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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:2幕

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33話 : 沈黙

 夏の陽が武術場の砂を白く灼いていた。


 砂粒の一つ一つが光を弾き、陽炎が地面の際をゆらゆらと立ち昇っている。武術場は教導寮の西の外れにあった。土を固めて整えた広い場に、四隅の杭が影を短く落としている。風はなかった。蝉の声だけが頭上の木立から降りそそいでいて、それが止む瞬間に空気の重みが一層増すようだった。


 基礎体術の授業だった。日下部訓導が武術場の端に立ち、腕を組んでいる。


 「今日は伍を跨ぐ。対になった相手と組手を行え。先に崩れた方が負けだ」


 短い指示だった。日下部の声には飾りがない。言い終えると同時に、組み合わせの名が読み上げられていく。


 二組、三組と名前が呼ばれ、朔の名はなかった。朔は伍が違うので直接の参加はなく、武術場の柵の外に腰を下ろしていた。隣では蓮が足を揺らしている。自分たちの伍の組手はすでに終わっていた。


 「久我崎。志場」


 日下部の声が武術場に落ちた。


 凌が立ち上がった。座っていたのではなく、しゃがんでいたのだ。膝に肘を乗せ、前のめりの姿勢のまま、名を呼ばれた瞬間に弾かれるように足をついた。口角がわずかに上がっている。


 「——ようやく当たったか」


 低い声だった。聞こえたのは隣の同期だけだろう。だがその声に篭もった熱を、朔は柵越しに感じ取っていた。


 善次郎は何も言わずに立ち上がる。砂を踏む音すら聞こえないほど静かな動作だった。背が高い。同期の中で最も大きな体躯が、陽炎の中にゆっくりと起き上がる。壁のようだ、と誰かが呟いた。一年以上前からついて回るその異名が、善次郎の両肩に影のようにのっている。


 二人が武術場の中央に歩み出た。向かい合う。


 凌の赤銅色の目が善次郎を見据えている。善次郎の深い墨色の目は、凌を見ているのか、それとも凌の先にある何かを見ているのか──表情だけでは分からなかった。


 日下部が腕を上げた。


 「始め」


---


 凌が踏み込んだ。


 最初の一歩で砂が弾けた。体の芯から押し出すような踏み込みだった。重心を低く落とし、腕を引いて右の拳を握る。同期たちの組手とはまるで速度が違った。まだ六歳の体だが、凌の動きには本能的な鋭さがあった。一年次の末試験で初穂を逃し、その悔しさを法力にも、鍛錬にも、座学にさえ注ぎ込んできた少年の拳は、手を抜くということを知らなかった。


 右の拳が真っ直ぐに善次郎の胸を狙った。


 ——善次郎の掌が、それを受けた。


 ぱん、と乾いた音が鳴った。拳を掌で受ける。力と力が衝突した音ではない。善次郎の掌が凌の拳に触れた瞬間、わずかに手首を返して力の方向を逸らしている。凌の拳は善次郎の体に届かず、横に流された。


 凌の目が鋭く光った。


 左の拳。今度は低い角度から、善次郎の脇腹を狙う。善次郎は半歩も動かなかった。左腕を下ろし、肘で受けた。凌の拳が善次郎の体幹に吸い込まれるように当たり——そして、止まった。鉄の棒に拳を打ちつけたような感覚が、凌の腕に返ってきた。善次郎は体幹で衝撃を吸収していた。微動だにしない。


 蹴り。凌の右脚が弧を描いた。速い。風を切る音がした。善次郎の左の脇を狙う横蹴り。善次郎は腕を寄せ、蹴りを体の側面で受け止めた。凌の靴底が善次郎の腕を滑り、空を切って戻る。


 三撃。全て受けられた。


 凌の連撃は止まらなかった。右の拳、左の拳、右の肘、膝。一撃放つたびに砂が舞い、汗が飛ぶ。六歳の体が出せる限りの速度と力をすべて叩きつけていた。善次郎はその一つ一つを受け続けた。掌で流し、肘で弾き、体幹で吸収し、腕で払う。一撃も通さない。


 武術場の隅で見ていた同期たちが、次第に口を閉ざしていった。


 柵の外で、朔も黙って見ていた。蓮が小さく息を呑んでいるのが横に感じられた。


 凌の攻めには、闇雲に見えて法則があった。朔の目はそれを捉えていた。


 最初の右拳は真っ直ぐだった。善次郎の掌に流された。二撃目は角度を変えた低い左拳。三撃目は善次郎の受けが手から肘に変わったのを見て、蹴りに切り替えた。


 ——凌は、一撃ごとに修正している。


 同じ受けを善次郎が二度使えば、三度目には別の軌道を選ぶ。角度、速度、部位——拳が善次郎の掌に触れて流される度に、凌の体がそれを記憶し、次の一撃に反映させている。考えて打っている。考えた上で、全力で来ている。


 朔は膝の上の手を握った。——連撃の中に混ぜられた、突き。その握り方が、最初とは変わっていた。拳の角度が三度ほど内側に入り、手首の返しが早くなった。善次郎の肘受けの外側を抜こうとする軌道だった。


 それでも善次郎は、受けた。


---


 組手が続いていた。


 砂が凌の足跡で荒れている。善次郎の足元だけが──立ち位置が殆ど変わらないために──整った砂のままだった。


 凌の息が上がっていた。額の汗が顎を伝い、砂に落ちて小さな染みを作る。肩が大きく上下している。だがその目の光は衰えていなかった。まだ打てる。まだ通る手がある。そう信じて拳を握り直す。


 善次郎は──息一つ乱れていなかった。


 凌が攻撃の手を止めた瞬間、間合いが空いた。ほんの一呼吸。善次郎の掌が凌の最後の拳を流した直後、善次郎の体の正面が一瞬だけ開いている。攻めに転じられる隙だった。掌底を一つ入れれば、汗で滑った凌の体勢を崩せる距離だった。


 善次郎は動かなかった。


 その隙を、凌は見ていた。善次郎にも見えているはずだった。自分の正面が開いていること。攻めに転じられる間合いがあること。それなのに善次郎は、再び受けの構えに戻った。両手を胸の前に開き、足を肩幅に据え、待っている。


 凌の中で、何かが軋んだ。


 全力で打った。一撃も手を抜いていない。だが一発も通らない。通らないだけならまだいい。善次郎は反撃すらしない。攻めない。こちらの全力を受けて、受けて、受けて──それで終わりだ。まるで壁に拳を打ちつけているようだった。壁は痛がらない。壁は怒らない。壁は──何も返さない。


 「——なんで攻めねぇんだよ」


 声が出ていた。荒い息の合間に。苛立ちと、認められないことへの怒りが、六歳の声に滲んでいた。俺はこれだけやっている。一撃ごとに考えて、一撃ごとに変えて、全力で来ている。なのにお前は受けるだけだ。俺の拳を、正面から見てくれない。


 善次郎は沈黙した。視線だけが凌の上にあった。


 「……受けるのが、俺のやり方だ」


 それだけだった。短くて、静かで、善次郎が発する言葉はいつもそうだ。一文で済むなら一語で、一語で済むなら沈黙で。だがこの一言には、善次郎自身が初めて言葉にした重みがあった。受けるのが——と善次郎は言った。打たないのではなく、受けることを自分の「やり方」として選んでいるのだ、と。


 凌は拳を握り直した。


 唇を引き結び、もう一度踏み込んだ。右拳。速い。善次郎の掌が伸びる。流される。左拳。受けられる。膝。弾かれる。凌の体が回転し、背後から肘を狙う——善次郎の腕が先回りしていた。凌の肘が善次郎の前腕にぶつかり、乾いた音が鳴った。


 善次郎は受け続けた。凌は打ち続けた。砂が舞い、汗が散り、無言の応酬が武術場に響いていた。


 「——そこまで」


 日下部の声が、二人の間に割って入った。


 凌の最後の拳が善次郎の掌の手前で止まった。善次郎の受けの形が——もう凌がどこから打つか分かっているかのように、先に構えられていた。


 組手としての決着はつかなかった。善次郎は一度も攻めていない。凌の打撃も有効打にはなっていない。引き分け。だがその引き分けの重さは、同期のどの組手とも比べものにならなかった。


 日下部は黙って二人を見ていた。その目の奥に、何か——胸の中で書き留めるような静かな光があった。


---


 組手が終わり、昼餉の時間が過ぎると、善次郎は中庭に戻った。いつもの場所だった。


 武術場と座学棟の間にある小さな中庭。壁と垣根に挟まれた日陰に、善次郎はいつも立っている。寄りかかるわけでもなく、座るわけでもなく。ただ足を地面に据えて立っている。何事もなかったかのように。


 凌との組手は、善次郎の中に何も残さなかっただろうか。


 壁のような体が日陰に沈んでいる。風が垣根の葉を揺らし、木漏れ日が善次郎の肩に落ちた。蝉の声が遠のいていく。


 善次郎は黙って立っていた。だが、その内側では言葉にならないものが静かに沈殿していた。


 ——あいつは闇雲じゃない。


 久我崎の三男。名門の血筋にありながら、総宰司の道を選ばず教導寮に入ってきた少年。同期の間では初穂を逃した悔しさから猛然と鍛錬に打ち込んでいるという噂だけが先行している。善次郎はその噂に興味はなかった。善次郎が知っているのは、さっきの組手で自分の掌が受けたものだけだった。


 掌が覚えていた。最初に受けた拳と、最後に受けた拳では、質が違った。同じ力で打っているのに、毎回どこかが変わる。受けるたびにこちらの手の位置を読み、次を変えてくる。あれは考えて打っている。一撃ごとに——


 考えた上で、全力で来る。


 善次郎にはその意味が分かった。鉄心——父が薙刀の型を一巡だけ見て「うむ」と頷く、あの目と同じだった。漫然と繰り返していないか。一回ごとに何かを変えているか。鉄心はそれを見ていた。久我崎の三男も、同じことをしていた。ただし受けるのではなく打つ側で。


 善次郎はそれ以上考えなかった。認めているのかと問われれば、善次郎自身にも分からなかっただろう。ただ一つだけ──あの拳を受けたとき、退屈ではなかった。壁として立ち続ける日々の中で、久我崎の拳だけが、壁を叩くのではなく「読もうとしていた」。


 善次郎はそのことに気づいていたが、気づいた自分には気づいていなかった。


---


 武術場の隅で、凌は一人だった。


 腰を壁に預け、拳を膝の上で握ったり開いたりしていた。掌は痺れていた。善次郎の肘に当たった拳の骨が、じんと熱い。


 通じなかった。全力で打った。一撃ごとに考え、一撃ごとに変えた。——全部受けられた。


 善次郎の受けは、ただの壁ではなかった。


 凌はそれを——言葉にはできなかった。だが拳が覚えていた。打つたびに、善次郎の掌の位置が微かに変わっていた。こちらが変えれば、向こうも変える。


 ——こっちの変化に対応していた。


 受けているだけじゃない。読んでいる。


 凌は拳を握った。強く。爪が掌に食い込む。


 次は通す。あの壁の向こうに、拳を届かせる。善次郎が攻めないなら——攻めさせる。そうでなければ、あの男の強さの本当のところが見えない。


 口には出さなかった。だが態度には出ていただろう。善次郎の方を見ずに立ち上がり、砂を蹴って武術場を出ていく後ろ姿に、苛立ちが滲んでいた。臆病者だ、と心のどこかで思った。あれだけの受けができるなら、打てるはずだ。なのに打たない。それが凌には許せなかった——なぜ許せないのかは、まだ分からなかった。


---


 帰り道だった。


 夏の陽はまだ高かった。真上から降りそそぐ光が通学路の石畳から陽炎を立ち昇らせ、垣根に蝉の抜け殻がいくつもついている。風が吹くと垣根の葉が揺れ、抜け殻が微かに震えた。


 朔は一人で歩いていた。今日の凌は、門を出てすぐ、いつもより早い足取りで一人で先に行ってしまった。組手の後も、凌の拳はずっと握られたままだった。朔はそれを見ていたが、何も言わなかった。今の凌に言葉をかけるのは、凌のためにならないと思った。


 武術場の裏手に差しかかった。


 背の高い生垣の向こうから、規則正しい音が聞こえてきた。


 風を切る音——そして地面を踏む音。一定の間隔で、同じ長さの弧を描いている。善次郎の素振りだった。


 朔は歩調を変えなかった。生垣の隙間から、善次郎の背中が見えた。昼の光の中で、善次郎の大きな体が棒立ての前に立っている。薙刀ではない。木刀を片手に、右から左へ、左から右へ。素振りの速度は一定だった。


 朔の目は、その速度を読んでいた。


 速くも、遅くもない。いつもと同じだった。


 前に同じ場所を通ったとき——善次郎の素振りは速かった。いつもの間隔よりわずかに短く、振り下ろしの軌道がわずかに深くなっていた。あの日の善次郎は、素振りの中に何かを叩きつけていた。内側から溢れそうになる感情を、木刀の先に逃がしているように見えた。


 今日は、それがなかった。


 凌との組手で全力の拳を受け続けた直後だというのに、善次郎の素振りには乱れがない。速度も、軌道も、呼吸の間隔も——いつもと全く同じだった。凌の拳は善次郎の中に何も残さなかったのか。いや、そうではないだろう。何も残さなかったのではなく、残したものが善次郎の内面を揺らすほどのものではなかった——ということだ。


 朔は何も聞かなかった。ただ通り過ぎた。


 生垣の向こうで善次郎の素振りが続いている。規則正しい風切りの音が、朔の背中に遠ざかっていった。


 歩きながら、朔は組手を反芻していた。柵の外から見ていた、凌と善次郎のすべてが、目の裏に残っていた。


 凌は怒っていた。善次郎が攻めないことへの怒り。だがそれ以上に——凌の拳は、怒りだけで打っていたのではなかった。そして善次郎の掌もまた、ただ受けていたのではなかった。


 二人は噛み合っていなかった。凌は打ち、善次郎は受ける。その繰り返しだけで、互いの言葉は交わらない。だが——互いの体は会話していた。凌の拳が問い、善次郎の掌が答える。凌がその答えを読んで次の問いを変え、善次郎の掌がまたそれに応じる。


 沈黙の中の対話だった。


 それを朔は見ていた。そしておそらく、善次郎と同じ解像度で凌の修正を読み取っていた。


 ——でもあの二人は、まだそのことに気づいていない。


 いつもの辻が見えてきた。


 真昼の光が、分かれ道の石畳を白く照らしていた。垣根の上に、燕が一羽とまっている。すうっと伸びた尾羽が風に揺れ、朔がそれを見上げた瞬間、燕は飛び立って空に溶けた。


 凌の影はもう、小路の先に消えていた。善次郎の素振りの音も、ここまでは届かない。


 朔は歩き続けた。


 夏の空が、まだ明るかった。蝉の声が途切れ、代わりに鐘の音が遠くから聞こえた——浄身院の、帰還を告げる鐘だった。誰かが帰ってきたのだ。結界の中に。


 その音を聞きながら、朔は家路を歩いた。垣根の短い影が道に落ちて、石畳の上に夏草の匂いが漂っている。朔の足音だけが、静かな真昼の中を刻んでいた。


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