表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:1幕

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/40

7話 : 消える絵

 鍛錬の日々が、いつの間にか朔の日常になっていた。


 指先に初めて「面」の手応えを得てから、幾日かが過ぎた頃だった。


 その日の篝は、朝から目に力があった。


 褥から起き上がったときの声に張りがあり、朝餉の膳を残さず平らげた。唇にも血の色が戻っている。月に七日あるかどうかの、篝の「良い日」だった。


 「お母様、庭に出てもいい?」


 篝が目を輝かせて訊くと、瑞は額に手をあてて熱を確かめ、小さく頷いた。


 「風が出たら、すぐに戻るのよ」


 「うん!」


 篝は小袖の裾をぱたぱたとはためかせながら、渡廊下を小走りに駆けた。白い足袋が板張りの上を跳ねるたび、長い黒髪が背中で揺れる。朔はその後ろ姿を縁側から見ていた。


 ——走れるほど体調がいいのは、久しぶりだ。


 篝が庭に降り立つと、苔のなめらかな地面に足を踏み入れた。秋が深まって、紅葉はほとんど散りきっていた。裸の枝の隙間から覗く空は、結界越しにかすかな琥珀を帯びた薄い青だった。庭の端には散り残った赤い葉が地面に貼りつき、苔の緑と落ち葉の朱が雨上がりの濡れた光の中で鮮やかに映えている。


 昨夜、雨が降ったのだ。


 地面はまだ湿り気を含んでいて、土の匂いが低く漂っていた。敷地結界が纏う無機質なにおい——父の法力の残り香に、濡れた苔と腐葉土が混じった、秋の庭特有の湿った香りだった。


 篝は庭の隅に落ちていた木の枝を拾い上げた。手のひらほどの長さの、細い枯れ枝。それを指先でくるくると回し、何かを思いついたように目を細めた。


 そして篝は、地面に絵を描き始めた。


---


 最初は花だった。


 朔は鍛錬の手を止めて、篝のそばに歩み寄った。篝は地面にしゃがみ込み、湿った土の上に枯れ枝の先で丸い花びらを描いている。一枚。二枚。三枚——五弁の小さな花が、苔の上に浮き出た。


 「なにを描いてるの?」


 朔が覗き込むと、篝は顔を上げた。泥の跳ねた指先を宙に揺らしながら、嬉しそうに笑った。


 「お花。お母様が教えてくれたの。外には、こういう花が咲いてるんだって」


 瑞が篝に話して聞かせたのだろう。里の中の庭にも草花はあるが、結界の外にはもっと多くの種類があったと、母は言っていた——天喰の変で穢れに覆われる前の時代には。母から聞いた話を頼りに、篝は見たことのない花を想像で描いていた。


 「こっちはね、要兄さまが言ってた木」


 篝が枝を走らせた。花の隣に、大きな幹と枝を広げた木が現れた。幹は太く、枝は天に向かって伸び、その先に無数の葉が茂っている。里の中の木よりもずっと背が高く、ずっと枝が多い。要が教導寮の教本で見た挿絵の話を、篝にしたのかもしれなかった。


 「それから、ここはお山」


 木の向こうに山の稜線が描かれた。なだらかな曲線が地面の端まで伸び、稜線の上にはぽつぽつと雲が浮かんでいる。


 「さくにぃが言ってた、灰色の空じゃなくて——篝はね、こっちの空がいいの」


 篝はそう言って、雲の上に太陽を描いた。放射状に線を伸ばし、丸い太陽を縁取った。その横に鳥を三羽。翼を広げて飛んでいる鳥たちは、自由に空を舞っていた。


 朔は黙ってその絵を見下ろした。


---


 篝の手は止まらなかった。


 花の群れから始まった絵は、いつの間にか小さな風景になっていた。川が流れ、橋がかかり、橋の向こうに小さな家が並んでいる。野原には名前のわからない草が揺れ、地面の隅には虫が這い、空には風のすじまで描かれていた。


 驚いたのは、絵の端——朔が「外界」として見たはずの場所に描かれたものだった。


 篝は怪異を描いていた。


 しかしそれは、朔が結界越しに見た禍々しい姿とはまるで違っていた。鬼のような顔をした怪異は口元が笑っていて、頭に花を載せている。蟲の群体のような怪異は体の模様が蝶の翅のように描かれ、触角の先に小さな星が光っている。


 「篝」


 朔は思わず声をかけた。


 「それ……怪異だよね」


 篝は枝を止めずに頷いた。


 「うん。外にいるやつ」


 「怖くないの」


 篝は描いていた怪異の目にまつ毛を足しながら、少しだけ首を傾げた。


 「怖いものかもしれないけど——きっとどこか、きれいなところもあると思うの」


 朔は言葉を失った。


 ——篝の中には、僕にはない世界の見方がある。


 その気づきは、胸の奥に静かに落ちた。結界術を学び、外界を「敵の領域」として認識し始めていた朔にとって、篝の絵は異質なほどに澄んでいた。


---


 篝は絵を描きながら、ときどき朔に訊ねた。


 「ねえ、さくにぃ。外の空って、ほんとに灰色なの?」


 「……うん。少なくとも、僕が見た限りでは」


 「じゃあ、夕焼けは?」


 朔は少し考えた。結界越しに見る夕暮れは、灰色が赤黒く染まるだけだった。里の中から見る夕焼けのような橙色の美しさはなく、どこか腐りかけた果実のような暗い赤だった。


 「……あまり、きれいじゃない」


 篝はしばらく黙って、それから枝の先で地面の夕日の輪郭を大きく塗り直した。土をなぞるその枝先から、暖かな赤と橙が滲み出していくかのように、太陽がさっきより二回りほど大きくなった。


 「じゃあ、篝が描いておく。きれいな夕焼けを」


 その声に悲壮感はなかった。むしろ当然のことのように、篝は笑っていた。


 外に出られない篝が、外の世界を描いている。見たことのない風景を想像し、怖いはずの怪異に花を載せ、灰色の空に色を塗っている。それは外を知らないからこその無邪気さではなかった。篝は外界が危険な場所であることを知っている。朔が毎朝高台で外を見ていることも、父が結界のために疲弊していることも。


 知った上で、それでも——世界を美しいものとして描こうとしている。


 朔はしゃがみ込み、篝の絵を横から見つめた。庭の苔と湿った土に刻まれた小さな世界。五弁の花、大きな木、なだらかな山、笑う怪異。どれも枯れ枝で引っ掻いただけの、ごく素朴な線描だった。けれどそこには、篝だけが見ている世界が確かにあった。


---


 昼過ぎ、雲行きが怪しくなった。


 西から運ばれてきた雲が空を覆い始め、庭の日差しが薄くなった。風が冷たさを帯び、篝の後れ毛が頬に貼りつく。朔は空を見上げた。結界の内側でも天候は変わる——空の色だけは結界が守っているが、風と雲までは遮断しきれない。


 「篝、そろそろ中に入ろう」


 「もうちょっと——」


 篝は地面に目を落としたまま枝を動かしていた。絵の隅に何かを描き足している。よく見ると、小さな人影だった。二人の人影が、花の中に並んで立っている。


 「——もうちょっとだけ」


 篝の声がわずかに掠れた。体調が落ち始めているのだと、朔にはすぐにわかった。指先をさっきまでほど細やかに動かせていない。


 朔は篝の隣に膝をつき、掛布を背中にかけ直した。


 「あと少しだけね」


 篝は頷いて、最後の一本を描き足した。二人の人影の足元に、小さな花をひとつ。


 「……できた」


 篝が枝を置いて、自分の絵を見渡した。苔と土の上に広がる、小さな世界。花と木と山と川、笑う怪異と色のついた空。そしていちばん端に、二人の人影。


 篝は満足そうにふうっと息を吐いた。


 「さくにぃ、見て。これが篝の外の世界」


 朔はその絵を見下ろした。答えの代わりに、篝の頭をそっと撫でた。黒い髪が指のあいだを絹糸のように滑った。


 「すごいよ、篝」


 それしか言えなかった。言葉にならない何かが胸の中に溜まっていたが、四歳の語彙ではそれを言い表すすべがなかった。


 風が強くなった。渡廊下の向こうから瑞の声が聞こえた。


 「篝、朔。入りなさい」


 朔は篝の手を取り、庭から渡廊下へ上がった。篝は最後にもう一度だけ振り返って、自分の絵を見た。風に揺れる枯れ枝の先が土の上を擦り、描いたばかりの花びらの一枚がかすかに乱れた。


---


 夜半に雨が来た。


 遠くから近づいてきた雨音が、屋根を叩き始めたのは宵の口だった。ぽつぽつと弱い打音で始まったそれは、夜が更けるにつれて密度を増し、やがて茅葺きの屋根の上で絶え間ない水の幕となった。


 朔は褥の中で雨の音を聞いていた。


 篝の部屋は渡廊下の向こう側にある。風の強い夜は、篝の寝息が聞こえなくなる。代わりに聞こえるのは雨と、結界がかすかに軋む低い共鳴音と、ときおり裏庭の薬草園から漂ってくる湿った緑の匂いだけだった。


 ——篝の絵。


 朔はあの庭に描かれた風景を思い出した。花と木と山と川。笑う怪異と、二人の小さな人影。朔が「灰色」として見ていた世界を、篝は自分の色で塗り替えていた。


 あの絵は——湿った土に、枯れ枝で引っ掻いただけの、ただの線だ。


 雨が降れば消える。


 その単純な事実が、雨音とともに朔の胸に降り積もった。


---


 翌朝。


 雨は東雲のころに上がっていた。空は洗われたように澄み、朝日が雲の切れ間から差し込んでいる。結界の上端を掠める光が乱反射して、里の屋根に細かい虹の欠片をまき散らしていた。


 朔はいつもより少し早く庭に出た。


 苔の上にはまだ露が光っていた。踏むたびに足袋の裏が冷たく湿り、昨夜の雨の深さを伝えてくる。渡廊下を抜けて庭の奥へ——篝が昨日、半日をかけて描いた場所へ。


 そこには何も残っていなかった。


 湿った土の表面はなめらかに均されていた。雨が一晩かけて、枯れ枝で刻まれたすべての線を洗い流したのだ。五弁の花も、大きな木も、なだらかな山も、笑う怪異も、二人の人影も。篝が見ていた外の世界は、どこにも残っていなかった。苔と土と水の匂いだけが、朝の庭に静かに横たわっていた。


 朔はしばらくその場に立っていた。


 予想はしていた。湿った土に描いた絵が雨で消えることくらい、わかっていた。でも——目の前に広がる「もう何もない地面」を見て、胸の底に奇妙な重さが落ちた。


 あの絵は、もう二度と同じには描けない。怪異の口元の笑い方も、二人の人影の足元に添えた小さな花も、一度きりの瞬間だった。


 ——消えないように残す方法は、ないのだろうか。


 その問いだけは、消えなかった。


 篝はきっと、また描くだろう。同じような花を、同じような木を。でも怪異の口元の笑い方、太陽の光の線の角度、二人の人影の足元に添えたあの小さな花——どれも、一度きりの瞬間だった。


 昨日の午後に確かにあったものが——もう、ない。


---


 「あれ」


 背中で声がした。


 朔が振り返ると、篝が渡廊下の端に立っていた。掛布を肩にかけ、少し寝ぐせのついた黒髪を揺らしている。昨日ほどの元気はないようだったが、目にはまだ光があった。


 篝は庭を見渡して、まっさらになった地面に気づいた。


 「……あ。消えちゃった」


 その声に、悲しみはなかった。ほんの一瞬だけ眉が下がったが、すぐにいつもの表情に戻った。


 「また描けばいいもの」


 篝はそう言って、ふわりと笑った。けろりとした表情で——昨日あれだけ夢中になって描いた世界が跡形もなく消えたことを、当たり前のこととして受け入れていた。


 朔は何も言えなかった。


 篝のような軽やかさで、昨日の消失を受け入れることが——朔にはできなかった。


 篝が描いた世界は、この庭の土と、あの午後の光と、篝の想像力が重なって生まれたものだった。それは篝にしか見えない世界の、ほんの一端だった。あの五弁の花の形。怪異の目に足されたまつ毛。夕日を大きく描き直した、あの一手。そのひとつひとつは、篝がその瞬間に見ていた世界の破片で、どれも取り返しがつかない。


 ——消えないように残す方法は、ないのだろうか。


 その問いは、はっきりとした形を持たなかった。ただ漠然と、胸の奥に澱のように沈んだ。篝が見ている世界を、雨にも風にも時間にも奪われない形で留めておきたいという、名前のつかない渇望。


 今の朔には、それに答える手段がなかった。法力を面にする技術すら、まだ掴みかけたばかりだ。篝の絵を守る方法など、想像すらできない。


 でも——その問いだけは、消えなかった。


---


 「ねえ、さくにぃ」


 篝が渡廊下の端に腰をかけた。足を庭に向かってぶらりと垂らし、濡れた苔の上にはぎりぎり届かない。掛布の裾が朝風に揺れていた。


 「今日は何を描こうかな」


 篝の声は、もう次を見ていた。消えた昨日の絵ではなく、まだ描かれていない今日の絵を。


 朔は渡廊下へ戻り、篝の隣に腰を下ろした。濡れた庭の苔が朝日を浴びて、細かい水滴を無数に抱いている。その一粒一粒が光を弾いて、まるで小さな宝石を散りばめたように輝いていた。


 「……何がいい?」


 「さくにぃが決めて」


 「僕が?」


 「うん。さくにぃが見てみたいもの、描いてあげる」


 朔は少し考えた。結界の外のこと。自分が毎朝見ている灰色の世界。だけど篝の絵なら——。


 「……海」


 朔はそう言った。里にはない、書物の中でしか知らない、果てしなく広い水の大地。


 篝の目が、きらりと輝いた。


 「うみ。篝、描いたことない。でもやってみる」


 篝は渡廊下から降りようとして——朔が先に庭に降り、手を差し伸べた。篝の小さな手が朔の手のひらに収まる。冷たい指先。でも力は、昨日よりしっかりしていた。


 篝は新しい枯れ枝を拾い、まだ乾ききっていない地面の前にしゃがみ込んだ。


 「海って、どこまであるの?」


 「どこまでも。書物には、歩いても歩いても終わらないって」


 「じゃあ、ここからあっちの端まで全部、海にする」


 篝が枝を構えた。


 朔はその背中を見ていた。掛布がずり落ちかけた肩。日に焼けていない白い首筋。梳いたばかりの髪がもう風に乱されて、耳のあたりに垂れかかっている。


 この絵も、雨が降れば消える。明日になれば風が均す。篝が描くものは、いつだって一日しかもたない。


 それでも篝は描く。消えることを知っていて、また描く。


 その姿は、朔が毎日繰り返している鍛錬と——どこか似ている気がした。掌の前に張った法力の膜が一呼吸で消えるように、篝の絵も一晩の雨で消える。消えるとわかっていても、繰り返す。


 今日描かれる海を——朔はちゃんと見ておこうと思った。


 篝が枯れ枝の先を土に沈めた。朝の光が彼女の横顔を照らし、漆黒の瞳に庭の緑と空の青が映り込んでいた。


 波の線が、一本——描かれた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ