75話:境の矛
冬が近い放課後は、凌の影が長かった。
教導寮の門を出て里の道に足を向けると凌がいた。いつものことだった。凌は朔を待っていない——「たまたま同じ時間に通りかかる」だけだ。凌が早すぎたことも朔が遅すぎたこともなく、入学前の冬から続いている合流の間合いは、言葉で決めたことではないのに崩れたことがない。
「よう」
凌が軽く顎を上げた。朔が「うん」と返し、二人は並んで歩き出す。凌の歩幅は広いが速くはない。朔が無理なく隣に立てる速さを、凌は意識していないだろう。
教導寮の帰り道はいつもと同じだった。蓮が浄身院へ向かい、善次郎が武術場の横を通って帰る。朔と凌だけが残る道。冬の入口の陽は低く、里の石畳に薄い橙を引いていた。
凌が軽口を言わなかった。
昨日なら「善の薙刀、また重くなったんじゃねぇの」とか、「蓮がまた俺の傷に文句つけやがった」とか、何かしら言葉が飛んでくるはずだった。凌は寡黙な人間ではない。善次郎のように黙ったまま半歩先を歩くのが凌の性質ではなく、凌の沈黙は「黙っている」よりも「何も言わない」に近かった。
朔は何も訊かなかった。
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翌日の放課後——教導寮の中庭で、厳島寮長の声が朔を呼び止めた。
「土御門。少し時間をもらえるか」
凌が足を止めた。朔は厳島の前に立った。
依頼だった。鎮護寮からの正式な要請——善次郎の防風林調査で判明した結界の劣化について、外層が薄くなっている区画がある。結界際の追調査と、可能であれば応急処置が必要。
「明日行けるか」
厳島の声は穏やかだったが、頼んでいるのではなく確認していた。善次郎のときと同じだった。里の現役の適性者が不足している——結界術の適性を持つ朔に、鎮護寮の作業が追いつくまでの間を繋いでほしいということだった。
「はい」
朔が応じた。そのとき——
「俺も行く」
凌だった。朔が振り返った。凌は中庭の大楠に背を預けたまま、赤銅色の目で厳島を見ていた。
朔は驚いた。結界の調査は制作でも分析でもなく、凌が自発的に関わる領域ではない。朔の結界術と凌の戦刃術は戦場では噛み合うが、結界の補修作業に前衛が必要な理由は——通常なら、ない。
厳島は一拍置いた。凌の目を見て、何を読んだのかは分からなかった。
「いいだろう。結界際は何が出るかわからん」
凌が大楠の幹から背を離した。それだけだった。
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翌朝。
里の外周に向かう道を、朔と凌、そして鎮護寮の巡回員が一人、三人で歩いていた。畑地を抜けると人家が減り、道幅が狭くなった。善次郎と歩いた防風林の道よりもさらに北東——鬼門方面に寄った径。
空気が変わり始めたのは、結界まで百間ほどの地点だった。
重い。朔の結界術の感覚が、外縁に近づくにつれ鋭くなっていく。乾いた土の匂い——洞窟の奥の空気のような無機質な気配が、鼻腔の奥に触れた。掌に微かな痺れが走る。結界の法力が空間に満ちているのを、朔の身体が拾っている。
五十間で六角格子の模様が見え始めた。琥珀色の光の筋が空中に薄く浮かび、蜂の巣のように連なっている。その向こうに要石の柱が並んでいた。高さ一丈余りの琥珀色の結晶。古いものは色が灰色に濁り、表面に縦の亀裂が走っていた。
二十間まで近づいたとき、耳の奥が詰まった。結界面の圧が鼓膜を押している。朔は歩調を緩めず、法力の感覚を地面と空間の両方に向けた。結界面の「血管」——法力が流れる六角格子の辺を、指先の痺れで辿る。
——ほつれている。
北東の古い要石の傍で、格子の結合が一部崩れていた。六角の辺が金色ではなく灰色に変色し、結合が緩んで隙間が生まれている。そこから穢れが細く吹き出していた。通常の微量漏出ではない。裂け目から押し出される穢れが空気を淀ませ、乾いた土の匂いを腐臭に変えている。
同時に——結界の向こう側が見えた。歪んだ硝子の向こうに、蠢く影。忌避膜が機能していない区画に、蟲のような小さな影が結界面に張りつき始めていた。雑妖だった。
「朔、まだ見てるのか」
凌の声が横から来た。振り返ると——凌は既に刀の柄に手をかけていた。刀を抜く寸前の構え。朔が穢れの分布を分析している間に、凌は結界の向こうの怪異の気配を捉えていた。朔より先に。
朔の分析が起動していた。裂け目は広がりつつあるが、まだ小さい。今すぐ大規模な破綻にはならない。だが放置すれば穢れが蓄積し、防風林と同じ慢性的な侵食を引き起こす。応急処置が要る。
巡回員の顔が強張った。「これは本部に——」
「早く報告を」
凌が言い切った。巡回員の語尾を待たなかった。巡回員は一瞬凌を見て、それから朔を見た。朔が頷いた。
「応急処置は二人でやります。報告をお願いします」
巡回員が走り出した。二人になった。
朔は古い要石に向き直った。ほつれた格子の結合を法力で繕う——結界の辺に沿って法力の糸を這わせ、緩んだ節点を接続し直す作業。古い要石に手をかざした。指先から金色の法力が滲み、六角の辺に触れた。
反応が鈍かった。要石自体がひび割れて法力を保持する力が弱っている。朔の法力を注いでも格子に定着しにくい——砂に水を垂らすように、端から散っていく。
「凌」
呼んだ。凌は分かっていた。
「やれ。俺が持たせる」
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刀が鞘を離れた。
蒼白い光が刀身に宿った。凌の法力が刀身を巡り、刃に薄い光の膜を纏わせる。戦刃術——金行陽。指先に刃物の冷たさが纏うような鋭利な感覚。凌の目が結界面の向こうに据わった。
結界を傷つけてはならなかった。
結界面に張りついた雑妖を排除する。だが凌の全力の一振りは結界の六角格子そのものを揺るがしかねない。ほつれた結合を繕おうとしている朔の作業を、凌の法力が邪魔してはならない。
つまり——全力で振れない。
凌は結界面に沿って刀を構えた。刃先の蒼白い光と、結界の琥珀色の光が隣り合う。二つの光が触れ合わないぎりぎりの距離。凌が息を吐いた。
蟲のような影が張りつき、格子の隙間から穢れを押し込もうとしている。凌は一体目を見定め——刀を振った。
結界面の格子の隙間に法力の衝撃波を通す。蒼白い光が琥珀の辺に触れない角度で滑り、格子の隙を縫って外側の雑妖に届く。衝撃波が雑妖を弾き飛ばし、焦げた煙が上がった。
凌の歯が食いしばられていた。
出力を絞っている。全力の三割にも満たない精密な制御。拳の中で暴れる力を、指先だけで押さえつけている。
朔は補修に集中した。金色の法力の糸を格子の辺に沿わせ、ほつれた節点を一つずつ結び直す。要石の反応が鈍い。法力が定着しにくい。焦りを押し殺し、糸の注入速度を落として丁寧に流し込んだ。結界面に触れた指先が冷たく、硬い抵抗感を返してくる——空間そのものが固い感触。土行固有の、洞窟の空気のような乾いた匂いが鼻腔を満たしていた。
「来るぞ」
凌の短い声。朔は補修の手を一瞬止め、格子の結合を保護する方向に法力を切り替えた。結界面の外から新しい雑妖が突進してくる——凌が迎え撃つ。刀が弧を描き、格子の隙間から蒼白い光が走った。三体。四体。凌は一体ずつ正確に排除した。刃先の角度を微調整し、結界面に触れない軌道を維持し続けている。
「朔、まだか」
「もう少しだ」
戦闘中の最小限のやり取り。朔が「今」と言えば凌が振り、凌が「来る」と言えば朔が手を止めて格子を守る。言葉は短かった。声の届く距離で二人が培った連携が、結界際で実戦として動いていた。
穢れの凝集が怪異を引き寄せていた。雑妖の数が増え始める。凌は一体ずつ排除するが、次から次へと結界面に張りつく。凌の額に汗が浮いた。力を抑えて戦い続ける消耗は、全力で振るよりもずっと大きい。
朔は格子の最後の節点に法力を流し込んだ。金色の糸が節点で微かに明滅し——定着した。ほつれた六角の辺が結合を取り戻し、灰色に変色していた格子が僅かに琥珀色を帯び始めた。穢れの吹き出しが止まっている。
「——終わった」
凌が刀を止めた。穢れの凝集が弱まり、雑妖が結界面から散っていく。凌は刀を下ろし、息を吐いた。刀身の蒼白い光が消え、刃が鋭い銀色に戻った。
凌が刀を鞘に戻した。「なんだ、雑魚ばっかりか」
軽口が戻っていた。だが朔は見ていた——凌が結界を傷つけないように力を抑えて戦ったことを。あれは雑魚相手の手抜きではなかった。出力を精密に制御し続ける高度な技術だった。かつて焔壇で朔の結界に封じられなければ暴走しかけた凌が、ここでは自分の力で出力を絞り切った。
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帰り道は二人だった。巡回員は本部への報告で先に走っている。
里の外縁から居住区に戻る道を並んで歩いた。冬の入口の風が冷たく、二人の吐く息が薄く白い。凌の歩幅は広いが速くはなかった。
「助かった。凌がいなかったら処置できなかった」
朔が言った。凌の視線が前方に向いたまま、間があった。
「……別に。やっただけだ」
何かが引っかかった。いつもの凌なら「当然だろ」と不敵に笑うか、「お前が遅ぇんだよ」と軽口を返す。しかし凌の声は平坦だった。笑みがない。笑顔が消えたのではなく——そもそも今日の凌は、軽口以外のときに笑っていなかった。
朔は歩きながら問うた。
「朝、自分から来ると言ったのは——結界のことが気になっていたのか」
凌の足音が一拍だけ止まった。止まって、すぐに戻った。
「……親父と巌が書斎で話してるのを聞いた。結界の劣化が進んでいると」
凌の声は短かった。棘はなかった。凌は久我崎家の書斎の前を通りかかったとき、偶然その会話を耳にした——嶺壱と巌が結界の寿命と要石の劣化について話していた。総宰司としての話だった。凌がその場に留まる立場にも、口を出す資格にもない会話だった。
凌はそのまま通り過ぎた。
「ただ……知っておきたかった」
それだけだった。凌の言葉はそこで途切れた。それ以上は出てこなかった——凌が隠したのではなかった。父の管理下にある結界が劣化していることへの不安も、自分がその問題に関与できないもどかしさも、「戦うこと」以外で久我崎の名に応える方法がわからない焦りも、凌の中にはあったのだろう。しかし凌はそれらを言葉にできなかった。
朔は何も返さなかった。凌の沈黙を追わなかった。
里の屋根が見え始めた。冬の陽が低く、石畳の影が長く前に伸びている。凌が歩調を変えずに口を開いた。
「朔」
「うん」
「……明日も結界際、行くのか」
「鎮護寮の判断次第だけど、まだ調べなきゃいけない区画がある」
「俺も行く」
同じ言葉だった。昨日、教導寮の中庭で言った言葉と。しかし今日の「俺も行く」は、昨日のそれとは別の重さを含んでいた。朔にはそれが聞こえていた。
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凌が去った後、朔はしばらく道に立っていた。
凌の背中を見送った。大きかった。歩調は崩れない。揺れない。濃紺の短髪が冬の風に僅かに揺れるだけで、肩も腰も足音もいつもの凌のままだった。
蓮の「なんでもない」を思い出した。蓮には笑顔の鎧があった——鎧の隙間が入口だった。善次郎の「大丈夫だ」を思い出した。善次郎には動じない壁があった——壁に正面からぶつかることが入口だった。
凌には何もなかった。
鎧がない。壁がない。泣きも震えもしない。隠しているのではなく——言えないだけだ。凌の手は結界際で刀を振るとき一度も震えなかったし、凌の顔は「別に」と言ったとき何一つ崩れなかった。凌はいつもの凌のまま——ただ少しだけ、言葉が足りなかった。
蓮には技術で踏み込めた。善次郎には正面から訊くことができた。凌には——朔にはまだ、道が見えなかった。
朔は踵を返した。冬の入口の風が頬を切り、結界の遠い共鳴音が——腹の底に微かに響いていた。
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翌日の夕刻。
鎮護寮の作業場で、凌と朔の調査報告を受けた巡回員が上方に報告を上げていた。ほつれた格子の応急処置の状況。穢れの凝集の規模。そして——
「同行した久我崎の三男ですが」
巡回員は報告の末尾に一文を加えた。
「反応速度と、結界を傷つけない法力の精密な制御は——現役の外采使でも容易には出せない精度でした」
報告は基にも届いた。基は朔の補修については当然として受け止めたが、凌の戦闘能力に視線を留めた。凌を朔の班員として、そして嶺壱の息子として知っている。基が定例の報告で嶺壱に結界の劣化状況を上げたとき、報告の中に凌の働きを一文加えた。鎮護寮の頭領としての客観的な評価として。
嶺壱はその一文を目にして——沈黙した。




