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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:1幕

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6話 : 最初の「形」

 数日が過ぎた。


 父の言葉は、朔の中で何度も形を変えた。


 ——法力は水だと思え。器の形に沿って流れる。


 呼吸法を繰り返すたびに、その声を耳の奥で反芻していた。法力を「放つ」のでもなく「固める」のでもなく、器に沿わせる。水のように——力まずに。


 朔は毎朝、庭の隅に座り続けた。苔むした地面に膝を置き、呼吸を整え、掌の前に「器の形」を思い描く。薄くて、透明で、確かにそこにあるもの。見えない膜。


 法力は確かに流れた。あの夜、初めて掬い上げた水の感触を、指先は覚えている。臍の下の脈動を腕に通し、掌から滲ませる。力まずに、ただ——沿わせる。


 けれどそこまでだった。


 法力は器の縁に触れるように掌の先へ伸びるが、一巡の呼吸が終わるころにはもう消える。あの夜の、ほんの一瞬だけ「留まった」感覚を再現しようとして、何度も、何度も試みた。十回。二十回。三十回。指先に冷たい感触が掠めては消え、掠めては消える。


 散りはしない。固まりもしない。だが——留まらない。


 法力が「面」になろうとする瞬間と、散っていく瞬間の狭間。そのあまりに薄い境目を指先で探るような、途方もない作業だった。


---


 秋がさらに深まった朝だった。


 庭の紅葉が赤に染まりきって、風が吹くたびに乾いた葉が地面を転がる。渡廊下の柱に切り取られた空は、硝子のように冴えた青だった。結界の内側にだけ許された色——結界越しに外界の灰色の空を見たことがある朔には、この青がどれほど贅沢なものか、よくわかっていた。


 その日、篝の体調は良かった。


 朝から目に力があり、頬にほんのりと赤みが差している。瑞が梳いた長い黒髪が背中にまっすぐ流れ、小袖の白と漆黒の髪が、庭に敷かれた苔の緑によく映えた。


 篝は庭先の陽だまりに座っていた。


 褥を母に庭まで運んでもらい、掛布をひざの上に載せて、日の光を浴びている。秋の陽射しは夏ほど強くないが、篝の白い肌を柔らかく照らしていた。風が篝の後れ毛を揺らすたびに、漆黒の糸が光を弾いてちらりと輝く。


 「いい天気だね、さくにぃ」


 篝が瞳を細めて空を見上げた。澄んだ漆黒の目に日の光が映り込んで、底に金色の粒が散ったように見えた。


 朔は頷いた。篝が外に出られる日は、月に七日から十日しかない。その一日がこうして晴れていることが、ありがたかった。


 「しばらくここにいていい?」


 朔が訊くと、篝は嬉しそうに笑った。


 「うん。一緒がいい」


---


 朔は篝から少し離れた場所に腰を下ろした。


 庭の端、苔のなめらかな地面に膝を置き、背筋を伸ばす。篝がすぐ近くにいる。日向ぼっこをする妹の気配を背中に感じながら、朔は右手を前に翳した。


 目を閉じる。


 呼吸を整える。鼻から吸って、背中に入れて、臍の下に沈める。三呼吸で体の芯が温まり、五呼吸目には指先にまで熱が行きわたる。もう手順は体が覚えていた。


 掌の先に、薄い膜を思い描く。


 ——今日はもう少し、違う形で試してみよう。


 父は言った。お前が作りたい形を先に思い描け、と。


 朔はこれまで、右手の前に「壁」を描いていた。だが今日は、両手の掌を向かい合わせた。左右の手のひらの間——拳二つ分ほどの距離を空けて。


 その間の空間に、「内と外の境目」を思い描く。


 壁ではない。掌に挟まれた小さな空間の外側と内側を、ただ「分ける」。器に水を注ぐように——法力をその境目に沿わせる。


 臍の下の脈動が、両腕を伝い、左右の掌に流れた。指先から滲み出す法力が、向かい合った掌の間に漂い——


 散った。


 まだ足りない。


 もう一度。両手を向かい合わせ、呼吸を整え、境目を描き、法力を流す。指先が空を掴んだ。もう一度——法力は形を保たなかった。


---


 何度目かの試行のとき、背中で篝の声がした。


 「さくにぃ、なにしてるの?」


 朔は手を止めて振り返った。篝は褥の上で頬杖をつき、好奇心に満ちた目でこちらを見ていた。


 「ひみつ」


 朔はそれだけ答えた。


 篝が唇を尖らせた。漆黒の瞳が少し不満げに細められる。


 「……また、ひみつ?」


 「もう少ししたら教えるよ」


 「ほんと?」


 「ほんと」


 篝はしばらく朔の顔を見つめてから、ふわりと笑った。


 「わかった。じゃあ待ってる」


 篝は褥の上でころんと寝返りを打ち、空を見上げた。赤い紅葉の隙間から覗く青空を眺めながら、小さく鼻歌を歌い始める。遠くの鳥の鳴き声と、篝のたどたどしい旋律が、秋の庭に重なった。


 朔は向き直り、また両手を翳した。


---


 午後が傾き始めた。


 日の光が黄味を帯び、庭の影が長く伸びる。紅葉の赤が夕暮れの色と混じり合い、庭全体が琥珀色に沈んでいく。空の青は西から橙に変わり始め、結界の上端がかすかに夕日を弾いて、空と結界の境目にうっすらと虹のような色彩が揺らいでいた。


 篝は膝の上の掛布に頬を預けて、うとうとしていた。体の良い日でも、午後には倦怠感が忍び寄ってくる。それでも部屋に戻りたがらなかった。


 朔は汗ばんだ額を袖で拭い、もう一度両手を翳した。


 何度目かわからなかった。三十回は超えている。五十回に届いたかもしれない。力んでいないため指先に痺れはないが、法力の残量が底に近いことは、臍の下の脈動の弱さでわかった。


 今日最後にしよう。


 息を吸い、背中に入れ、沈める。この呼吸が何千回目になるのか、もう数えていなかった。


 両手を向かい合わせる。掌の間に「内と外」を描く。法力を流す。力まずに。水のように。器に沿わせる——


 指先に、何かが触れた。


 それは冷たくて、硬くて、ほんの微かな抵抗感だった。


 朔は息を止めかけて——止めなかった。呼吸を続けた。法力の流れを途切れさせてはいけないと、体が覚えていた。


 両掌の間に、法力が——膜のように張った。


 目に見える光はなかった。形すらない。琥珀色の輝きも、空間が固まる音も、何もなかった。ただ朔の指先にだけ、法力が「面」になろうとした微かな手応えが残った。


 掌と掌の間の空気が、ほんの一瞬だけ——違った。内側と外側に分かれたような、薄い境界のようなもの。それは水面に広がる油膜よりも薄く、蜻蛉の翅よりも儚く、けれど——確かに、そこにあった。


 一巡の呼吸が終わると、その感触は消えた。四歳の体では法力が足りなかったのだ。指先を掠めた冷たい抵抗感は泡のように消え、両手のあいだにはただ秋の風が通り抜けた。


 朔は両手を膝に下ろした。


---


 胸の奥が、温かかった。


 今のが「結界」と呼べるものかどうか、朔にはわからなかった。目に見えるほどの変化はなく、形にすらなっていない。


 けれど道のりは、途方もなく長い。今日できたことは、結界と呼ぶにはあまりにも小さい。再現できるかどうかすらわからない。


 けれど——絶望はなかった。今日の一瞬は、確かに昨日までにはなかった。


 ——篝が日向ぼっこしていた傍で、今日に限って手応えを得た。


 偶然だろう——けれど嬉しかった。篝の鼻歌を聞きながら両手を翳していた、あの穏やかな午後に、初めての手応えを得たことが。


---


 「朔」


 静かな声が降ってきた。


 朔が顔を上げると、母の瑞が立っていた。湯気の立つ茶碗を両手で持っていた。袖口から薬草の残り香がほのかに漂い、秋の風に混じって朔の鼻先を掠めた。


 「お茶、入れたから」


 瑞はそう言って、朔のそばに膝をつき、茶碗を差し出した。温もりが陶器越しに掌に伝わった。苦みの少ない、篝のために煎じているのと同じ薬草茶だった。


 「ありがとうございます、母上」


 朔が茶碗を受け取ると、瑞は庭先で眠りかけている篝にちらりと目をやり、それから朔の手をじっと見つめた。鍛錬の痕跡が残る手を——何かを確かめるように。


 「無理はしないでね」


 穏やかな声だった。朔を叱るでも、問い詰めるでもない。ただ——その目には、驚きと、どこか寂しげな翳りが、同じ深さで重なっていた。


 その翳りの意味を、朔はまだ言葉にできなかった。ただ母の目が——嬉しそうでもあり、どこか痛そうでもあることだけが、幼い胸にかすかに引っかかった。


 朔は茶を啜った。温かい液体が喉を通り、冷えた体に染み込んでいく。鍛錬の後に飲む茶は、いつもより少し甘く感じた。


 「明日もここにいます」


 朔がそう言うと、瑞はほんのわずかに微笑んだ。


 「……そう」


 それだけだった。多くを含んだ、短い相槌。瑞は立ち上がり、篝のもとへ歩いていった。うとうとしている篝の掛布をそっと直し、額に手をあてて熱を確かめている。その背中を見ながら、朔は温かい茶碗を両手で包んだ。


---


 夜が来た。


 篝は夕餉のあとすぐに褥に入り、穏やかな寝息を立てていた。長く外にいたせいか、疲れが深く出ているようだった。けれどその顔は安らかで、唇がほんの少しだけ開いて、規則正しい呼吸が聞こえた。


 朔は篝の布団の端を直してから、庭に出た。


 秋の夜の空は深かった。月は出ておらず、星が結界の向こうに無数に散らばっている。結界の膜を透かして見る星は、わずかに琥珀を帯びて揺らいでいた。要石の光が遠くで脈打ち、低い振動が庭の苔を伝って朔の足の裏に触れた。


 朔は縁側に腰をかけ、夜空を見上げた。


 右手を前に翳す。指先に意識を集める。


 ——あの手応えが、まだ指先に残っている。


 消えてしまったけれど——指先は、覚えている。


 夜風が苔の匂いを運んできた。乾いた秋の土と、かすかな石灰のような無機質な残り香。敷地結界が纏う、父の法力の匂い。


 あの午後の温かさが、まだ胸の奥に残っていた。


 秋の夜が更けていく。朔はゆっくりと目を閉じた。


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