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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:2幕

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32話 : 指先の赤

 苗圃の感触が消えなかった。


 あの日から数日が過ぎても、手が覚えていた。法力を通しても何も返さなかった木の肌。ざらざらとした乾いた手触りだけが、掌にこびりついている。


 ——仕組みが分かれば、何とかなる。


 それは嘘ではなかった。結界術は仕組みを理解したから形になった。鉄砧場も、水鏡池も、焔壇も。法力の通り方を分析し、素材を理解し、試行の角度を変えていけば、必ずどこかに道が開けた。苗圃だけが、その法則の外にあった。


 だから朔は、別の壁に向かうことにした。


---


 夕暮れ。朔は自室の縁側に座っていた。


 膝の前に、小さな木片と霊石の欠片が並んでいる。内工座の修繕で通ううちに、玄外が「余り物だ。邪魔だから持っていけ」と渡してくれた端材だった。


 篝のために何かを作りたい、という想いは、玄外さんの工房で初めて法具の法力流路を指差した日から、ずっと胸の奥にあった。結界を助ける道具。篝の部屋を守っている父の結界を、少しでも軽くする何か。


 朔は木片を手に取り、指先に法力を込めた。


 刻む。法力の回路を。木の繊維に沿って、細い溝を穿つように。鉄砧場で金属に法力を通したときと同じ感覚を頼りに、指先を動かした。


 ——ぱき、と音がした。


 木片が真ん中から割れていた。法力を通した瞬間、回路に負荷が集まって素材が耐えきれなかった。二つに裂けた破片が縁側に転がる。


 朔は割れた面を見つめた。割れ方には法則があった。法力が一点に集中し、そこから亀裂が走っている。回路の構造に問題がある——分岐がない。一本道の中を無理に法力が通ろうとして、出口がなく、破裂した。


 もう一つの木片を手に取った。今度は回路の形を変えた。分岐を作り、法力の逃げ道を設けた——つもりだった。


 ぱき。


 同じ音。同じ場所で割れた。


 三つ目。角度を変えた。


 ぱき。


 四つ目。回路の深さを変えた。


 ぱき。


 五つ目は、指先に法力を通しただけで端からぼろりと崩れた。素材がもたない。法力の通り方がどこか根本的に間違っている。そのことは分かる。分かるのに、何を変えればいいのかが分からない。


 おのれの知識の及ばない場所に壁がある。苗圃のあれとは質が違った。あちらは「適性がない」行き止まりだった。こちらは「知識が足りない」壁だった。その違いが朔にはまだ見えていなかったが、身体は感じていた——こちらは、手を動かし続ければ、いつか越えられる手応えがある。


 朔は六つ目の木片を手に取った。指先が赤くなっていた。法力を繰り返し流すことで指の皮膚が腫れ、赤く熱を帯びている。鍛錬でも同じだった。結界術を独学で始めた頃——四歳の冬、庭の隅で何百回も同じ型を繰り返した日々。あの頃も指先が赤かった。二年経った今も、新しいことに挑むたびに指先が赤くなる。


 六つ目も割れた。


 自室の縁側に、壊れた木片が散らばっていた。


 朔は破片を丁寧に布で包んだ。捨てはしなかった。——失敗には、形がある。


---


 数日後の午後、朔は内工座の前に立っていた。


 斎具所の暖簾をくぐると、奥から金槌が石を打つ音が響いていた。煤と炭の匂い。炉の熱で空気がゆらぎ、工房の天井の梁が陽炎のように揺れて見える。初めてこの場所を訪れた日から、一年余りが経っていた。


 玄外は炉の前にいた。無精髭を生やした横顔が、炉の光に赤く照らされている。作業衣の袖口に煤がこびりついて、腕を動かすたびに焦げた繊維の匂いが漂う。朔が入ってきたのを、一瞥した。


 「……何だ」


 「これを見てほしいのですが」


 朔は布を開いた。割れた木片を作業台に並べる。六つ。全部壊れている。


 玄外は黙って見た。


 手は動かさない。目だけが木片の上を移動していく。一つ、二つ、三つ——全部同じ素材を使っている。全部同じ場所で割れている。全部同じ過ちを繰り返している。そのことを、玄外は一目で見抜いていた。


 長い沈黙のあと、玄外は何も言わずに背を向けた。


 朔は動かなかった。追い返されるのには慣れていた。最初の頃は修繕の品を渡したら「もう帰れ」と言われた。それでも次の修繕のときにまた来た。壊れ方を説明し、回路の設計の改善点を問い、名を問われた日を経て——今は失敗作を並べている。


 玄外は炉に薪をくべ、火加減を確かめてから、作業台の端に戻ってきた。そこに、先ほどまでなかったものが置いてあった。


 木片。それと、霊石の小さな欠片。


 朔が使ったものとは違う。色が薄く、木目が細かい。指先で触れると、すぐに分かった。木肌の密度が違う。繊維の向きが均一で、法力が乗る手応えが——格段に違った。


 朔は霊石を手に取った。法力を通してみる。


 ——流れた。


 抵抗が少ない。朔が使っていた端材では、法力が一箇所に溜まって逃げ場がなくなっていた。この素材は、法力の出入口が複数ある。自然に分散される。


 玄外は炉の前で別の仕事をしていた。背中だけがこちらに向いている。一切、振り返らない。


 朔は息を吸った。


 「……この素材は、僕が使っていたものとは法力の通り方が違います」


 玄外は背を向けたまま、金槌を置いた。


 「……で?」


 短い一語だった。相手の話の続きを待っている——のではない。核心を求めている。その問いかけの鋭さを、朔は肌で感じた。


 「前の素材は、法力の出入口が一つしかない。だから回路を刻むと負荷が集中して割れた。この素材は……出入口が複数ある。分散できます」


 一拍の沈黙があった。


 「……もう帰れ。明日また来い」


 朔は素材を布に包んだ。新しい木片と霊石の欠片を、壊れた六つの破片の隣に丁寧に収めた。


 「ありがとうございます」


 返事はなかった。朔は暖簾をくぐって外に出た。


 午後の光が工房の土壁を白く照らしている。斎具所の軒先に干された布が風に揺れて、焦げ茶色の影が地面を掃いていた。


 朔の背中が日差しの中に消えていく。


 工房の中で、玄外はようやく振り返った。


 口元が微かに緩んでいた。——気づくのが早い。素材の違いを置いてから、あの坊が手に取るまで三十秒もかかっていない。法力を通して性質の差を読み取り、言語化して返してくるまで、一分足らず。


 失敗作が六つ並んでいた。全部壊れている。全部同じ間違いを繰り返している。だが——全部持ってきた。一つも捨てていない。


 玄外は炉に向き直った。奥歯が微かに鳴った。


 ……面倒な坊だ。


---


 その日、久我崎家の凌の部屋には灯が点いていた。


 蝋燭の火が一本、揺れもせずまっすぐに立っている。火の周りだけが温かく、部屋の隅は暗い。その明かりの円の中に巻物が広げられて、凌は胡座をかいたまま文字を追っていた。


 里史の巻物。序列発表の夜から、家の書庫からこの巻物を持ち出して読み始めた。武術場で相手の目を見据えるときと同じ眉間の皺を、文字に向けている。額に薄く汗が浮いていた。頁を追う速度は遅い。武術場のような瞬発力は、ここでは役に立たなかった。


 頁をめくった。


 注釈が書き足してあった。次兄・慧の筆跡だった。くせのない楷書で、本文の脇に丁寧な解説が添えてある。「この項が指す五行相剋は、前頁の水土の記述と対応する」。分かりやすい。巻物の難解な文意を、凌にも理解できる言葉に噛み砕いてある。


 凌は鼻で笑った。


 「……こんなの、分かってる」


 次の頁をめくった。


 また慧の注釈があった。「ここは試験に出やすい。覚えておけ」。余白に書き加えられたその一文に、凌は一瞬だけ目を逸らした。兄が——あの、何を考えているか分かりにくい次兄が、弟のためにわざわざ巻物に書き込みを入れてくれている。口では何も言わない。頼んでもいない。ただ巻物を書庫に戻しておくと、次に凌が手に取ったときには注釈が増えている。


 認めるのは、少し悔しかった。だが慧の注釈がなければ、この巻物の半分は読み解けなかっただろう。


 凌は巻物に目を戻した。蝋燭の光が文字の上を舐めるように照らしている。外からは蛙の声が遠く聞こえる。春の夜は静かだった。


 拳を膝の上で開いた。掌の皮が厚い。毎日の素振りと鍛錬で固まった手。指の関節が太く、皮膚に光沢がある。繊細な法力の扱いで腫れる手とは、まるで違う。凌の手は、力を叩きつけることで固くなった手だった。


 それぞれの手が、それぞれの壁に向かっている。


 凌は巻物を読み続けた。蝋燭の灯りが、夜更けまで消えなかった。


---


 翌朝。


 空が白み始めた頃、朔は家を出た。昨日、玄外にもらった素材の感触が、まだ布越しに指先に残っていた。出入口が複数ある木片。法力が分散される構造。帰宅後に一度だけ法力を通し、木目に沿って回路の下書きを指先でなぞった。割れなかった。まだ刻んではいない。今日は設計だけを考えながら歩くつもりだった。


 辻の角が見えたとき、北西の小路から足音が聞こえた。


 朝の光が角を曲がってくる凌の横顔を照らしている。半袖の袖口から見える腕は、数日前と同じように太い。だが目の下に薄い隈があった。昨夜、遅くまで灯りを点けていたのだろうか。


 凌は朔の横に並んだ。視線が一瞬だけ、朔の手元に落ちた。


 朔の指先が赤い。


 法具制作の独学で腫れた指。鍛錬でも同じように赤くなる——四歳の冬から変わらない、朔の壁への向かい方の証だった。


 凌は何も聞かなかった。朔も何も言わなかった。


 ただ並んで歩いた。


 凌がちらりと、自分の右手を見た。掌の皮が厚い。拳の骨が太い。素振りで固まった手。夜中に巻物を握り続けた手。


 赤い指先と、固い拳が、通学路を並んで歩いていた。


 二人の影が、まだ低い朝日に長く引かれている。里の人通りは少なく、土を踏む足音だけが重なっていた。垣根の向こうから鳥の声が聞こえる。風が枝を揺らすと、若葉の匂いが鼻をかすめた。


 教導寮の正門が見えてきた。大楠の若葉が朝日に透けて、緑の光を地面に落としている。


 二人は何も言わずに門をくぐった。


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