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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:4幕:教導寮二級童~卒業

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84話:灰の海

 朝の辻で、朔は足を止めた。


 右に折れれば教導寮。左に折れれば——外采門。見習いが始まってからの五週間、朔は鎮護寮や内工座への道を選んできた。今日は左だった。凌がずっと通ってきた道。


 秋の朝露が草を濡らしている。空気は澄んでいたが、歩を進めるごとに、その澄み方が変わった。木々の隙間から結界の琥珀色がちらつき始め、やがて土の匂いが濃くなる。法力の密度が肌を押す。結界が近い。


 外采門が見えた。


 高さ七間の石造りの鳥居。その両脇に、琥珀色の柱状結晶——門柱要石が重く立っている。朔はこの景色を知っている。四歳のとき父に連れられて結界の際に立ち、六角格子の向こうに蠢く影を見た。十歳になった今、同じ鳥居を——今度はくぐる側から見ている。


「おう。よく来たな」


 声は大きかった。鳥居の前に立っていた大柄な影が、朝日の逆光のなかで片手を上げた。


 矛代剛丈。外采寮頭領。


 鉄灰色の短髪に、右頬から顎にかけて古い傷跡が走っている。両腕には穢れの痕が薄く残っていた。目は深い黄鉄色で、笑うと目尻の皺が扇のように広がった——けれど、その奥にある光は鷹のそれだった。


「お前が影写し作ったっていう土御門の倅か」


「はい。土御門朔です」


 朔が頭を下げると、剛丈は近づいてきて、迷いなく朔の肩を叩いた。手は大きく、重かった。鋼一の手が鉄と火の匂いを残したのとは違う。土と、乾いた血と、遠くの風の匂い。


 剛丈の視線が朔の首元に落ちた。護帯——朔が設計し、篝の脈動知見をもとに改良を重ねた防穢法具。外采使に配備されたものと同じ回路が、朔自身の首にも巻かれている。


「それ、お前が作ったやつか」


「はい」


 剛丈は護帯をしばらく見つめ、視線を上げた。目尻の笑いが消え、品定めの光だけが残った。


「今日は通常班の巡哨に入れ。外に出る。死ぬなよ」


 最後の一言はあまりにも自然に言われた。まるで「転ぶなよ」と同じ調子で。


---


 開門の準備が始まった。


 門柱要石の両脇に鎮護寮員が各五名。手のひらから金色の法力の糸が要石に注がれると、六角格子の結合が端から一列ずつほどけていく。幼い朔が父から聞いた言葉が裏側から蘇った——「結界の網目を力で引き剥がす。十人がかりで歯を食いしばってな」。


 門口に裂け目が走った。


 その瞬間、向かい風が吹き込んだ。


 空気ではなかった。腐った果実と焦げた骨を煮詰めたような悪臭が、壁のように押し寄せる。門番が一瞬息を止めるのが見えた。朔も止めた。肺の奥が拒絶する臭い——けれど首元で護帯が微かに振動した。穢れの脈動を感知して回路が応答している。朔が設計した通りに。


 幅五間の穴が開いた。


 灰色の霧の向こうに、空が見えた。鉛色の空。里の中から見上げる澄んだ青とは別の——生気を吸い取られたような空。


「行くぞ!」


 剛丈の号令で、通常班の四人が駆け出した。朔もその後に続いた。門前百間を全力で走り抜ける。石畳が途切れた瞬間、足の下の感触が変わった。踏みしめた地面が脆く、灰色の粉が靴の周りに舞い上がる。


 結界の外に出た。


 最初に消えたのは色だった。結界の内側では朝日が琥珀色に結界面を染め、木々の葉が赤や黄に色づいていた。ここには、その赤も黄もない。草は灰色がかった緑に沈み、空は鉛、土は錆色。世界から彩度だけを抜き取ったような景色が、どこまでも広がっていた。


 次に音が変わった。里の中では朝の風が木々を鳴らし、鳥が声を交わしていた。ここにはそれがない。代わりに、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえた。耳の奥が詰まるような圧迫感のなか、自分の呼吸だけが不自然に近い。


 そして——法力が鈍った。


 結界の外では穢れが常に大気に漂っている。その干渉で、法力の流れに粘りが出る。術を行使するとき、法力が指先まで伝わる速度がほんのわずか遅い。里の中では気に留めたこともない、零点何秒かの「すべり」。だが戦場では、その遅れが命取りになる。


 灰の野。四歳の朔が高台から見下ろした「あやかしの海」を、初めて海の中から見ていた。


---


 通常班の班長は、日に焼けた顔の中年の男だった。名前は聞いたが、朔の耳には風切りの音と混じって残らなかった。班員四人は灰の野を淡々と歩く。朔の歩幅に合わせることはしなかったが、離れすぎることもなかった。


 石牙丘陵の手前で休憩が入った。班の古参——左腕に穢れ痕が薄く残る壮年の外采使が、岩に腰を下ろしながら、首元の護帯にそっと触れた。撫でるような所作。無意識だったのかもしれない。


「前は半刻でここまで来るのが、やっとだった」


 独り言のようにつぶやいた。朔の方を見てはいなかった。


 朔は黙ってその手を見ていた。護帯の上を走る指先。朔が設計した回路の上を、自分とは違う誰かの指がなぞっている。設計図の上で理解していた効果——穢れ曝露の低減、活動限界時間の延伸——が、目の前で一人の人間の呼吸を楽にしていた。


 作ったものが、ここで人の命を守っている。


 その実感は、鎮護寮での結界巡回とも、内工座の工房での鍛造とも違った。父の仕事を見たときの畏怖でも、鋼一の手を見たときの敬意でもない。もっと即物的で、もっと温かく——同時に、もっと怖いものだった。壊れたら、この人は半刻で撤退しなければならない。


 背後で嫌な音がした。低く湿った、骨を鳴らすような。


 古参が瞬時に立ち上がった。岩陰から灰色の体躯が滲み出る——七位の雑妖が三体。泥のような体表に、不規則な牙がむき出しになっている。


 班長が無言で手を振った。班員が左右に散開する。日常の作業だった。外采使にとって雑妖の排除は、里人が庭の虫を払うのに等しい。


 朔は後方で練錫杖を構えた。環が小さく鳴る。結界を張る——里の中では息をするように展開できる結界が、穢れの干渉を受けて法力の線がぶれた。結界の面が揺らぐ。厚みにむらができる。


 それでも張った。完璧ではなかったが、班員の背後に薄い琥珀色の壁が立ち上がる。雑妖の一体が壁に突っ込み、焦げる音と共にのけぞった。


 残りの二体は班員が瞬く間に斬り伏せた。


 戦闘が終わると、班長が朔の方を振り返った。頷き、それだけだった。近くで別の通常班が合流し、班長同士が短く言葉を交わしていた。声の切れ端が聞こえる——「虎太郎の班が先行してる」「鶫の射線を塞ぐなよ」。北斗衆の名が、当たり前のように行き交っていた。


 隣にいつの間にか剛丈が立っていた。巡哨のあいだ、頭領は離れた場所から全体を見ていたはずなのに——いつ近づいたのか、朔には分からなかった。


「お前の結界は綺麗だ」


 剛丈の声は先ほどの気さくさが消えていた。静かで、平坦で、重かった。


「だが外じゃ、綺麗すぎると割れる」


 朔は黙って聞いた。


 父の結界は完璧だった。一枚の揺らぎもない壁。里を守る不動の構造体。朔はその結界を目標にしてきた。しかし——ここは里ではない。穢れの脈動は不規則に揺らぎ、怪異の衝撃は予測できない角度から来る。完璧な壁は、想定外のひび割れから一気に崩壊する。


 割れても張り直せる壁の方が、ここでは正しい。


 朔はまだその壁の張り方を知らなかった。だが、知らなければならないということだけは——体が覚えた。


---


 帰還の門が開いたとき、色が戻った。


 結界をくぐった瞬間、空気が軽くなり、肺の奥にこびりついていた重さがほどけた。鉛色だった空に青が射し込み、土の匂いが風の中に返ってきた。法力が——すべらない。指先まで滑らかに流れる、あたりまえの感覚。それが、どれほどあたりまえでないかを今日知った。


 外采使たちが門番に声をかける。「ご苦労さん」。門番が頷く。たったそれだけのやりとりを、朔は両目に焼きつけた。出て行く者と、門を守る者。善次郎が門の内側から見たあの光景を、今度は帰ってきた側から見ている。


 検疫を経て外采寮の施設内を歩いていると、視界の隅に石が並んでいた。


 殉職碑。


 苔むした石碑が、秋の夕日を受けて長い影を落としている。朔は足を止めた。名前が刻まれていた。一つ一つが縦に整然と並ぶ。祖霊堂で見た碑とは別の——外采寮の者だけが眠る碑だった。四歳のとき父と歩いた道すがら、父はあの碑の前で何も言わなかった。ただ立ち止まり、長い間手を合わせていた。


 どれが新しいのかは分からない。石の色は均一で、苔は古い碑にも新しい碑にも等しく生えていた。


 知らない名前ばかりだった。それでも一つ一つに、門のあちら側に出て行った人がいた。仲間と並んで灰の野を歩いた人がいた。そして——帰ってこなかった。


「全員、ここから出て行った」


 剛丈の声が横から聞こえた。いつからいたのだろう。朔が振り返ると、剛丈は碑を見つめていた。目尻の皺が深く、笑ってはいなかった。


「そして帰ってこなかった」


 風が碑の間を抜けた。


 間があった。


「取ってこなかったら次がある。死んだら次はない」


 朔は碑に向き直った。名前を読んだ。声には出さず、一人ずつ。


 ここを選べば——この碑に名前が刻まれるかもしれない。鎮護寮は父が消耗していく道だった。内工座は「ここではない」と手が知った道だった。外采寮は、死ぬかもしれない道だ。


 けれど。


 今日、護帯に触れた外采使の呼吸を見た。灰色の世界で、朔が作ったものが肌に触れて人の命を守っている場所を見た。あの安堵の表情を支えられるのは、外采寮にいる人間だけだった。


 答えは出なかった。しかし、今日の入力は鎮護寮の静謐とも内工座の火の匂いとも——違う温度だった。


 朔は練錫杖を握った。環が微かに鳴った。碑の前に、小さな結界が灯った。琥珀色の光が、名前の刻まれた石を薄くつつむ。何のためでもなかった。この場所に来て、自分にできることが結界を張ることだった——ただ、それだけだった。


---


 外采門の内側で、見慣れた背中を見つけた。


 凌だった。法衣は灰色の粉塵にまみれ、袖口に乾いた泥がこびりついている。善次郎が門の内側から見たのと同じ姿——疲労と緊張の残る顔の凌を、今度は朔が同じ場所で見ていた。


 ただし、朔自身も同じように汚れていた。


 凌が朔に気づいた。鉄灰色の粉が落ちた頬で、赤銅色の目がわずかに見開かれた。


「……お前も出てたのか」


「うん。今日が初日」


 凌は朔の防穢衣を一瞥した。灰と泥の汚れ。内工座の煤とも鎮護寮の土埃とも違う——外の匂いがついた衣。


「……どうだった」


「……広かった」


 朔に言えたのはそれだけだった。結界の外が広かったのではない。外采使の仕事が負っているものの重みが、広かった。


「明日も来るんだろ」


「うん。あと三週間と六日」


 凌が鼻で息をついた。笑ったのかもしれない。


 二人は外采門を背にして歩き始めた。かつての通学路と同じように並んで。ただし今日は、二人とも結界の外から帰ってきた者として。


---


 土御門家の門をくぐったとき、庭に人影があった。


 篝が縁側に座っていた。膝の上に本を開いたまま、門の方を見ていた。守篝の小さな光が、夕暮れの橙に混じって胸元で仄かに揺れている。


 朔の姿を見た瞬間、篝の目が動いた。朔の顔ではなく——防穢衣を見ていた。鎮護寮から帰ったときとは違う汚れ、内工座から帰ったときとは違う匂い。灰色の粉塵と鉄錆の色が、衣の所々にこびりついていた。


 篝は立ち上がり、朔の傍に来た。そして黙って袖に触れた。指先が布の上を滑る——かつて防穢衣の繊維を確かめたときと同じ動きで。次に守篝に触れた。それからまた朔の袖に。守篝と防穢衣を交互に確認するように。篝を守るものと、朔が外に出るもの。


「……匂いがする」


 篝の声は静かだった。顔を上げず、朔の袖に指を置いたまま。


「外の匂い」


 朔は頷いた。


「……うん。鉄と、腐った葉の匂い」


 篝は何も言わなかった。袖から指を離し、胸元の守篝に手を添えた。


 法具が微かに光った。朔がかつて篝のために作ったもの。篝が見つけた穢れの脈動から生まれたもの。その光は、朔が外から持ち帰ったものを——嗅いだことのない遠い場所の気配を——静かに受け止めているように見えた。


 篝は微笑んだ。ほんの少しだけ、唇の端が上がった。


「おかえり、さくにぃ」


「……ただいま」


 庭の木々が風に揺れた。結界の内側の風——穏やかで、暖かく、色のある風だった。



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