表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:2幕

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

35/40

34話 : 小さな声

 座学棟の障子が、秋の風に揺れていた。


 開け放たれた片側から光が入り込み、板張りの床に長方形の白い陽だまりを描いている。教室は教導寮の東棟にあった。座学用に整えられた広間で、低い文机が整然と並んでいる。筆と硯、そして五行図を写した木板。墨の匂いがかすかに漂い、それが秋の乾いた空気と混じって、日々の鍛錬とは別の世界の静けさを作っていた。


 秦訓導が教壇に立っていた。


 痩身で背が高く、水晶を磨いたという眼鏡の向こうに穏やかな目がある。声は柔らかいのに教室の隅まで通る、独特の響きを持つ人だった。朔は最前列から二列目の端に座っていた。正面には五行図が掛けられており、相生と相剋の矢印が墨で丁寧に引かれている。


 「——さて」


 秦訓導が五行図を杖で示した。金から水へ、水から木へ。矢印の流れを一巡してから、ゆっくりと視線を教室に向ける。


 「本日は相剋の応用です。水行と土行が相剋の関係にあることは、以前の講義で触れました。では——」


 秦訓導の声が少し低くなった。問いを投げる前の間合いだった。朔はそれを知っていた。秦訓導は発問のとき、必ず一拍置く。その一拍に、教室全体が息を詰める。


 「水行と土行の相剋関係において、穢れの振る舞いはどう変わるか。——考えを述べよ」


 教室が静まった。


 文机の上に広げた五行図の写しに目を落とす者。天井を仰ぐ者。窓の外に視線を泳がせる者。凌は窓際の席で、顎を手に乗せたまま外を見ていた。善次郎は腕を組んで動かない。いつものことだった。善次郎は座学のとき、答えを知っていても自分から手を挙げないのだ。


 朔は五行図の相剋の矢印を指で辿っていた。水は火を剋す。土は水を剋す。剋——すなわち抑制。抑える側と抑えられる側の力関係が生まれるとき、その間に穢れが介在すれば、穢れの振る舞いにも当然変化が生じるはずだった。


 穢れは本質的に侵食する力だ。それが相剋関係の「抑制」の場に置かれたとき——侵食の速度が変わる。具体的には、土行の「固める」性質が水行の「流れる」性質を抑え込むのと同じ理屈で、穢れの侵食も鈍化する。


 朔は答えが見えていた。だが、手を挙げなかった。


 秦訓導の問いに対して、教室が考えている時間そのものに意味があると知っていたからだ。秦訓導はいつもそうだ。沈黙を恐れない。生徒が考える時間を、静かに待つ。


 蓮が斜め後ろの席で、指先で五行図を辿っている。唇が小さく動いていた。「相剋だから……抑制?」——声にはなっていない。蓮は答えの輪郭をつかんでいるが、それを言語化する道筋を探しているのだろう。水行陽の適性を持つ蓮にとって、相剋の関係は体感として知っているものだった。だがそれを「穢れの振る舞い」という観点で説明するには、感覚を言葉に置き換える作業が要る。


 朔は静かに教室を見回した。


 ——そのとき、小さな声が聞こえた。


 声、と呼ぶにはあまりに小さかった。唇が動いて、息と一緒にこぼれ落ちたような音。朔の席からは二つ三つ離れていた。普通の耳には届かない距離だった。それでも音に聡い朔の耳は、その音を拾った。


 「……穢れの侵食速度が、鈍化する……」


 郁だった。


 小柄な体が文机の前で少し丸まっている。左肩にはいつものように鳴弦が止まっていた。灰銀色の羽が教室の光を受けてわずかに光り、琥珀色の目が細められている。郁は五行図の写しに目を落としたまま、唇を動かしていた。声はもう止まっていた。一度だけ、息に乗せて言葉を押し出して——すぐに口を閉じてしまった。


 朔は、その唇の動きを見ていた。


 以前のことを思い出した。蹴りの型訓練のとき——朔は前列の同期の膝の異変に気づいて声を上げた。でも号令に呑まれて届かなかった。郁も気づいていた。気づいていたのに、声に出せなかった。朔が「次は二人で出そう」と言った。でもあのとき、郁の口は結局開かなかった。


 今の郁は、違っていた。


 声は出ている。小さすぎて誰にも届かないが、声は——出ている。唇が動いただけだったあの日から、息に乗せて言葉を押し出すところまで来ている。半歩だけ、前に進んでいる。


 朔は郁を見つめたまま、一瞬だけ考えた。


 あのときのように「もう一回言って」と郁に言うこともできた。だが——それは郁を追い詰めることになる。教室の全員が郁を見る。郁はきっと固まってしまう。あのときと同じだ。朔が郁に直接求めても、郁の口は開かない。


 ならば。


 朔は手を挙げた。


---


 「秦訓導」


 朔の声が教室に響いた。静かだが、よく通る声だった。秦訓導が眼鏡の向こうの目を朔に向ける。


 「何かな、土御門」


 「今、御影が答えていたんですが——聞こえましたか」


 教室がざわついた。小さなざわめきが文机の間を走る。秦訓導が目を丸くした。郁の方を見る。郁の体が硬直した。琥珀色の目が大きく見開かれ、肩の鳴弦がぴくりと羽を動かした。


 「え……っ」


 郁の声が裏返った。小さな声だったが、それでも教室に聞こえた。周囲の視線が一斉に郁に集まる。郁の顔が白くなり、それから赤くなった。


 秦訓導が郁を見た。眼鏡の位置を正し、ゆっくりと口を開く。


 「御影。——聞こえなかったぞ。もう一度」


 秦訓導の声は穏やかだった。責めるような響きは何もない。ただ「聞こえなかった」という事実と、「もう一度」という要求。それだけだった。


 郁は文机の上の五行図を握りしめていた。指先が白くなっている。唇が震えていた。鳴弦が郁の耳元に嘴を寄せた——郁にしか聞こえない、小さな音で鳴いた。


 郁の唇が開いた。


 「……穢れの、侵食速度が……鈍化する……と、思います」


 声は震えていた。でも——さっきよりは、大きかった。教室の空気を震わせるほどではない。それでも、秦訓導の耳には届いていた。最前列から二列目にいる朔の耳にも、斜め後ろの蓮の耳にも。


 秦訓導が一拍置いた。


 教室が息を詰める。秦訓導は問いを投げるときだけでなく、答えを受け取るときにもこの間合いを使った。生徒の答えを吟味しているのだ、と朔は知っていた。


 「——正解だ」


 秦訓導の声が静かに落ちた。


 「土行の抑制効果が水行の流動性を制限し、結果として穢れの侵食速度が鈍化する。正確な理解だ、御影」


 教室がざわめいた。今度のざわめきは驚きだった。御影郁が答えた、という事実に対する驚き。朔はそのざわめきの中で、郁の顔を見ていた。


 郁の顔がわずかに明るくなっていた。


 驚きでもなく、安堵でもなく——もっと小さくて温かい何かが、琥珀色の目の中に灯っている。「正解だ」の一言が、郁の内側にゆっくりと沁み込んでいくのが見えるようだった。


 朔は何も言わなかった。ただ前を向いて、秦訓導の講義に視線を戻した。


---


 座学が終わった。


 秦訓導が文机の上の巻物を片付け、生徒たちがそれぞれに立ち上がりはじめている。次は武術場での基礎体術だった。教室と武術場の間の移動の時間。教室の空気が緩み、あちこちで話し声が上がった。


 朔が文机の前で筆を片付けていると、斜め後ろから足音が近づいてきた。


 「朔くん」


 蓮だった。艶のある黒髪が肩の後ろで揺れている。袖口からかすかに薬草の匂いが漂った。いつもの匂いだ。蓮の家——葛葉家の匂い。浄身院の空気と同じ匂い。


 「さっきの御影くんの答え、あたしも同じこと考えてた」


 蓮が朔の隣を歩きながら言った。教室を出て、渡廊下に向かう。秋の陽ざしが廊下の板を温めていた。


 「でも言い方が思いつかなくて。『侵食速度が鈍化する』って——あたしの頭の中では感覚でしか分かってなかったの。言葉にならなかった」


 朔はわずかに首を傾げた。


 「蓮は水行陽の適性が高いから、相剋を感覚で分かってるんじゃないかな。言葉にする前に体が知ってる」


 蓮が足を止めた。翡翠色の目が朔を見る。


 「……なにそれ。褒めてるの?」


 「事実を言ってるだけ」


 蓮が吹き出した。口元を手で押さえて、くすくすと笑っている。渡廊下の陽だまりの中で、蓮の笑い声が明るく響いた。従姉弟の気安さだった。知的な話をしていても、二人の間の空気は温かい。朔は蓮の笑い声を聞きながら、ほんの少しだけ口の端を上げた。


 「でもさ」


 蓮が笑いを収めて歩き始めた。声がわずかに低くなる。


 「水行と土行の相剋で穢れの侵食速度が変わるなら——水行の術者がそばにいるだけでも影響があるのかな。っていうか、逆に言えば、相生の場面ではどうなるんだろう。水行が木行を生じる関係で穢れが介在したら、増幅されるのか、それとも——」


 蓮の声が途切れた。


 渡廊下の向こうに、秋の木々が見えていた。葉が色づき始めている。緑の中に薄い黄が混じり、風が吹くと葉先が揺れた。


 蓮はその風景を見ていなかった。視線が少しだけ遠くなっていた。朔にはそれが分かった。


 穢れと五行の話をしていたはずが——蓮の頭の中では、別のことに繋がりかけている。穢れ感応体質。生まれつき穢れに敏感な体。それを持っている人のことを、蓮も朔も知っていた。


 蓮が口を開きかけた。「でも、穢れ感応体質は相剋の問題じゃなくて——」


 そこで蓮は言葉を止めた。


 朔も黙っていた。一瞬だけ目が遠くなり——すぐに戻った。二人とも、同じ人のことを考えていた。蓮の従妹で、朔の双子の妹。教導寮には通えない。自宅の部屋にいる。花の名前を覚えて、押し花帖のページを増やして——朔が外の世界を持ち帰る日を待っている。


 口にはしなかった。口にする必要がなかった。


 蓮が先に空気を変えた。ぱん、と自分の頬を軽く叩いて、いつもの明るい顔に戻る。


 「ま、いっか。明日の話にしよう。明日は五行理論の続きでしょ? あたし今日のところ復習しとかないと」


 「そうだね。……でも蓮が復習してないことは、あまりないと思うけど」


 「ひどい。信用されすぎて逃げ場がない」


 蓮が肩をすくめて笑った。渡廊下の先で昼餉の支度をする音が遠くから聞こえてきた。秋の風が廊下を抜け、二人の髪を揺らしていった。


---


 帰り道だった。


 秋の空が高く澄んでいた。薄い雲が一筋だけ流れ、真昼の光が通学路の石畳を柔らかく照らしている。垣根の葉にはところどころ橙が混じり始めていた。


 郁は一人で歩いていた。左肩に鳴弦を乗せて、いつもよりほんの少しだけ歩幅が広い。


 ——正解だ。


 秦訓導の声が、まだ胸の中に残っていた。穏やかな声だった。短い言葉だった。たった一言だった。でも——その一言が胸の奥を温めていた。じんわりと、ゆっくりと、冷えた炉に炭を入れたときのように。


 声が、出た。


 小さかった。震えていた。教室中の視線が集まって、頭の中が真っ白になって、鳴弦が耳元で鳴いてくれなかったら——二度目の声は出なかったかもしれない。


 でも、出た。


 あのとき。蹴りの型訓練のとき——声を出せなかった。口を動かすことすらできなかった。朔くんは声を出した。でも一人では届かなかった。ぼくも一緒に叫んでいたら、あの子は膝を痛めなかった。朔くんが「次は二人で出そう」と言ってくれた。あの言葉がずっと、胸の中に刺さっていた。


 今日は、朔くんは「二人で出そう」とは言わなかった。代わりに——秦訓導に、聞いた。「今の御影の答え、聞こえましたか」と。


 それはとても不思議なことだった。朔くんは自分に直接何かを求めたのではなく、自分が答えられる場所を——作ってくれた。秦訓導が「もう一度」と言ってくれたから、もう一度言わなければならなかった。怖かった。でも、誰かに求められたから声を出せたのかもしれない。自分一人の意志では、きっと出せなかった。


 ——次は、二人で出そう。あのときの朔くんの声と、今日の「聞こえましたか」が重なった。朔くんは──やり方を変えてくれた。


 鳴弦が郁の耳を嘴でつついた。「前を見ろ」のいつもの合図だった。郁は俯きがちだった顔を上げた。


 通学路の先に、秋の空が高く広がっていた。澄んだ青が道の向こうまで続いている。道の先の辻に、帰る子供たちの影が小さく見えた。


 いつもなら下を向いている。石畳の継ぎ目を数えながら歩く。鳴弦につつかれて顔を上げても、すぐに下を向いてしまう。でも今日は——「正解だ」の一言が、郁の背中をほんの少しだけ押していた。


 鳴弦が小さく鳴いた。風が吹いて灰銀色の羽が揺れた。郁はその音を聞きながら、口の中で呟いた。


 「……出たよ、鳴弦。声、出た」


 鳴弦は何も答えない。ただ郁の肩の上で、いつもより少しだけ体を丸めて寄り添っていた。


 垣根の上から百舌が飛び立ち、秋の空に向かって高く鳴いた。小さな声だった。でも——空の端まで届くような、澄んだ声だった。


 郁は歩きながら、その鳴き声を聞いていた。胸の中の温かいものが、まだ消えていなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ