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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:2幕

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39話 : 二番目の景色

 五行修練庭の朝は冷えていた。


 冬の終わりの空気が地面から立ち上り、足元の土が白く凍てついている。修練庭の五つの区画に、二年次が散らばっていた。法力運用試験。今年から実技に法力運用が加わり、座学六割、実技四割——去年の座学七割とは配分が違う。


 朔は礎場の中央に立っていた。


 足の裏に意識を沈める。法力を地に送る。一年次に初めてこの場に立った日と同じ動作。だが一年間の蓄積は、同じ動作の中身を変えていた。


 足元の土が、淡く唸った。


 法力の膜が朔の周囲に広がり、琥珀色の光が薄く地面を染めた。低い共鳴音が礎場の壁に反射する。結界の壁は立ち上がらなかった——今日は意図して抑えた。膜の精度と持続力を見せる試験だ。朔は法力を薄く、広く、むらなく地面に敷いた。指先の延長のように、膜が呼吸に合わせて微かに揺れる。


 日下部訓導が礎場の外壁に寄りかかり、適性評価書を片手に無言で見ていた。筆が一度だけ紙の上を走った。


---


 焔壇からは、音が聞こえていた。


 朔が礎場の試験を終えて外に出ると、焔壇の方角から低い破裂音が連続して響いた。風に乗って硫黄めいた匂いが漂ってくる。法力の放出に伴う空気の震えが、足の裏を通じてわずかに伝わった。


 焔壇の入り口に近づくと、凌が中央に立っているのが見えた。


 掌に法力を集中させている。去年の凌なら火花が弾けて散った。あの日、日下部に「お前のは灯じゃねぇ、爆ぜだ」と叱られたのだ。今日は違っていた。凌の掌の上で、赤い光がひとつに凝っている。軋むような音を立てながら、しかし散らない。散りそうになるたびに、凌の指が僅かに動いて光を押さえ込む。一年前の暴発が嘘のように——いや、一年間の鍛錬の成果が、掌の中で形になっていた。


 それでも凌の法力は桁が違った。


 精密さでは朔に及ばない。だが出力そのものが同期の誰よりも圧倒的に大きい。凌の掌の赤い光は、他の生徒が焔壇で灯した火の数倍は濃く、焔壇の壁に落ちる影が二重に揺れていた。


 日下部が焔壇の壁の外で腕を組んでいた。凌の出力を見て——小さく頷いた。


 朔はその頷きを見た。日下部が凌に対して頷くのを見たのは、初めてだった。


---


 焔壇を後にし、朔は他の区画へも足を向けた。


 鉄砧場では善次郎が試験を受けていた。


 掌を金属片に押しつけ、法力を流す。善次郎の法力は凌のように爆ぜない。派手さもない。ただ、金属片に送り込まれた法力が一切漏れなかった。善次郎の大きな掌が金属片を包み込むように覆い、その体幹から法力が静かに、途切れなく、安定して流れ込んでいく。善次郎の法力運用にも、あの体幹と同じ芯があった。崩れない。揺るがない。


 水鏡池では蓮がいた。


 蓮の法力は水面に触れた瞬間、波紋のように同心円を描いて広がった。穴がない。まんべんなく、均質に。蓮の手が水面から離れても、法力の波紋はしばらく消えなかった。蓮は去年と変わらず安定していた。だが蓮も感じているはずだった——今年は去年と違う。座学だけでは勝てない年になった。


---


 座学試験は大広間で行われた。


 秦訓導の声が廊下の向こうから聞こえてくる。口述試験。一人ずつ部屋に呼ばれ、秦訓導の前に座って問いに答える。


 朔の順番が来た。


 秦訓導が巻物から目を上げ、柔らかいがまっすぐな視線を向けた。


 「土御門。五行相生の水生木において、法力運用に際して水行陰と木行陽が同時に作用する例を挙げよ」


 朔は一拍の間を置いた。


 「流脈術で整えた水路が、樹相術の根の伸長を加速させる事例が鍛錬場の地下構造で観測されていると聞きます。根が水脈に触れることで法力の流路が変わり、結果として地表の結界精度にも影響を及ぼす——」


 「よろしい」


 秦訓導が短く頷いた。


---


 凌の番が終わって、廊下に出てきた。


 朔は廊下の壁に寄りかかって待っていた。凌が引き戸を閉め、こちらに気づいて口をへの字にした。


 「……見んな」


 「何も言ってない」


 「言おうとしただろ」


 朔は何も言わなかった。凌の額に薄く汗が滲んでいた。あの凌が、口述試験で汗をかいている。去年なら途中で詰まって舌打ちしていた。今年はつっかえながらも——最後まで答えたのだ。


 里史の巻物を夜な夜な広げていた一年間。慧の書き足した注釈を鼻で笑いながら、結局は全て読んでいた一年間。凌が座学を猛勉強していたことを、朔は知っていた。蝋燭の下で握った拳の皮が固くなっていたのも、巻物を繰る指先が少し荒れていたのも。


 凌が廊下を歩き出した。朔も並んで歩いた。


 「悪くなかったよ」


 「うるせぇ、わかってる」


 凌は笑みを浮かべながら答えた。

---


 翌日。


 大広間に二年次が集められた。序列発表の日。


 秦訓導が巻物を手に壇上に立ち、横には厳島寮長が腕を組んで控えている。大広間の障子が開け放たれ、冬の冷えた光が室内を白く照らしていた。生徒たちは板の間に座り、誰も口を開かなかった。去年と同じ光景。同じ緊張。同じ沈黙。


 秦訓導が巻物を開いた。


 「序列を発表する。呼ばれた者から前に出なさい」


 最下位から順に名前が読み上げられていく。一人、また一人と立ち上がり、前に進むたびに残された者の数が減っていく。去年もこうだった。名前が呼ばれるたびに胸の奥が小さく跳ねる——呼ばれればそこで止まり、呼ばれなければまだ上がある。


 名前が減っていく。


 十五人。十人。


 「志場」


 善次郎の名前が呼ばれた。上位。善次郎は微動だにせずに立ち上がり、前に進んだ。去年と同じだった。表情も、歩き方も。何も変わっていない。善次郎にとって序列は、移動する理由にはなっても感情を動かす理由にはならないようだった。


 残りが絞られていく。五人。四人。


 「葛葉」


 朔の横で、蓮の体が一瞬だけ止まった。


 去年は蓮が最後に残った。今年は——蓮の名前が呼ばれた。蓮は目を閉じた。一瞬だけ。まぶたの奥で何かが走ったように見えた。だがすぐに目を開け、いつもの笑顔で立ち上がった。足取りに迷いはなく、前に進む背中はまっすぐだった。


 「土御門」


 朔の名前が呼ばれた。二位。


 朔は静かに立ち上がった。残りは一人。


 凌だけが座っていた。


 厳島寮長が前に出た。手元の苗札を確認し、大広間を見渡した。


 「本年の初穂。——久我崎」


 筆が苗札の上を走った。墨が凌の名を刻む。静かな大広間に、筆の走る音だけが響いた。


 凌は立ち上がった。


 朔は凌の拳を見た。握っていた。去年と同じ——だが同じではなかった。去年の凌の拳は白かった。血の気が引くほど強く握りしめていた。あの拳は悔しさだった。


 今日の拳には力みがなかった。凌の表情も変わらない。赤銅色の目がまっすぐ前を向いている。だが——耳だけが、赤かった。


 蓮が拍手した。


 笑顔だった。本心からの拍手だった。凌が勝ったことを、蓮は嬉しいと思っている——朔にはそれが分かった。凌の一年間を見てきたのは蓮も同じだった。巻物に噛りつく凌の姿を、鍛錬で暴走して日下部に叱られながらも翌日にはまた焔壇に立つ凌を、蓮は見ていた。


 大広間に拍手が広がった。朔も拍手した。善次郎は拍手しなかったが、小さく頷いた。


---


 大広間を出たところだった。


 朔は蓮に声をかけた。


 「蓮、手」


 「え?」


 蓮が振り向いた。朔は蓮の手のひらを見ていた。赤くなっていた。叩きすぎたのだ。あの拍手で、蓮の手のひらが赤くなっていた。朔はそれだけを見た。


 「手のひら、赤い。……叩きすぎたんじゃないかな」


 蓮の表情が一瞬だけ変わった。


 笑顔が消えた——消えたのは一瞬だった。ほんの刹那、蓮の翡翠色の目に走ったもの。朔は見た。蓮は知っていた、朔が何を見たか。


 すぐに蓮が笑った。いつもの笑顔。


 「あー、叩きすぎたかな! 凌すごかったし!」


 明るく、軽く、弾む声。蓮はそれ以上何も言わなかった。朔も何も言わなかった。ただ、蓮が悔しかったことを朔は知っていた。蓮はそれを感じ取って——少しだけ、肩の力が抜けたように見えた。


 朔は蓮の背中を見送ってから、思った。


 凌が一番で正しい。


 法力運用で圧倒的だった。しかも座学も上げてきた。あの一年間の蓄積が数字になった。凌が初穂で正しい——分析結果はすぐに出た。去年、蓮が初穂を獲ったとき「蓮が初穂で正しい」と思ったのと同じだった。


 ただ——今年の「正しい」は、去年とは少しだけ違っていた。


 去年、蓮が初穂を獲ったときの「正しい」は、座学比率が七割だからという明快な理屈だった。凌のときは——あの巻物を広げていた夜を、朔は覚えていた。蝋燭の下で拳を握りしめながら、巻物を読んでいた凌の横顔を。苦手な里史に噛りついて、一年かけて座学を底上げした泥臭い日々を。凌の「正しい」は、分析の底に何かが混じっていた。




 それでも朔は帰り道を歩き始めた。悔しさはなかった。分析が感情に先行する——朔の中では、いつもそうだ。「凌が正しい」と結論が出た時点で、悔しさは入る場所を失う。


---


 帰り支度を終えた朔が荷を肩にかけたとき、頭上で風を切る音がした。


 灰銀色の翼。小さな鷹が空を滑り、朔のもとへまっすぐに降りてきた。


 鳴弦だった。


 朔が反射的に差し出した腕に、鳴弦が止まった。小さな鉤爪が袖の布地をつかみ、灰銀色の羽根が一度だけ広がって畳まれた。腕の上に鳴弦の重さが乗る。温かかった。羽根を通じて鳴弦の体温が伝わってくる。胸元の淡い金の斑紋が冬の光を弾いて、一瞬だけ光った。


 鳴弦はそのまま穏やかに目を閉じた。腕の上で。


 枝ではなく、肩でもなく——腕。朔の手元に最も近い場所。


 「キィ」


 鳴弦が細く鳴いた。眠るような声だった。


 背後から足音が聞こえた。小走りの足音。


 「あっ、鳴弦——」


 郁が走ってきた。息が少し上がっている。くすんだ茶色の髪が風で乱れ、琥珀色の目が朔の腕の上の鳴弦を見ていた。


 「ごめんなさい、また……勝手に飛んで行っちゃって……」


 「大丈夫。鳴弦は自分で決めてるみたいだから」


 鳴弦がキィと鳴いた。目を開けて朔を見上げてから、また閉じた。


 郁がじっと見つめていた。鳴弦が朔の腕に止まっている光景を。


 「……すごいな」


 郁の声は小さかった。けれど途切れなかった。


 「僕以外で初めて……腕に止まったの」


 郁の目が一瞬だけ揺れた。けれどすぐに、口元がほころんだ。


 朔は軽く腕を持ち上げた。鳴弦が目を開けて羽根を広げ、ふわりと飛び立った。灰銀色の翼が旋回して、郁の肩に戻る。鳴弦が郁の耳元でキィと鳴き、郁がそっと頭を撫でた。


---


 帰り道。


 朔は通学路の辻で凌に追いついた。


 凌の歩き方が、いつもと微かに違っていた。凌はいつも僅かに猫背だ。大柄な体を持て余すように背を丸め、両手をぶらぶらさせて歩く。だが今日は——ほんの少しだけ、背が伸びていた。気づくかどうかの差だ。朔は気づいた。


 並んで歩いた。何も言わなかった。凌も何も言わなかった。辻で合流して無言のまま並ぶ——入学以来の日課だ。


 しばらく歩いた。冬枯れの垣根が通学路に沿って続き、乾いた土の道に二人の足音だけが響いていた。


 凌がぽつりと言った。


 「……来年はわかんねぇぞ」


 一言だけ。


 初穂を獲った直後に、もう来年の話をしている。凌にとって今日の勝利は終点ではなかった。朔という存在が隣にいる限り、凌の視線は次の答え合わせに向いている。


 朔は小さく答えた。


 「うん」


 それだけだった。それ以上は必要なかった。


 凌が北西の小路で分かれた。背中が冬の高い光に溶けていく。いつもより少しだけ高い背中。


---


 少し先の道を蓮が歩いていた。


 朔から見える範囲——蓮は隣を歩く同期と笑いながら話していた。いつもの蓮。声は明るく、足取りは軽い。あの一瞬の表情の揺れなど、最初からなかったかのように。


 蓮がこちらに気づいて手を振った。


 「ばいばーい!」


 大きな声。明るい声。蓮の手が高く上がった。その手は——開いている。さっきの赤みを気にする素振りはなく、五本の指をいっぱいに広げて、冬の光の中で振っていた。


 握りしめてはいなかった。


 朔は小さく手を挙げてそれに応えた。蓮の切り替えの速さと強さを、朔はいつも眩しいと感じる。


---


 昼下がり。


 郁は通学路の端を歩いていた。鳴弦が左肩に止まっている。いつもの帰り道。冬の空は高く澄み、昼の明るい光が里を包んでいた。


 郁は鳴弦の頭をそっと撫でた。灰銀色の羽根が指先に柔らかい。鳴弦は目を細めて、郁の首元に頭を寄せた。


 「……鳴弦、朔くんのこと好きだよね」


 鳴弦がキィと鳴いた。否定でも肯定でもない、穏やかな声だった。


 郁は歩き続けた。足音が乾いた土の道に小さく響く。


 「……僕も」


 小さな声だった。


 だが——声になっていた。焔壇の隅で初めて自分から気づきを口にした日から、郁の言葉は少しずつ形になっていた。


 鳴弦への独り言。誰にも聞こえない声。でもちゃんと声に出せた。


 郁は微かに笑った。空を見上げた。澄んだ青空に、鳴弦の灰銀色の翼がよく映えた。


 二人はそのまま、冬の明るい通学路を歩いていった。


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