31話 : 五つの庭
春の休校が明けた朝は、空の色が違っていた。
二週間前の最終日にはまだ淡く白んでいた空が、今朝はすっかり青に変わっている。空気のなかに漂う匂いも違う。土の中から押し上がってくるような、甘い湿った匂い。春が一段深くなっていた。
朔は通学路を歩いていた。いつもの辻に差しかかると、北西の小路から足音が聞こえた。
「——おう」
凌が角を曲がってきた。低い声は去年と変わらないが、頬のあたりが少し引き締まっている。春の休校のあいだも、きっと毎日素振りをしていたのだろう。
「おはよう」
朔が応えると、凌は横に並んで歩き始めた。この辻で合流して、教導寮まで黙って歩く。入学前の冬の庭から始まった並走が、いつの間にかこの形に落ち着いていた。
正門をくぐる。
教導寮の大楠の枝が、門の向こうに木漏れ日を落としていた。若葉の層を透かした朝の光が中庭の地面に斑を描いて、風が吹くたびにその模様がゆっくりと揺れる。一年前、入学の日にこの木を見上げたとき、朔はただ大きさに圧倒された。今は幹の瘤の形も、根元の隆起の向きも、目を瞑っていても描ける。
大広間に入ると、同期たちが膝を揃えて座り始めていた。二年次。根養期の二年目。教壇に日下部訓導が立っている。
日下部は普段通りの、日に焼けた顔でこちらを見渡した。左膝の布巻きが朝日に白く光っている。豪快な声が大広間に響いた。
「——今日から五行修練庭に入る」
空気が変わった。
五行修練庭。一年前の引率のとき、晶先輩に連れられて敷地を歩いた。焔壇の壁に残った焦げ跡を見て、他の新入生が足を止めていたのを覚えている。あのとき晶先輩は「お前らもそのうち壁を焦がす」と笑っていた。あの横を通り過ぎるだけだった場所に、今日、訓練者として足を踏み入れる。
日下部は腕を組んだまま続けた。
「各区画を順に回る。——自分が何に向いているか、体で知れ」
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五行修練庭は、武術場の土の広場と術式鍛錬場の石畳のあいだに挟まれた五つの区画だった。
苗圃の若緑。焔壇の石壁に残る黒い焦げ跡。礎場の砂地。鉄砧場から聞こえてくる金属の澄んだ音。水鏡池の水面に映る春の空。五つの場所が隣り合いながら、それぞれまったく異なる空気を纏っている。
日下部が先頭に立ち、同期三十人が後ろに続いた。
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最初の区画は礎場だった。
砂地の上に立つと、足の裏から乾いた冷たさが伝わってきた。石畳と砂の複合区画は他の場所より広く取られていて、法力を広げるための空間がゆったりと確保されている。
「法力を地に送れ。足の裏から、地面に。——自分の外に出す。それだけでいい」
日下部が短く告げると、同期たちが一斉に足元を見た。
沈黙が続いた。
法力を体の外に出す。それは初めてだった。今まで座学で「法力とは何か」を学び、自分の体の中にそれが在ることは感じていた。だが体の外に送り出すのは別の話だった。顔を真っ赤にして力む生徒、膝が細かく震えている生徒。足元の砂がかすかに揺れた者がいて、あっと声が上がったが、本人は汗だくで、それが限界だった。
朔は息を吸い、足の裏に意識を向けた。
法力を体の外に流す感覚は、数えきれないほど繰り返してきたものだった。庭の片隅で、篝が昼寝をしている間に。冬の息が白くなる中で。凌が隣に座っていた日も、座っていなかった日も。
足元の砂地が、変わった。
法力が地面に沈み、広がり——そこから跳ね返るように立ち上がった。琥珀色の光が一瞬だけ走り、低い共鳴音が腹の底に響いた。空気が固体に変わる瞬間。朔の足元から、壁が立っていた。砂を揺らすだけで精一杯の周囲とは、まるで別のものが朔の前に聳えていた。
周囲が静まった。
日下部の声が、低くなった。
「坊主、お前……これを家で練ったのか?」
朔は足元の壁を見つめたまま答えた。
「はい。父に教わりました」
日下部は何かを言いかけて、飲み込んだ。視線が朔から離れ、懐の適性評価書に落ちる。筆を取り出して、短い一行を書き込んでいた。
周囲の同期たちの空気が、ほんのわずか変わった。——座学ができるだけではない。実技も、まるで別格だ。そういう空気だった。
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焔壇の石壁は、近づくだけで焦げた匂いがした。
防火結界の札が壁に貼り重ねてあり、端が茶色く変色している。的の柱に刻まれた幾重もの焦げ跡が、この場所で先輩たちが何をしてきたかを物語っていた。
「掌の上に法力を灯せ。熱にしろ」
同期たちが掌を開いた。だが手のひらがほんのり温かくなるのが精一杯で、点いたと呼べるような光は誰の掌にもなかった。
凌が掌を開いた。
掌の上に集めた法力が一瞬で熱に変わり、制御を通り越えて弾けた。ぱちん、と空気が鳴り、火花が散った。
日下部が声を上げた。
「絞れ! お前のは灯じゃねぇ、爆ぜだ」
凌は不満げに掌を見つめた。
「加減してんだけど」
日下部の目が細くなった。灯せと言っただけで爆ぜる出力。これが加減の結果だという。朔にも分かった——凌の法力の出力が、桁違いに高いことが。
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鉄砧場に入ると、空気が変わった。
金属の匂い——硬くて冷たい、鉄と石の混じった匂いが鼻を打つ。内工座から提供された金属片が、一人に一つずつ配られた。掌に収まる大きさの、平たい鉄の欠片。
「金属に触れて法力を通せ。指先から、中に向けて」
同期たちが金属片を握りしめた。力を込める者、眉間に深い皺を寄せる者。だが法力は指先から先に進まない。金属片を体温で温めているだけの手が並んだ。
朔は金属片に指先を触れた。
動きが止まった。
朔は微動だにしなかった。目を閉じたわけではない。指先からじわりと法力を通し、金属の理を「触って」いた。不純物がどこにあるか、素材の脈がどちらを向いているか、法力がどの経路を通れば最も抵抗が少ないか——指先が全てを読み取っていく。
白銀色の冷たい光が、朔の指先に滲んだ。
指先で撫でるように法力を流し、不純物の位置を正確に指し当てた。
内工座出身の訓導が、声を失っていた。
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水鏡池は、五つの庭で最も静かだった。
人工の浅い池——深さは膝の半分ほど。石造りの水路が周囲を巡り、水面に春の空が映っている。風が通るたびに水面がわずかに揺れて、映り込んだ雲の形がゆっくりと歪んだ。
「掌を水面にかざせ。法力を水に触れさせろ」
同期たちが池の縁にしゃがみ、おそるおそる掌をかざした。水面は静かなままだった。力を込めすぎて水を叩いてしまう者もいた。
蓮が掌を水面にかざした。
水面が揺れた。風ではない。蓮の指先から見えない糸が伸びるように、水面がそっと蓮の掌に向かって膨らんだ——それは操っているというよりも、水に「おいで」と声をかけたら水が自ら応えたような、柔らかな動きだった。
朔も掌をかざした。水面が応えた。だが蓮の水とは動きが違った。蓮の水は掌に寄り添うように動いたが、朔の水は掌の前で静かに張り詰めた。同じ「触れた」のに、方向が違う。蓮の水は「生きているもの」に寄り添おうとする。朔の水は「空間を制御」しようとする。——同じ水行でありながら、対照的だった。
その横で、善次郎が苗圃の方をじっと見ていた。
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苗圃は五行修練庭の最も西の区画にあった。
土の区画に苗木が植えられ、若い枝が春の光を浴びて翡翠色に輝いている。他の区画の石や金属、水とは違う。ここだけが生きている。根を張り、幹を伸ばし、何年もかけて育ってきた生命の気配が、土の中から溢れていた。
善次郎の番が来た。
善次郎は黙って苗木の前に立ち、両手を前にかざした。
——地面が、応えた。
苗木の根元から、太い根が土を割って地上に顔を出した。ゆっくりと、しかし止まることなく。土塊が砕けて左右に押し退けられ、根が空気に触れて白い肌をさらす。まるで善次郎が呼んだから地の底から這い出てきたような——地面が善次郎に応えている、としか言いようのない光景だった。
周囲のざわめきが消えた。
他の同期が枝をかすかに揺らすだけで力尽きる中、善次郎の根は地面を噛んで立ち上がっていた。攻撃でも破壊でもない。根が地面に食い込み、踏ん張り、そこに「在る」——善次郎の体がやっていることと同じだった。支える。立てる。壁になる。
日下部が声を低くした。
「……志場か。親父譲りだな」
善次郎は無言で手を下ろした。根は少し遅れて、静かに土に戻っていく。善次郎の横顔には何の表情も浮かんでいなかったが、足元の土が微かに陥没していた。踏み込んだ跡ではない。根が通った痕だった。
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朔の番が来た。
苗木の前に立つ。他の同期が順番に挑んでいたのと同じ、細い幹の若木だった。枝先に新芽が膨らんでいて、春の光に透けている。
朔は掌をかざした。指先から法力を送り込む。
——応えない。
枝が微かに震えただけだった。風に揺れたのかとも思うほど、かすかな震え。法力が木の内側に届いている感覚がない。
もう一度。法力の量を増やした。角度を変えた。指先から手のひらに面を広げ、木の幹全体を包むように送り込んだ。
拒まれている。
他の四つの区画では自在に感じた法力が、ここでは木に弾かれるような抵抗を返してくる。
朔は分析した。仕組みが分かれば何とかなる——そう信じてきた。法力の流路を変えた。角度を変え、面を広げ、結界術の経路も錬器術の繊手も流脈術の柔らかさも試した。何を変えても、苗木は朔に応えなかった。
周囲を見た。
凌は苗圃が得意ではなかった。枝をへし折ってしまい、日下部に「力で押すな」と怒鳴られている。だが折れるほどの出力は通っている。力が有り余っているだけで、木との間に回路は在る。
蓮の動きは苗圃の基礎に忠実だった。華やかな動きはないが、苗木の幹に手を当てて目を閉じると、かすかに枝先が揺れる。家業で培った薬草の知識——植物との対話の感覚は、この場所でも蓮の味方をしていた。
善次郎は、この場所で最も自然に息をしていた。
朔だけが、何も起こせなかった。
日下部は朔の様子を見ていた。何かを言いそうな気配が、一瞬だけあった。けれど日下部は何も言わなかった。ただ適性評価書を開いて、筆を走らせていた。その沈黙が、怒鳴られるよりも重かった。
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帰り道。
昼の光が通学路を照らしていた。春の陽は高く、足元の影が短い。若草の匂いが道の両脇から漂ってきて、休校前の最終日と同じ道なのに、季節がまたひとつ進んでいた。
朔は黙って歩いていた。
苗木に手を当てたときの感触が、まだ指先に残っている。法力を通しても何も返さなかった、あの硬い沈黙。
今日、初めて壁があった。分析して、試して、変えて、もう一度試して——それでも動かなかった。考えても、解けなかった。
足音が横に並んだ。
凌だった。帰り道で並ぶのは朝の合流の延長のようなもので、いつからか自然にそうなっている。
しばらく無言で歩いた。
凌が口を開いた。
「……苗圃、だめだったな」
「うん」
「俺もあそこは無理だった。枝を折った」
「折れるだけまだいい。僕は震えただけだった」
凌は少し黙った。通学路の左に植え込みの影が伸びていて、二人の足元に暗がりが落ちている。
「でも、お前、他の場所は全部すごかっただろ」
凌の声には飾りがなかった。ただ見たままの事実を口にしただけだった。礎場であの壁を出したことも、鉄砧場の法力の繊手も、水鏡池で水が応えたことも、凌は全部見ていた。
「……一個くらい、いいんじゃねぇか」
朔は答えなかった。
一個くらいいい、とは思えなかった。苗木が何も返さなかった指の感触が、まだ残っていた。
凌は朔の沈黙を読んだ。
それ以上は何も言わなかった。
二人は無言で通学路を歩いた。
真昼の光が、道の先の垣根に眩しく当たっている。一年前の春には知らなかった道だった。今は足が覚えている。この辻を曲がれば凌と分かれる。そのことも、もう身体が知っていた。
分かれ道の角で、凌が足を止めた。
「——じゃあな」
「うん。また明日」
凌が小路の奥に消えていく。足音が遠ざかって、やがて聞こえなくなった。
朔は一人で残りの道を歩いた。左手の指先が、まだ苗木の樹皮の感触を覚えていた。ざらざらと乾いた手触り。法力を通しても何も返してくれなかった、あの硬い沈黙。
頭上の青空から、春の風がまっすぐに吹き下ろしてくる。
二年次が始まった。




