35話 : 燭明の星
焔壇の空気は、焦げていた。
石壁に囲まれた長方形の区画。壁の表面には防火結界の札が幾重にも貼られ、そのどれもが端から黄ばみ、縁が縮れている。火行の訓練区画であるこの場所は、五行修練庭の中で最も事故が多い。壁の下部には古い焦げ跡が帯状に走り、石の目地が溶けて歪んだ箇所がいくつもあった。焦げた匂いが石壁に染みつき、外の秋風が吹き込んでも消えない。
日下部訓導が腕を組んで石壁の前に立っていた。日に焼けた肌、がっしりした体格。左膝にはいつもの布が巻かれている。その目が訓練場の中央を一巡し、生徒たちの配置を確かめた。
「今日は点焦をやる。的に向かって熱の焦点を一点に絞れ。——始め」
石壁の前に丸い的が据えられていた。藁束を固めた円形の的で、表面に墨で幾重もの輪が描かれている。生徒たちが一人ずつ前に出て、掌を的に向ける。
最初の何人かは、掌から法力を解き放つことそのものに苦心していた。空気が微かに揺らめくだけで的には届かない者。的の端を焦がしたが、同心円の外側に弱い焦げ跡をつけただけの者。日下部はそのたびに足を止め、「力の向きが散ってる。出口を一つに絞れ」と声を飛ばした。
朔の番が来た。
列の前に出る。的までの距離は七歩ほど。朔は右手を前に上げ、指先を的の中心に向けた。
目を閉じなかった。呼吸を一つ、落とす。
——世界が澄んだ。
視界が研ぎ澄まされていく。的の墨の輪、藁の繊維の一本一本、重なった輪の中心にある小さな黒い点。すべてが鮮明に映り込む。それ以外のものが遠くなった。耳の底から音が消え、指先だけが焼けるように熱くなった。体の芯から温度が引いていく。その集中の中で、右手の人差し指だけが別の温度を持っていた。
指先に光が灯る。
小さな光だった。蝋燭の灯よりもなお小さい。ただし——鋭い。光は散らなかった。一つの点に凝縮され、指先に静かに留まっている。焔壇の暗がりの中で、それは星のように見えた。小さくて、鋭くて、消えない光。
朔は息を止めたまま、指先の光を的に向けた。
熱の針が飛んだ。
音はなかった。火花も、爆発もなかった。的の中心の黒い点に、小さな焦げ跡が穿たれた。直径は指の先ほど。藁の繊維が一点だけ炭化し、細い煙が立ち上った。
朔の周囲だけ、焦げた匂いが薄い。他の生徒の訓練では防火結界の札がびりびりと震え、壁に火の粉が飛んでいた。朔の指先から放たれた熱は、的の一点以外には何も焦がさなかった。
日下部が足を止めた。
腕を組んだまま、朔の的を見ている。焦げ跡は小さい。輪の中心、黒い点のすぐ脇。的に火を放った、というよりは——針で穴を穿ったように見えた。日下部は何も言わなかった。視線を朔から的に移し、的から朔に戻した。それから顎に手を当て、適性評価書を開いて何かを書き留めた。
壁際に立っていた善次郎は、朔の指先を見ていた。
小さな光が灯り、一瞬だけ鋭く輝いて——消えた。善次郎の目には、それが焔壇の暗がりの中にぽつりと浮かんだ一つの星のように映った。壁を赤く染めて爆ぜる他の者の火とは対照的に、朔の火は的の一点だけを焦がして、それ以外には何も残さなかった。
善次郎は腕を組んだまま壁に背を預けていた。表情は変わらない。だが、視線は朔の指先から離れなかった。
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凌の番が来た。
列の前に出ると、焔壇の空気が変わった。凌の体格は同輩の中では大きく、的の前に立つだけで壁際の生徒が半歩後ずさる。赤銅色の目が的を睨み、右の掌を前に突き出した。
法力が弾けた。
火勢を絞っている——つもりだった。凌は掌から放出する法力の量を意識して抑えていた。春の焔壇で日下部に「絞れ」と怒鳴られたことは覚えている。だが掌に込めた熱が的に向かって解き放たれた瞬間、狙いの倍の範囲に火花が飛散した。
的が赤く光った。同心円の線が焦げ飛び、藁束の表面が一瞬で炭化する。それだけではなかった。飛散した火の粉が的の横の石壁に当たり、防火結界の札がびりびりと震えた。壁際の生徒が腕で顔を覆った。
「火勢を絞れ!」
日下部の声が焔壇に轟いた。豪快で、怒鳴り声は大きいが陰湿さのない声。凌の体がびくりと止まる。
「加減してんだけど!」
凌が振り向いた。赤銅色の目に苛立ちが滲んでいる。日下部が一歩近づいた。左膝の布が揺れた。
「だからその加減がなってねぇんだ。お前の法力は散りすぎてる。的に当たったぶんと、壁に飛んだぶんと、天井に消えたぶんを全部足してみろ——お前が実際に出してる量は、自分で思ってる量の三倍だ」
凌は唇を噛んだ。分かっている。だが「絞る」という動作の感覚が掴めない。凌の法力は体の芯で弾けた瞬間に掌へ奔流のように押し寄せ、意志より先に解き放たれる。放つ法力を抑えようとしても、抑えた分が別の方向に散ってしまう。蓋をしても隙間から溢れ出す水のようだった。
「もう一回やらせてくれ」
凌が的を睨んだ。歯を食いしばり、今度こそ——
法力を込めた。掌の中に熱を溜める。溜めて、溜めて、一気に解き放つのではなく少しずつ——
駄目だった。
溜め込んだ法力が許容量を超えた瞬間、凌の意志を飛び越えて掌から爆発的に放出された。感情が法力に呼応した。「もっと上手くやれ」という焦りが「もっと強く」に変わり、その衝動が放つ法力の勢いをさらに押し上げた。
火の粉が的を超えて壁際まで飛んだ。防火結界の札が一枚、端から焦げた。
「座ってろ。頭を冷やせ」
日下部の声に怒りはなかった。淡々と、しかし有無を言わせない一言だった。凌は奥歯を噛みしめたまま、焔壇の入口近くの壁際に退いた。火を逃れた冷たい石壁に背を預け、膝を立てて座る。手が震えていた。もどかしさが、拳の芯で燻っていた。
焔壇の訓練が続いていた。次の生徒が的の前に立ち、火花を散らしている。日下部がまた「散らすな」と声を飛ばした。
凌は壁際から焔壇の中央を見ていた。
朔が訓練に戻っていた。
列の中で順番を待ち、再び的の前に立つ。右手を上げ、指先を的の中心に向けた。あの静寂が落ちた。朔の周囲だけ音が消え、世界が凝縮する。指先に光が灯り——的の中心に焦げ跡が穿たれた。前と同じ位置。前と同じ大きさ。壁際の札は震えもしない。朔は息を吐き、指先の残熱を振り払うように手を下ろした。それだけだった。
凌はそれを見ていた。
——なんであんなに静かに撃てんだよ。
凌にはわからなかった。同じ火行で、同じ焔壇で、同じ的に向かっている。なのに朔の火は散らない。凌の掌が二度も壁を焦がしたその同じ場所で、朔は札一枚も揺らさずに的の一点だけを射抜いた。
凌はそのもどかしさを言葉にできなかった。羨ましいのか、悔しいのか、それともまったく別の何かなのか。ただ、壁にもたれたまま、朔の指先を見つめていた。
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焔壇の訓練が終わった。
日下部が「今日の訓練は以上だ」と告げ、生徒たちが的の片付けと道具の整理を始めた。秋の陽はまだ高い。午前の授業が終わり、帰路につく時間だった。
朔は立ち上がった。
体は重かった。今日は礎場で結界の展開を三度繰り返し、そのあとの焔壇で燭明術を何度も行使した。法力の残量は底に近い。腕の内側がひりひりと痺れ、指先がまだ痺れている。足の裏から力が抜けていくような感覚があった。
だが顔には出さなかった。
文机から持ち物をまとめ、いつもの顔で立っている。周囲の同輩が片付けを終えて帰路についていく。朔は一つ呼吸を整えてから、歩き始めた。
「大丈夫です」
日下部が一瞬こちらを見たので、朔は笑った。いつもの穏やかな笑みだった。日下部は何も言わず、視線を適性評価書に戻した。
焔壇を出て、武術場の横を通る道を歩く。秋の強い日差しが石畳を照らし、武術場の柱の影が真下に濃く落ちていた。棒立てが武術場の端に並んでいる。薙刀、木刀、棍。午前の訓練で使われた道具が整然と掛けられていた。
善次郎は焔壇の出口から少し遅れて歩いていた。
棒立てに手を触れる——朝の登校時にも触れ、帰り道にもう一度触れてから家路に就く。それが善次郎の日課だった。手を離して歩き出した先に、朔の背中が見えた。
前を歩いている朔の背中を、善次郎は見ていた。
足取りが微かにふらついている。
善次郎は朔の「いつもの歩き方」を知っていた。広場で素振りをしている横を——何十回となく朔は通り過ぎた。入学前の広場で見た「迷わず歩く少年」の歩幅を、善次郎は覚えていた。
今日の朔の歩幅は、いつもより短かった。
半歩ほど。他の者なら気づかない程度の違い。だが善次郎の目は型を見る精度で動きを読む。歩幅が短くなること。体の軸がわずかに傾くこと。足の運びに一拍の間が入ること。隠しているのではなく——体が限界を正直に示しているのだ。本人だけが、それを認めない。
朔の体の芯がわずかに左に傾いていた。
善次郎は何も言わなかった。
ただ朔の歩調より半歩遅く歩いて、背後にいた。朔がよろけたら体で受ける準備をしている。右足を半歩広めに置き、いつでも前に出られる重心を保っている。腕を組んだままの姿勢は、いつもの善次郎と何も変わらない。ただ、視線だけが朔の背中に据えられていた。
朔は気づいていなかった。
後ろを振り返らなかった。いつもの歩幅——いつもより短い歩幅で、いつもの顔のまま、石畳の上を歩いていた。
武術場の横を過ぎた。棒立ての前を通り、通学路の一本道に出る。左手に垣根が続き、右手には教導寮の外壁が途切れて空が開けた。秋の空が高く、薄い雲が一筋だけ流れている。
朔はよろけなかった。
歩幅は短いまま、体の芯はわずかに傾いたまま、それでも一歩も崩さずに教導寮の門まで歩ききった。門の前で一度足を止め、呼吸を整えてから通学路に出る。その背中が通学路の先に小さくなっていく。
善次郎は門の手前で立ち止まった。
武術場の横の分かれ道を進む。棒立てに手を触れ——今日の「終わり」の儀式を済ませて、帰路に就いた。
歩きながら、善次郎は考えていた。
——鉄心と同じだ。
父が遠征から帰るたびに新しい傷を増やしていた。右肩の布が増え、左の手首に巻き布が加わり、額に薄い切り傷ができていた。だが父は愚痴も武勇伝も語らなかった。ただ黙って帰宅し、母と善次郎の頭を撫で、翌朝また黙って出かけていく。善次郎が「怪我は」と聞こうとすると、父は短く「大丈夫だ」とだけ答えた。
大丈夫だ。
その言葉の重さを、善次郎は知っていた。父の「大丈夫だ」は事実の報告ではなかった。「お前に心配をかけたくない」という嘘だった。傷は見えていた。歩幅が短くなっていた。それでも父は「大丈夫だ」と言った。
朔の「大丈夫です」を聞いたとき、善次郎の胸の奥で何かが軋んだ。
声の響きが重なった。鉄心の低い声と、朔の穏やかな声。言葉は違う。声も違う。だが——嘘のつき方が、同じだった。
善次郎は帰り道の石畳を踏みながら、静かに決めた。
こいつの「大丈夫」は、信じない。
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凌は一人で帰り道を歩いていた。
焔壇の壁際で頭を冷やした後、日下部に「今日はここまでだ」と言われて最後に焔壇を出た。他の生徒たちはとうに帰路についている。通学路には凌一人の足音だけが響いていた。
秋の風が吹いた。乾いた風だった。通学路の垣根の葉が揺れ、橙色に色づき始めた先端がざわざわと音を立てた。
凌は右手を見た。
掌を開く。さっきまで法力を込めていた掌。二度も暴発させた掌。火の粉を壁まで飛ばし、防火結界の札を焦がし、日下部に座らされた掌。指の腹にはまだ残熱があった。法力を放出した後のじんわりとした痺れが、指先から手首にかけて残っている。
掌を閉じた。拳を作る。
さっきの光を思い出していた。
朔の指先に灯った一点の光。焔壇の暗がりの中で、星のように鋭く輝いた小さな火。あれと同じことを——凌の掌でやれるか。右手を開いて、閉じた。掌に残った熱は、まだ散った火の粉の余韻だった。焦点がない。溜めてもすぐに溢れ、出口を絞ったつもりでも隙間から漏れる。
だが——あの光の形は覚えた。どこに向かえばいいのかは、見えた。
通学路の先に分かれ道が見えた。北西への小路と中央への道が交わる辻。朝はここで朔と合流する場所だった。今は凌一人だ。辻に人影はない。秋の昼下がりの強い光が、石畳を明るく照らしていた。
凌は掌を見つめ、ゆっくりと指を折った。
「……次は散らさねぇ」
それだけだった。声は小さく、通学路の風に紛れて消えた。
凌は拳の熱を握ったまま、北西の小路を歩いていった。秋の空が高く、乾いた風が垣根の葉を鳴らしていた。
葉擦れの音を背中で聞きながら、凌は歩いた。拳はまだ、熱かった。




