3話 : 陽だまりの約束
篝の寝息に耳を澄ませることから、朔の朝は始まる。
障子の隙間に目を寄せた。浅く詰まるような呼吸ではなかった。深く、穏やかに吸って、吐いている。
朔の胸の中で、小さな力が緩んだ。
障子を引く。音を立てないように——けれど篝は耳ざとかった。朔が一歩踏み込んだだけで、褥の中でもぞりと動いた。
「……さくにぃ、もう朝?」
わざと寝ぼけた声。目を閉じたまま、掛布の端をぎゅっと握っている。朔にはわかっていた。足音が廊下に響いた時点で、篝はもう起きていたのだ。いつもの朝の——二人だけの儀式。
「朝だよ、篝。水、置いておくね」
枕元の小卓に手桶を据える。篝はその音を聞いてから、ゆっくりと目を開けた。
漆黒の大きな瞳が、障子越しの朝日を映して金色に光った。澄んでいる。光の芯がしっかりしている。朔はそれを見て、ようやく息をついた。
——今日は、良い日だ。
体調が良い日の篝は、目の色が違う。瞳の奥に好奇心の火が灯って、表情がぱっと明るくなる。褥から上半身を起こす動作にも、昨夜の重たさはなかった。白い小袖の袖口から伸びた細い腕が、手桶の水を柄杓ですくう。ぷるぷると震えてはいたが、一人で口元まで運べた。
「つめたい」
篝が顔をしかめて笑った。朔もつられて笑う。
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朝餉の支度は瑞がすでに始めていた。台所口から粟粥が炊ける湯気の匂いが流れてくる。かすかに焦げた鍋底の香ばしさが混じって、それだけでもう温かい。
今日は篝が広間まで来られた。
瑞が粥椀に匙を添えて篝の前に置くと、篝は両手で椀を抱えるようにして、ふうふうと息を吹きかけた。湯気の向こうで、篝の前髪がかすかに揺れた。
「お母様、今日のおかゆ、すこし甘い」
「かぼちゃを少し入れたの。配給にひとつだけ入ってきたのよ」
瑞が微笑んで答えた。穏やかな声だったが、朔は気づいていた。ひとつだけ、と母が言ったこと。配給のかぼちゃをすべて篝の粥に入れたのだろう。瑞の膳にも朔の膳にも、粟粥の中にかぼちゃの欠片は見当たらなかった。
篝は匙を口に運び、目を細めて飲み込んだ。
「おいしい……」
その一言に、瑞の目元がほんの少しだけ和らいだ。
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朝餉が終わる頃、要が支度を整えて広間に顔を出した。鍛錬着に袖を通し、髪を高く結い上げている。
「行ってくる」
「いってらっしゃい、要兄さま」
篝が小さく手を振った。厚手の羽織を膝に掛けたまま畳に座っている姿は、鳥が巣の中から首を出しているようにも見える。要はぶっきらぼうに片手を挙げて応え、草履を引っかけて表門へ向かった。
朔は渡廊下から兄の背中を見送った。歩幅が広い。肩が少し前に出ている。鍛錬が始まる前から、もう体が臨戦態勢に入っているのが背中でわかる。教導寮の朝は早い。要は毎朝、日が昇るとすぐに屋敷を出る。
——兄上も、毎日あそこに行っているんだ。
朔は渡廊下の柱に手をかけて、表門の向こうに消えた要の影をしばらく見つめていた。父が帰還した背中の重さを思い出す。あの場所に通い続ける兄の背中にも、見えない重さが載り始めているのだろうか。
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日が昇り切ると、庭に陽だまりができた。
土御門家の庭は主殿の南側にあって、広くはないが手入れが行き届いている。瑞が植えた四季の草花が石の際に沿って並び、秋のこの時期はすすきの穂が銀色に光り、名も知らぬ小さな紫の花が石灯篭の足元にひとかたまり咲いていた。庭の中央には平たい飛び石が三つ四つ置かれ、その先に低い縁石で囲われた空き地がある。篝が体調の良い日に出てくるための場所だ。
「さくにぃ、外はどんなだった?」
篝は庭先の縁石に腰を下ろしていた。瑞が用意した座布団の上に、膝を抱えるようにして座っている。朝の陽光が白い小袖を透かして、細い肩の輪郭を淡く浮かび上がらせていた。
朔は篝の隣に座り、少し考えてから口を開いた。
「……昨日の朝、高台に行ったらね。結界が朝日を受けてきれいだった。六角の模様がひとつひとつ光って——蜂の巣みたいに見えたよ」
篝は目を丸くした。
「はちの巣? 結界が?」
「うん。金色の網目が、ずっと遠くまで続いてて。光の角度で色が変わるんだ。朝は琥珀みたいな色で、夕方は——もっと赤くて、溶けた鉄みたいだった」
篝は身を乗り出した。目の中の光がぱちぱちと弾けるように揺れている。
「それ、毎日色が違うの?」
「天気で変わるみたい。曇りの日は青白いかな。それから——」
朔は言葉を選んだ。結界の外に蠢いていた灰色の影のことは、言わなかった。首のない獣たちが走り回っていたことも。門が骸狗に突っ込まれたことも。父が右膝に力を入れ直していたことも。
代わりに——
「夕方にね、里全体が見渡せるんだ。屋根から煙が何本も上がってて、全部合わさると雲みたいになるの。それがちょうど結界に触れるあたりで、ふわっと散けるんだよ」
「……きれい」
篝が呟いた。頬がかすかに上気していた。体調の良い日の篝は、話を聞いているだけで頬に血が通う。
「篝も、見たいな」
小さな声だった。指先で膝の衣の裾をいじりながら、庭の向こう——屋根の上に覗く結界の光を、目を細めて見ている。
朔はその横顔を見て、何か言おうとして——やめた。いつか見せてあげる、とは言えなかった。「外の世界」そのものが、篝の体には毒になる。敷地の庭先が、篝に許された世界のほとんどすべてだった。
だから朔は、ほんの少しだけ身を寄せて、篝と同じ方角を見た。
「——次は、もっと上手に説明するよ。色も、匂いも、全部」
篝はふっと笑った。
「さくにぃ、説明は上手だけど——匂いは難しいよ?」
「練習する」
「ふふ」
庭の陽だまりの中で、二人の影が重なっていた。すすきの穂が風に揺れて、銀色の光の粒を散らしている。秋の日差しは柔らかく、穏やかで、温かかった。
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朔はふと、篝の隣に座ったまま、そっと右手をかざした。篝を包むように掌を広げる。昨夜、篝の枕元で思ったこと——父がやっているように、この手で篝のための結界を張れないだろうか、と。
指先に意識を集める。体の奥の法力を掌に流そうとする。何も応えなかった。もう一度——今度は篝のいる方向だけを意識して。
指の腹に、冷たい抵抗感が触れた。一瞬だった。水泡のように消え、何も残らなかった。
「さくにぃ、いまなにかした?」
篝が目をまんまるに開いていた。
「何もしてないよ。何か感じた?」
「んー……なんか、あったかいのがふわってしたような」
篝は首をかしげて、にこっと笑った。
「気のせいかな。さくにぃがそばにいるから、あったかいのかも」
その言葉だけが、胸の片隅に残った。
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日が傾き始める頃、篝の顔色がゆるやかに変わった。
目の奥の光が、少しずつ翳っていく。話しているときの声のはずみが、ゆっくりと沈んでいく。朔には見えた。篝自身はまだ笑っていたけれど——体のほうが先に限界を告げている。
「篝、中に入ろう」
「……もうちょっとだけ」
「だめ」
「……うん」
篝が素直に頷いたのは、朔のその声をよく知っているからだろう。やわらかいけれど、絶対に譲らない声。——それが、朔が篝のためだけに見せる頑固さだった。
部屋に戻って褥に横になると、篝の呼吸があっという間に浅くなった。庭先にいるあいだ気を張っていたのだろう。指先が冷えている。朔は掛布を肩まで引き上げてやりながら、篝の手に触れた。
氷のようだった。ほんの半刻前まで、陽だまりの中で温まっていたはずの手が。
「——寒い?」
「ん……へいき」
嘘だ。篝の「大丈夫」も「平気」も、朔が見せた「結界が綺麗だった」という上辺の言葉と同じだ。お互いの嘘を知っていて、それでも——
「お母様を呼ぶよ。薬湯、飲んだほうがいい」
「……うん」
篝はもう目を閉じかけていた。長いまつ毛の影が頬に落ちて、唇の色が朝よりも淡い。掛布の下の小さな胸が浅く上下している。
瑞が来るまでの間、朔は篝の褥のそばに座っていた。
障子の向こうで日が傾いでいく。庭先の陽だまりが縮んでいく。さっきまで二人で座っていた場所に、もう光は届いていなかった。
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瑞は静かに入ってきた。
篝の額に手を当て、脈を取り、掛布の中の手足の冷えを確かめる。一連の所作に迷いはなく、毎日繰り返してきた手順が体に染みついている動きだった。
「お熱は、ほんの少しだけ。大丈夫よ、篝。庭で楽しく過ごせたのね」
瑞はそう言いながら、懐から小さな薬包を出して白湯に溶かした。篝が半分眠りながらそれを飲む。瑞の指が篝の頬をひと撫ですると、篝はかすかに安らいだ息をついて、眠りに落ちた。
瑞が振り向いた。朔を見ている。
穏やかな目だった。けれど——朔は気づいていた。母がさっき、庭先で朔が手をかざしていたのを見ていたことに。何もなかったように振る舞っていたが、渡廊下の陰から、母の視線が確かにあった。
瑞は何も言わなかった。ただ微笑んで、篝の褥を整え直し、部屋を出ていった。
——何も、聞かないんだな。
朔は母の背中を見送りながら思った。止められると思っていた。まだ早い、と。あるいは「教導寮に入ってからにしなさい」と。けれど母はただ笑って、何も言わなかった。
それが許可なのか黙認なのか——四歳の朔にはまだわからなかったが、母が何も言わなかったことが、不思議と心強かった。
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篝が眠ってからも、朔はしばらく褥のそばにいた。障子越しの夕光が弱まり、父の結界の匂いが部屋を満たしている。
右手を、そっとかざしてみた。——まだ、何も応えない。
「明日も、やるからね」
篝には聞こえていない。それでも朔は声に出した。昼間の「次はもっと上手に説明するよ」と同じ声で。
部屋の中を、土の匂いがやさしく包んでいた。




