67話 : 篝の季節
秋が深くなっていた。
朔が表門をくぐるとき、背中に声が飛んできた。
「いってらっしゃい、さくにぃ」
振り返った。
篝が門柱のそばに立っていた。朝の光を横から受けて、白い小袖の裾が風に靡いている。首元の守篝が陽射しを受けて一粒の光を零した。
朔は片手を上げた。声は出さなかった。いつもの仕草で、いつもの表情で——ただ、通学路の石段を踏む足が一歩ぶん広かった。
門を出て数歩。また振り返りたくなった。
振り返らなかった。篝はまだそこにいるだろう。門柱に指を触れて、朔が角を曲がるのを見届けている。以前は篝の声が届く場所は、部屋の中だった。障子を隔てた薄暗がりの中で「がんばってね」と言う声は、朝の空気に触れる前に散った。
今日の声は外に出ていた。秋の空気がよく透る朝で、篝の声は石段の下まで聞こえた。
---
教導寮が休みの日だった。
篝が縁側から庭を覗き込んで、指先で何かを数えていた。庭の草花の数を見ている。秋の花が低く咲いていて、名前を指で追いかけている。
「ねえ、さくにぃ。あれ、なに?」
篝が縁側の端から身を乗り出して、庭の向こう——裏庭との境にある低い木を指した。
「梅擬きだよ。実が赤くなるんだ」
「梅擬き」と篝が口の中で繰り返した。新しい名前を味わうように、唇が小さく動く。
「ねえ、さくにぃ。影写しで撮ってみたい」
朔は少し驚いた。影写しを持ち出すのは朔の日課だった。景色を切り取りたいと思ったとき、袖から筒を出して構える。篝はいつも受け取る側にいた。
「いいよ」
影写しの筒を棚から持ってきた。篝の手に渡した。竹を芯にした短い筒。篝の両掌にちょうど収まる大きさだった。
篝が筒を持ち上げた。庭のほうに向けて、片目を閉じた。子どもが遠くを覗くような仕草だった。
「……どうやって撮るの?」
「法力を流さないと像が定まらない。僕がやるから——篝は撮りたいものに向けて」
朔が篝の後ろに回った。篝の手の上に自分の手を重ねて筒を支えた。燭明術の法力を手のひらから筒に流し込んだ。微かな光が指の隙間を照らした。
篝の手の中で筒が温まった。
「温かい」
守篝を初めて手に取ったときと同じ言葉だった。だが温度の出所が違う。守篝は七人の法力が篝を守るために灯した温度。影写しは朔と篝が、何かを一緒に見るための温度だった。
「撮るよ。動かないで」
篝が息を止めた。筒の先が庭の草花を捉えている。朔が法力の量を絞って、筒の中の感光紙に像を焼き付けた。
光が一瞬だけ強くなり、消えた。
「……撮れた?」
「撮れたよ」
朔が筒から感光紙を抜き出した。薄い和紙の上に、庭の草花が淡い濃淡で浮かんでいる。定着処理はまだだから、このままでは消える。だが像は確かにそこにあった。
篝が和紙を覗き込んだ。自分が選んだ場所。自分が向けた筒。紙の上に残ったもの。
それから篝は筒を持ったまま、庭を見回した。二枚目を探している目だった。
「ねえ、さくにぃ。裏庭の井戸、撮りたい」
朔は黙った。
「さくにぃの一日はあそこから始まるでしょ。篝、知ってるよ。毎朝、釣瓶の音がするの。縄を引く音がして、桶が上がって、それから足音が廊下に来て。——篝、ずっと聞いてた」
篝は笑っていた。悪戯を見つけた顔ではなかった。大切なものを、ようやく言葉にできた顔だった。
朔は一拍だけ口を閉じた。
以前、朔は影写しで篝のための景色を撮った。篝がここに座ったら見える角度で、大楠を撮った。篝の目線に合わせた構図だった。
今、篝が撮ろうとしているのは朔の景色だった。朔が毎朝見ている井戸。朔が手を伸ばして縄を引く場所。
「——行こう」
朔は篝と裏庭に回った。篝が筒を構えて、井戸に向けた。石積みの井筒と滑車の木枠が秋の陽を受けて影を落としている。
朔が後ろから手を添えて、法力を流した。
二枚目の像が焼き付いた。
篝は和紙の上の井戸を見て、頷いた。何かを確かめるように、もう一度頷いた。
「玄外さんに持っていかないと、消えちゃうね」
「うん。今度一緒に——」
「玄外さんに会ってみたいな」
篝の声が弾んだ。守篝を作った工房の人。影写しが生まれた場所の人。篝にとっては名前だけの存在だった人が、会いたい相手に変わっていた。
---
別の日。
蓮が土御門家の門を叩いた。
「篝ちゃん、行こう!」
蓮の声は朝の庭に真っ直ぐ響いた。篝が表門の内側から顔を出して、蓮に駆け寄った。小さな走りだった。足が縋るように前に出て、すぐ歩きに戻る。
「蓮ちゃん、おはよう」
「おはよ! 今日は晴れてるから、浄身院のお庭も気持ちいいよ」
瑞が表門まで来て、篝の首元の守篝を確認した。核の光が穏やかに脈打っている。
「あまり長くならないようにね。午後の早いうちには帰ってきて」
「はい、叔母様」
蓮が畏まった声を出して、すぐにいつもの声に戻った。
「大丈夫、あたしがついてますから」
朔は渡廊下の向こうからそれを聞いていた。玄外の工房に行く支度をしながら。
篝が誰かと二人で出かけていく。朔が一緒ではない外出。朔がそばにいないまま、篝が里の道を歩く。
それは——初めてのことだった。
朔は支度を済ませると門を出た。篝と蓮の姿はもう道の先に消えていた。朔は反対の方向、玄外の工房への道を歩いた。
通学路の途中に分かれ道がある。いつも凌と合流する場所だった。影写しの四枚目を撮った場所。
分かれ道を通り過ぎるとき、ふと足が遅くなった。この道を——今日は篝と蓮が通ったのかもしれなかった。通っていないかもしれなかった。浄身院は別の道を行く方が近い。篝がどの道を歩いたのか、朔は知らなかった。
朔が知らない篝の一日が、今日、生まれている。
玄外の工房では何も変わらなかった。影写しの改良品を確かめて、感光紙の調合を手伝った。何もかもがいつも通りだった。
夕方、帰宅した。門をくぐった。
玄関口から声が聞こえた。二つの声が重なって笑っている。
「——蓮ちゃん、あれなんていう花?」
「うんとね、あれが忍冬。冬でも葉が枯れないから忍冬っていうの。瑞叔母様が前に教えてくれた」
「忍冬。……冬でも枯れないんだ」
篝が庭先に座っていた。蓮が隣に腰を下ろして、二人で何かの葉を広げている。
篝が朔に気づいた。
「あ、さくにぃ。おかえり」
「……ただいま」
篝の頬が薄く色づいていた。歩いた後の血色だった。部屋の中にいるだけでは見たことのない色。
「浄身院のお庭にね、白い花が咲いてたの。蓮ちゃんが名前を教えてくれた」
蓮が割り込んだ。
「篝ちゃん、薬草の仕分けすっごく丁寧で。瑞叔母様が『助かるわ』って」
篝が照れたように目を伏せて、すぐに顔を上げた。
「また行きたいな」
声が跳ねていた。またどこかに行きたいという声を、篝の口から朔が聞くのは——初めてだった。
---
ある日の夕暮れ。
篝の部屋の縁側に、二人で並んで座っていた。秋の庭に夕陽が横から差し込んで、木の幹を橙に染めている。
篝が今日あったことを話していた。
浄身院で見た薬草の乾燥棚のこと。蓮がすり鉢で何かを調合しているのを横で見たこと。庭の隅で鳥が水を浴びていたこと。
朔は黙って聞いていた。
以前は逆だった。朔が教導寮から帰ってきて、「今日はこんなことがあった」と篝に話す。篝は褥の上で膝を抱えて、「それで?」と聞いた。外の世界の話は朔が持ち帰るものだった。篝はいつも聞く側にいた。
今日は篝が話している。今日の外を。今日の空を。今日の花の名前を。
「ねえ、さくにぃ。外って、思ってたより静かなんだね」
篝がぽつりと言った。
朔は息を呑みかけて——止めた。
あの小さな嘘を思い出した。篝がまだ部屋から出られなかった頃。帰宅するたびに、篝に聞かれた。外はどうだった? 朔は「静かだったよ」と答えた。嘘ではなかった。里の中は確かに静かだ。結界が守っている。だがあのとき篝が聞きたかったのは、里が安全かどうかではなく——朔が無事かどうかだった。そして朔が「静かだった」と言ったのも、里の報告ではなく——篝を安心させたかっただけだった。
篝は今、自分の足で外を歩いた。里の中が静かであることを、自分の耳で知った。嘘でなくなった言葉が、篝の声で帰ってきた。
「……そうだね」
朔はそれだけ答えた。
篝は問い詰めなかった。嘘だったのかと聞かなかった。嘘でなくなった世界で、かつての嘘はもう重さを失っていた。
夕陽が傾いて、庭の影が延びた。篝の首元の守篝が夕陽と同じ色に光った。
しばらく二人とも黙っていた。秋の虫がどこかで細い声を立てている。
---
ある朝。
朔はいつものように敷地の北西端に立って結界の外を見渡した。灰色の外界に変わりはなかった。風は北西から吹いていて、冷たかった。
井戸に向かった。釣瓶を下ろして、縄を繰り出した。手が覚えている動作だった。水面まで五間。縄が手のひらを滑る感触。桶が水面に当たる柔らかい衝撃。引き上げる腕の重さ。
水を桶に移した。両手で持ち上げた。渡廊下を歩いた。
篝の部屋の障子の前で、足を止めた。
閉じた障子を見た。声をかけようとした。
——障子の向こうが、静かだった。いつもと違う静かさだった。寝息がない。寝返りの気配もない。
障子を引いた。
褥が畳まれていた。
きちんと、四つに畳まれていた。枕元に朔が昨日持ってきた水差しが空になっている。掛け衣が綺麗に折り重ねてある。篝は——いなかった。
朔は水を持ったまま渡廊下に立っていた。
庭に目をやった。
篝が陽だまりの隅で瑞と膝をつき合わせて、薬草園の土をいじっていた。朝の光が低く差し込んで、篝の黒髪が透けるように光っている。瑞が何かの苗を指して説明していて、篝が頷きながら自分の手で土を寄せていた。指先に土がついている。
朝から。
朔より先に起きて、外にいる。
四年間——この家で、一度もなかったことだった。褥の中で朝を待つ篝。足音に耳を澄ませて寝たふりをする篝。「……さくにぃ、もう朝?」と寝惚けた声で呼ぶ篝。その篝が、朔が水を汲んでいる間にもう庭にいた。
朔は一歩を踏み出せずにいた。桶の水が両腕を引いている。持ち慣れたはずの桶が、なぜか重かった。
篝が顔を上げた。土のついた手を、袖で拭おうとして母に止められた。篝は「えへへ」と笑って、それから朔に気づいた。
「あ、さくにぃ。おはよ」
何でもない声だった。毎朝顔を合わせて交わす、ただの挨拶だった。
「……おはよう」
朔は渡廊下から庭に降りた。草履の裏に、朝露に濡れた土の冷たさが伝わった。篝のそばまで歩いて、水をそこに置いた。
篝が水を見て、笑った。
「ありがと」
水を置く場所が変わった。部屋の枕元ではなく、庭の草の上。同じ桶で同じ井戸から汲んだ同じ水が、違う場所に置かれている。
瑞が立ち上がって、台所のほうに向かった。朝餉の支度に戻っていく。篝と朔だけが残った。庭の隅。篝は薬草の間にしゃがみ込んで、朔は水の横に立っていた。
篝が水を一口飲んだ。喉を鳴らして、もう一口飲んだ。井戸の水は冷たかった。篝が目を細めた。
「冷たくておいしい」
その声が——部屋と庭で同じだった。壁のない声。天井のない声。秋の空の下で、篝の声がそのまま宙に吸い込まれていった。
朔は表門に向かった。教導寮に行く時間だった。門柱の手前で足を止めた。
振り返った。
篝が庭から立ち上がって、門のほうに歩いてきていた。小さな歩幅で、でも止まらずに。
「いってらっしゃい、さくにぃ」
もう、当たり前の声だった。
朔は門を出た。通学路の石段を下りて、里の道に足を踏み出した。朝の空気が冷たくて澄んでいた。吐く息が白い。冬が近い。
分かれ道が見えてきた。石段の下。毎朝凌が合流する場所。
凌が立っていた。石段の手すりに背中を預けて、腕を組んで待っている。朔が近づくと、凌がこちらを見た。
「——いい顔してんな」
凌の声は素っ気なかった。褒めているのでも、からかっているのでもない。見たものをそのまま言っただけの声だった。
朔は少し考えた。
「……いいことがあった」
凌は鼻で息をついた。それ以上聞かなかった。朔も何も足さなかった。二人は並んで歩き出した。教導寮への道。いつもの道。石段の上から教導寮の屋根が木々の間に見えている。
背後に、朝の土御門家の屋根が遠ざかっていく。あの屋根の下、庭の陽だまりで篝が薬草の世話をしている。朔がいない朝の庭で、篝の一日がもう始まっている。




