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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:2幕

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37話 : 焦げ跡の声

 焔壇の訓練が終わっても、朔はまだそこにいた。


 五行修練庭の焔壇。午前の訓練を終えた生徒たちはとうに去り、昼餉に向かう足音も石畳の向こうに消えていた。壇の上には誰もおらず、防火結界の札だけが四隅で淡い光を放っている。秋の風が焔壇の縁を撫でると、訓練で立ちのぼった熱の残りが揺れて、空気がわずかに歪んだ。


 朔は焔壇の壁に手を触れていた。


 指先が煤を辿る。焦げ跡が壁一面に重なっていた。何十人もの生徒が打ち込んだ火行の法力が、長い年月をかけて壁の表面を炙り、黒い紋様のように染みついている。古いものは薄く灰色に褪せ、新しいものは今日の訓練で加わった深い黒。その上を朔の指先がゆっくりと動いた。


 焦げ跡には向きがあった。多くは壁の表面から外に向かって放射状に広がる——法力が的に向かって放たれ、壁に跳ね返った痕跡だ。衝突の角度から、術者がどの位置に立っていたか、どの程度の精度で法力を絞っていたかが推察できる。焦げ跡の深さからは法力量が、広がりの幅からは術式の制御精度が読み取れた。


 朔の指は感覚を辿っている。術で使われた法力は、焦げ跡の表面だけでなく、壁の内側にもわずかに残留する。その残り方にも個人差がある。凌の焦げ跡は深く鋭く、壁の石に亀裂を走らせていた。自分の焦げ跡は浅いが、一点に集中している。他の同期のものは広く散り、壁の表面を薄く舐めている。


 ——焦げ跡の形を覚えておかないと。


 そう思いながら朔は壁に触れ続けた。玄外に見せるためだ。法力が残留する形を言葉で伝えるには、まず自分の指先に記憶する必要がある。内工座の鉄砧場で、「壁の焦げ跡がこうなっていた」と朔が話すと、玄外は黙って聞いてから、たいてい「で?」と返す。その一言が、朔に次の分析を促す。焦げ跡を観察するのは、いつの間にか朔の習慣になっていた。


 右の壁際で、小さな羽音がした。


 朔は顔を上げなかった。音の主を知っていたからだ。灰銀色の翼。琥珀色の瞳。壁の上に止まった小さな鷹が、焔壇の内側を見下ろしていた。


 鳴弦だった。


 壁の一番上の縁——焔壇の壁と空の境目——に降り立って、嘴を風に向けている。胸元の淡い金色の斑紋が秋の陽に映え、細い足が壁の端を掴んでいた。焔壇の当番でもない日に鳴弦が壁に止まっているのは珍しいことではない。ここは高い場所で風が通り、中庭の大楠とは違った見晴らしがある。


 鳴弦がいるということは。


 朔が焔壇の入口に目を遣ると、思った通りだった。


 郁が焔壇の隅に座っていた。


 壁の内側、直射の陽が当たらない影になった場所に、膝を抱えるようにして腰を下ろしている。朔よりも先にここにいたのか、後から来たのか——分からなかった。声をかけられていないから、おそらく朔が壁に触れることに没頭している間に、鳴弦を追って来たのだろう。


 郁は朔が振り向いたことに気づいて、少し肩を縮めた。


 「……ごめん。邪魔、してないかな」


 声は小さかった。いつもの郁の声だった。語尾が尻すぼみになり、最後の音はほとんど吐息に溶ける。


 「邪魔なんかじゃないよ」


 朔は穏やかに答えて、また壁に向き直った。


 それ以上は何も言わなかった。郁が自分から「邪魔じゃないか」と聞いたこと——それだけで、大楠の下で初めて合流した日からの距離が縮まっていることは分かった。あの日は蓮に手招きされてようやく大楠の根元に座った郁が、今日は自分から焔壇に残っている。あの「来てもいいかな」が、今日は「邪魔してないかな」に変わっている。問いかけの形はまだ同じだが、声の向き先が違った。


 二人の間に会話はなかった。


 朔は壁の焦げ跡に触れ、郁は焔壇の隅に座り、鳴弦は壁の縁に止まっている。風が防火結界の札を揺らし、焔壇の床に残った熱が秋の空気にじわりと溶けていった。


 居心地は悪くなかった。


---


 鳴弦が動いた。


 壁の縁から翼を広げ、ふわりと舞い上がったかと思うと、焔壇の壁に沿ってゆっくりと旋回し始めた。高い位置から壁の表面を見下ろすように、弧を描いて飛んでいる。一巡、二巡——そして特定の焦げ跡の上で旋回を止め、その場で羽ばたきながら空中にとどまった。


 朔は指を止めた。


 鳴弦の視線が壁の一点に向いている。朔が先ほどまで触れていた焦げ跡の群れから少し離れた場所——壁の左側の中ほどだった。


 「鳴弦が何か見えてるのかな」


 朔は独り言のように呟いた。鳴弦の琥珀色の瞳は、壁の石の表面をじっと見つめている。通常の遠目の索敵ではない。至近距離で何かを追う目だった。


 郁が壁を見ていた。


 膝を抱えた姿勢のまま、鳴弦が旋回しているあたりの壁に視線を向けている。目が細くなった。琥珀色の瞳——鳴弦と同じ色の瞳が、壁の焦げ跡を辿っている。


 朔は郁が壁を見ていることに気づいた。郁の目が動く先を追った。鳴弦が旋回していた場所。焔壇の壁の左側の中ほど。


 他の焦げ跡と——何かが違う。


 朔はまだそこに触れていなかった。先ほどまで右側の壁を中心に観察していたため、左側には手が回っていなかった。


 郁の唇が動いた。


 ——今度は、途切れなかった。


 「……ここの焦げ跡、他と向きが違う」


 小さかった。けれど——声になっていた。


 「たぶん、壁の裏に法力の残留が……溜まってるんじゃ、ないかな」


 自分の気づきを、自分の言葉で、声に出していた。


 朔は一瞬、動けなかった。


 壁に触れた指先がそのまま止まり、体がわずかに硬くなった。


 ——今、郁が、自分から。


 朔は壁から手を離して、郁の方を向いた。


 郁が見ているのは壁の左側の中ほど。朔も目を遣った。確かに——違う。他の焦げ跡は壁の表面から外に向かって放射状に広がっているが、その一群はどこか収束するような黒い筋を描いている。放射ではなく、壁の内側に向かって法力が引き込まれたような形。焦げ方も浅い。表面が炙られたのではなく、壁の中を法力が通った痕のように見える。


 郁が言ったことは正しかった。法力の残留が壁の裏側に溜まっている可能性がある。


 そして、そのことを声に出したのは——朔ではなく、郁だった。


 朔は郁を見た。郁は壁を見たまま、首を縮めていた。声を出してしまったことに自分で驚いたように、肩が丸くなっている。


 朔は微笑んだ。


 穏やかに、静かに。大楠の下で鳴弦に「また来たね」と声をかけるときと同じ、自然な温度の笑みだった。


 「——声に出せるようになったね、御影くん」


 声は優しかった。大げさではなかった。褒めているのでも、驚いているのでもなかった。ただ、今起きたことを——郁が自分で気づいたことを自分の声にしたということを、穏やかに受け止めていた。


 郁の目が丸くなった。


 朔の顔を見上げている。壁を見ていた視線が朔に移り、琥珀色の瞳が揺れた。逡巡ではなかった。驚きと、それから——もっと柔らかな何かが、郁の目の中で混じり合っていた。


 郁は一瞬だけ固まった。


 ——次は、二人で出そう。


 あの声が聞こえた気がした。蹴りの型訓練で声が出なかったあの日。座学で朔が代わりに手を挙げてくれたあの日。


 今日は——違った。誰にも促されていない。自分が見つけたことを、自分で声にした。


 郁の頬が染まった。


 「……朔くんが、何度も……言ってくれたから」


 声は小さかった。けれどはっきりと、朔に向いていた。


 そして郁は——笑った。


 照れたように。目を伏せて、けれど口元が隠しきれずに上がって、頬がほんのりと赤く染まって、睫毛の下から朔をちらりと見る。


 初めての、照れ笑いだった。


 蓮の冗談に唇の端が上がった、あの声にならない笑いとは違う。大楠の下で鳴弦に「ありがとう」と微笑んだのとも違う。自分が認められたことへの嬉しさと、それを素直に受け止めた恥ずかしさが、郁の顔に同時にあった。


 朔はその笑顔を見ていた。


---


 鳴弦が壁の上から降りてきた。


 旋回をやめ、翼を畳みながらゆるやかに高度を下げ——朔の肩に止まった。


 小さな爪が朔の衣の肩口を掴む。灰銀色の羽が朔の耳のそばでさらりと揺れ、体の重さが肩にかかった。鳴弦はそのまま羽を畳み、朔の肩の上で身を落ち着けた。


 「おっ」


 朔は小さく声を上げた。


 これまで鳴弦は朔のそばに来ることはあった。大楠の低い枝に降りてくる。食卓のそばに飛んでくる。だが——肩に止まったのは初めてだった。枝と肩では距離が違う。枝は鳴弦の領分だ。だが肩に止まるのは——信じるということだ。


 鳴弦の体温が肩口に伝わってきた。小さく軽い。だが確かに温かい。羽毛の柔らかさと、小さな爪が衣を掴む感覚。琥珀色の瞳が至近距離で朔を見上げている。きれいな目だった。出会ったあの日——「鳴弦というんだね。きれいな名前だね」と声をかけたときの、あの穏やかな目。


 郁が声を上げた。


 「あ、鳴弦……ごめん、戻っておいで」


 郁は立ち上がりかけて、朔の肩に止まっている鳴弦に手を差し伸べた。鳴弦は朔の肩の上で郁を見た。琥珀色の瞳が郁を捉え——動かなかった。


 朔の肩の上で羽を畳み直し、胸の羽に嘴を差し込んで整え始めた。動く気配がなかった。


 朔は小さく笑った。


 「鳴弦は御影くんのことが大好きだから。……少し休んでいるだけだと思うよ」


 鳴弦がキィと鳴いた。細く、短い声。大楠の枝で聞いたあの声と同じだった。


 郁は差し伸べた手をそっと下ろした。


 朔には、郁が少し寂しそうに見えた。自分の肩から朔の肩に移った鳴弦は、自分を選ばなかったのではない——けれど、朔のそばでこんなにも安らいでいる相棒を見ると、小さな棘のようなものが胸を刺す。


 でも、それよりも——嬉しかった。


 鳴弦が安心できる場所が増えたのだ。自分の肩だけだった世界に、もう一つの場所ができた。それは鳴弦にとって——いいことだ。


 郁の口元がわずかに緩んだ。寂しさと嬉しさが混じった、少し複雑な、けれど柔らかい表情だった。


 「そろそろ帰ろう」


 朔が立ち上がった。膝の土を払い、焔壇の壁に最後にもう一度目を遣った。郁が教えてくれた焦げ跡の場所を、指先の記憶に留める。玄外に伝えよう。壁の裏側の法力残留——もしかすると、焔壇の設計に関わる何かかもしれない。


 朔が一歩を踏み出した瞬間、鳴弦が肩を蹴った。


 翼を広げてふわりと舞い上がり、弧を描いて焔壇の空を渡って——郁の左肩に降りた。いつもの場所。小さな爪が衣の肩口を掴み、翼を畳んで体を落ち着ける。


 朔は振り返って、郁と鳴弦を見た。


 「ほら、帰りは御影くんと一緒に」


 郁は鳴弦の胸の羽に指先を触れて、小さく頷いた。


---


 焔壇の入口から石段を降りると、真昼の光が眩しかった。


 五行修練庭の外壁に沿った道が教導寮の正門まで続いている。秋の陽が石畳を温め、壁の苔が乾いた匂いを放っていた。訓練帰りの足音はとうに消え、ここから教導寮までの道には人影がない。


 壁にもたれている影が一つ、あった。


 凌が腕を組んで外壁に背を預けていた。


 「おっそ。何やってたんだよ」


 赤銅色の目が朔と郁を見た。声は呆れたような響きだったが、怒っている色はなかった。凌の足元には小さな石の欠片が転がっていた——待っている間に壁から剥がして弄んでいたのだろう。


 朔は凌に向かって歩きながら答えた。


 「焔壇の壁を見てた。御影くんが面白いことに気づいてくれたんだ」


 後ろを歩いていた郁が足を止めた。


 「えっ、そんな……大したことじゃ……」


 首を振りかけて、声が途切れた。大したことではない、と言いたかったのだ。けれど朔がすでに「面白いこと」と言ってしまった。否定できない。否定したくもない。ただ、人に伝えられたことが恥ずかしくて、郁の肩がまた丸くなった。


 凌が郁を見た。


 凌の目に映った郁は、琥珀色の目を少し丸くして、くすんだ茶色の短髪が秋風に乱れている。肩に鳴弦を乗せた小柄な少年は、凌の二回りほど小さく見えた。


 凌は一瞬だけ「ふん」と鼻を鳴らした。嫌味ではなかった。「へぇ」という認識が、凌の場合は鼻で出るだけだ。


 朔と凌が並んで歩き出した。いつもの歩幅だ。凌の大きな体が朔の隣を塞ぎ、二人の影が石畳の上を並んで伸びている。


 郁は少し後ろからついていった。


 三歩ほど離れた位置。大楠の下で蓮に手招きされたあの日——渡廊下から中庭までのあの距離——よりは、少しだけ近かった。鳴弦が郁の肩の上で羽を揺らし、前を歩く朔と凌の背中を眺めている。


 分かれ道にさしかかった。


 教導寮の正門を出た先の、里の小路が二つに分かれる場所。朔と凌は道を左に、郁は右に折れる。


 郁が足を止めた。


 「……じゃあ」


 小さく手を振った。指先だけが揺れるような、控えめな手の振り方だった。


 朔が振り向いた。


 「また明日」


 いつもの声だった。善次郎に向けたあの「また明日」と同じ自然さで、朔は言った。


 凌は振り向かなかった。ただ、片手を無言で軽く上げた。指が伸びて、空を掴むような仕草をして、すぐに下ろした。凌なりの別れの合図だった。


 郁は小さく頷いて、右の道に歩き出した。鳴弦が肩の上で振り向き、朔と凌の背中を見ている。


 秋の風が分かれ道の垣根を揺らした。色づいた葉がちらちらと舞い、郁の足元に落ちた。鳴弦がキィと鳴いた。細く、穏やかな声。


 郁の足取りは、焔壇に来たときよりも軽かった。


 まっすぐ前を向いて歩いていた。


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