30話 : 春のおみやげ
春の光が教導寮の大広間に差し込んでいた。
窓の外では大楠が若葉をいっぱいに広げて、風が吹くたびに枝先がゆったりと揺れている。去年の秋に初めて見上げたときは、幹の太さと枝の広がりに圧倒されるばかりだったが、一年が経って、あの枝の一本一本にも見覚えが生まれていた。
朝礼で秦訓導が教壇に立った。いつもの柔らかい声が、今朝は少しだけ軽い。
「明日から春の休校に入ります。持ち帰り巻物を忘れぬよう。——では、最後の座学を始めましょう」
同期三十人が一斉に姿勢を正す。板敷きの床は春の陽気を吸って温んでいて、膝の下がほのかに温かい。朔は巻物を広げながら、ちらりと窓の方に目をやった。大楠の枝の向こうに、淡い白雲がゆっくり流れていた。
それが一年次の最後の朝だった。
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昼餉の碗が並ぶ。
今日の粟粥には卵が落としてあった。碗の底に黄身の欠片が沈んでいて、汁をすすると舌の上にふわりとほどける。春は教導寮の食事が少しだけ豊かになる。冬のあの薄い汁——蕪の切れ端が二枚と大根が一切れだけ浮いていた日とは、碗の中の景色が違った。
蓮が向かいで箸を動かしながら、「今日のお粥、おいしいね」と笑っていた。凌は黙って碗を二杯平らげて、善次郎は一杯をゆっくり食べ終えてからしばらく碗の底を見つめていた。
昼餉が終わり、大広間を出た。
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午の二刻、下校。一年次は午前だけで教導寮を終える。
正門へ向かう途中、武術場の横を通り過ぎた。
棒立ての傍らの地面に、細い溝がいくつか刻まれている。善次郎の素振りの跡だった。薙刀の石突きが土に当たってできた小さな穴と、踏み込みで削れた足場の跡。善次郎はこの場所に毎日立って、同じ動きを繰り返していた。朔もまた毎日この横を通り過ぎていた。一度も立ち止まらず、一度も何も言わず、ただ善次郎の素振りの音を聞きながら。
さらに歩き、中庭の大楠の下を通りかかった。
朔はふと足を止めた。
大楠の足元の土に、名も知らない草が小さな白い花を咲かせていた。
五弁の花が、根の隆起の影に寄り添うように数輪ずつ開いている。花弁は薄くて、光を透かすと仄かに青みがかって見えた。名前は分からない。蓮なら即座に答えるだろうし、篝も知っているかもしれない。朔は知らなかった。ただ、その白い花弁の形が、押し花帖に挟まっている藤袴の花弁と同じくらいの大きさだと思った。
朔はしゃがんで、茎の根元に近いところを指先で折った。数本だけ、丁寧に。花が潰れないように左手の指の間に挟んで、巻物の束のあいだに置いた。
教導寮の正門をくぐる。通学路が明るい陽射しに白く照らされていて、土の道の両脇に若草が萌え出している。ひと月前はまだ枯れた色をしていた草叢が、今は目に痛いほどの緑だった。
花弁がかすかに揺れて、指先に春の風がすり抜けた。
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帰り道。
一年間歩いた通学路を、今日も同じように歩いている。足が覚えている道だった。踏み固められた土の感触も、道の曲がり角の傾きも、身体が知っている。
配給所の前を通った。
春は列が短い。秋の収穫のあとに蓄えた分がまだ残っているのだろう。包みを受け取る里人たちの足取りが、冬のあの重い足取りとは少し違っていた。
分かれ道の角を通り過ぎた。
朝、凌がいつも合流してくる場所だった。家を出て少し歩くと、小路から足音が聞こえて、振り向く前に「おう」と低い声がして、凌が隣に並ぶ。それがいつの間にか当たり前になっていた。下校の今は、通りに誰もいない。角を曲がったところの垣根の影に、午後の光が落ちている。
すべて去年にはなかった景色だった。棒立ても、配給所の列も、ただの分かれ道も、一年前の朔にとっては何の意味もないものだった。今はそのひとつひとつに、知っている人の影がある。
朔は歩きながら、一年が経ったのだなと思った。それだけだった。立ち止まりはしなかった。感傷ではなく、事実を確かめるように、足は家に向かっていた。
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土御門家の門をくぐった。
庭先の梅が散り終えて、枝に青い小さな実が膨らみかけている。陽が庭石を温めていて、踏むと草履の底からぬくもりが伝わってきた。
玄関で草履を脱いでいると、奥から足音がした。
「おかえりなさい、朔。今日でおしまい?」
瑞が台所口から顔を出していた。手に布巾を持ったまま、少し眉を上げて朔を見ている。
「はい。しばらく休みです」
「……そう。篝が喜ぶわ」
瑞は微笑んで、また台所に戻っていった。布巾で手を拭く小さな音が、板敷きの廊下に消えていく。
朔は巻物の束をそっと抱え直した。花が潰れていないか確かめて、渡廊下を庭先の方へ歩いた。
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篝が縁側にいた。
陽を浴びて、膝の上に押し花帖を広げている。髪が背中まで伸びていて、日に透けると漆黒の中にかすかな飴色が浮かぶ。
帖の頁がだいぶ増えていた。蓮が持ってきた花——白梅、藤袴、山茶花、忍冬、竜胆。そこに去年の秋、篝が自分で庭から拾った楓の葉が一枚加わっている。どの花にも、篝の字で名前と小さな註が書き添えてあった。
篝が顔を上げた。朔を見て、目がふわりと笑った。
「おかえり、さくにぃ」
「ただいま」
朔は庭先の磨き石に腰を下ろして、巻物の束から白い花を取り出した。
「おみやげ」
篝の目が大きくなった。
朔の指の間に挟まれた白い花を、篝はしばらく見つめていた。五弁の小さな花。茎が少ししなっているが、花弁は潰れていない。朔が帰り道ずっと左手で庇っていたからだ。
「これ……なんていうお花?」
篝が手を伸ばして、朔の指先から花を受け取った。小さな指が、花弁に触れないように茎の根元を摘んでいる。
「分からない。教導寮の大きな木の下に咲いていた」
篝が花を目の前に持ち上げて、くるりと回した。光を透かして見ると、花弁のふちがかすかに青みを帯びているのが篝にも分かったようで、「きれい」と小さく息をついた。
「じゃあ、蓮ねぇに聞こう。帖に挟んで、名前が分かったら書く」
篝は押し花帖を膝の上で広げたまま、白い花の居場所を探した。最後の頁をめくると、まだ何も挟まれていない新しい頁が現れる。薄い和紙を一枚重ねて、その上に花をそっと置いた。帖を閉じるとき、紙のあいだに花が吸い込まれるようにして消えていく。
「名前のところは空けとく」
篝はそう言って、帖の背表紙を指先でとんとんと叩いた。仕上がりを待つような、小さな儀式だった。
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夕暮れが近づいていた。
庭の空が橙色に変わり始めて、縁側に影が伸びてきた。篝は庭先の磨き石に腰を下ろしていた朔のそばに自分も移って、ふたり並んで庭を見ている。春の空気はまだ少しひんやりしていたが、日が沈むまでのあいだ、磨き石の上には午後の陽のぬくもりが残っていた。
「ねえ、さくにぃ。教導寮のこと、もっと聞きたい」
篝が両手で帖を抱えたまま、朔の方を向いた。
朔は少し考えてから、一年間のことをぽつぽつと話し始めた。
大広間の粟粥のこと。春は卵が入って少しおいしくなること。走り込みのとき、みんなが息を切らして地面に座り込むこと。巻物が重くて持ち帰るのが大変なこと。
表面的な話ばかりを選んでいた。晶先輩に会えなくなったことは話さない。善次郎が武術場の隅で一人立っていたことも話さない。結界の外の闇のことも。朔はそれらを飲み込んで、篝に届けても良い部分だけを、声にしていた。
篝はそれを分かっているのだろう。朔の話の端々で、追える場所を追わず、笑える場所で笑った。かすかに首を傾げる瞬間があっても、黙って待った。
やがて篝が、帖を膝の上で開いて、指先で花の頁を撫でながら言った。
「さくにぃ、凌くんのこと、よく話すね」
朔の手が止まった。
「……そうかな」
「善次郎って子も。あと蓮ねぇも」
篝は帖から目を上げて、朔の顔をじっと見た。暗くなりかけた庭の光の中で、篝の瞳が澄んでいた。
「さくにぃ、お友達がいるんだね」
朔は口を開きかけて、止まった。友達。その言葉を、前にも聞いた気がした。入学前の冬に、凌が毎日庭に来ていたとき。篝が「それ、お友達だよ」と言ってくれた。あのときは凌だけだった。今、篝が言ったのは、凌だけではなかった。
「……友達、かな」
「友達だよ」
篝は笑った。篝の笑顔はやわらかかった。けれどその奥に、折れないものがある。
「だって、話してるとき、さくにぃの顔がちょっと違うもん」
「違う?」
「うん。声もちょっと違う。凌くんの話するときと、走り込みの話するときと、全然違うの。凌くんの話のとき、さくにぃ、ちょっとだけ嬉しそうな顔してる」
朔は自分の顔に触れた。頬には何の表情も浮かんでいないつもりだった。けれど篝にはそれが見えている。朔が気づかない何かが、声の端や目の動きに滲んでいたのだろう。
「……自分では分からない」
「さくにぃは自分のこと、あんまり分からないもんね」
篝が帖を胸に抱えて、少し体を揺すった。からかうような、けれど嬉しそうな声だった。
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夜。
篝の部屋は障子越しの月光がうっすらと床を照らしていた。春の月は高く昇っていて、白い光が部屋のなかに柔らかく広がっている。
篝はもう褥に入っていた。掛け布の上に押し花帖を広げて、今日挟んだばかりの白い花の頁を指先で撫でている。花弁はまだ湿り気を含んでいて、和紙にほんのわずか染みが移っているのが月光の下でも見えた。
朔が水を置きに来た。枕元に湯呑を静かに置くと、篝が褥から顔を出して朔を見上げた。
「ねえ、さくにぃ。教導寮って、大きな木があるんでしょ?」
「うん。すごく大きい楠がある。入学の日に見上げたときは、首が痛くなった」
篝の目が光った。暗い部屋の中でも、好奇心に燃えた篝の眼は小さな灯のように見える。
「根っこも太いの?」
「うん。地面から盛り上がっていて、座れるくらい太い場所もある」
「……いいなぁ」
篝の声が、ふっと消えた。
その「いいなぁ」は、花を見たときの「きれい」とは違った。声の底に、もっと深い何かが沈んでいた。篝が「いいなぁ」と言ったとき、朔の胸の中で何かが軋んだ。
朔は一瞬だけ黙った。
何か言おうとした。けれど言葉が見つからなかった。「いつか見せる」と言えたら良いのに、その手立てを朔はまだ知らない。花を持ち帰ることはできた。でも、それだけでは足りない気がした。
その引っかかりが、胸の奥にぽつりと沈んだ。
朔は何も答えなかった。代わりに、篝の掛け布を肩のところまで引き上げてやった。篝の指先がまだ少し冷たかった。布の端を握らせて、朔は篝の髪をそっと撫でた。
「おやすみ、さくにぃ」
篝が笑った。穏やかな、春の夜の笑顔だった。
「おやすみ」
朔は立ち上がって、障子を引いた。
自分の部屋に戻り、褥に入った。目を閉じると、今日押し花帖に挟んだ白い花の小ささが瞼の裏に浮かんだ。あの花は乾いたら、もっと小さくなるだろう。和紙に挟まれて、薄く、白く、帖の一頁になる。
風が吹くと、あの枝の間から降ってくる音があった。何千もの葉がそよいで、さらさらと鳴る、あの音。根元に座ったときに足の裏から伝わる土の冷たさ。枝の隙間から零れる光が、地面に揺れる影の模様を描いていたこと。
そのどれも、花では伝わらない。
……でも、いまの朔にはそれ以上の方法が思いつかなかった。
穏やかな夜だった。春の風が障子の向こうで枝を揺らしている。
一年次が終わった。




