ見せる柔らかさを帯びていた。
「俺は守る。お前は変えたい。——どっちも、篝のためだ」
それだけ言って、要は視線を篝に戻した。
眠る篝の寝息が、変わらず穏やかに繰り返されていた。三本の花が水の中で静かに揺れている。白と紫と黄色。名前がわかったものと、わからないもの。花言葉を知っているものと、知らないもの。
同じ花を見ているのに、見えているものは三人ともに違った。篝の将来についても——きっとそうなのだ、と朔は思った。
---
篝の目が開いたのは、日が傾きかけた頃だった。
「……あれ。篝、寝ちゃった?」
寝ぼけた声で呟いて、ゆっくりと身を起こす。掛布が肩からずり落ち、乱れた髪を小さな手で掻き上げた。
要はもう立ち上がっていた。壁に寄りかかっていた姿勢を解いて、鍛錬着の裾を払っている。
「寝てたぞ。盛大に」
「えー……。要兄さまの話、途中だったのに」
「続きは次に帰ってきたときだ」
要はそう言って、篝の頭をぽんと叩いた。乱暴なようで力加減が正確な、兄の手つきだった。
「あ、お花」
篝が小皿を見た。三本の花はまだ枯れていなかった。白と紫と黄色が、傾いた陽を受けて少し温かい色に変わっている。もらったときとは違う顔をしていた。
「梅鉢草と、釣鐘人参と——名前のわからない黄色いの」
篝がひとつずつ指差して、名前を言った。覚えの良い子だった。
「さくにぃ、この黄色いの。名前、調べてくれる?」
「うん。母上に聞いてみるよ」
「花言葉もね。きっと、いい言葉があると思う。だってきれいだもの」
篝は花びらの先を指でそっとつまんで、ふうっと息を吹きかけた。黄色い穂が微かに揺れた。
要が渡廊下に立って、こちらを振り返った。
「朔。鍛錬、続けるんだろう」
「はい」
「——がんばれ」
それだけ言って、要は母屋の方へ歩いていった。大きな背中が渡廊下の角を曲がって消えるまで、朔は見送っていた。
篝が朔の袖を引いた。
「ねえ、さくにぃ」
「なに?」
「要兄さまって、いつもこうやってお花を持ってきてくれるでしょ。——あのね、篝、知ってるの」
「何を?」
「篝の具合が悪い日に、多いんだよ。要兄さまがお花を持ってきてくれるの」
篝はそう言って、小さく笑った。嬉しそうに、でもどこか大人びた表情で。四歳の少女がそんな顔をするのかと、朔は少しだけ驚いた。
「要兄さまはね、言わないけど——篝のこと、すごく心配してくれてるの。篝にはわかるよ」
西の空が橙と紫に染まり始めていた。結界越しの光が屋根の上でかすかに揺れている。小皿の花が夕日を浴びて、影を畳の上に長く伸ばしていた。
三人の午後は、もう終わりかけていた。
でもその温かさは——花の名前と、花言葉と、花びらの形とともに、朔の記憶に静かに残った。




