29話 : 最初の答え合わせ
春の朝の風が、教導寮の廊下を吹き抜けていた。
教導寮の大広間に同期三十人が集まっている。板敷きの床は陽気を吸ってほんのり温かくなっていて、朔は正座した膝の下にその柔らかい感触を覚えた。天井の梁が高くて、その下に少しだけ引き締まった空気が満ちている。窓の外では大楠が若葉を広げ、春の空の下で風に葉を揺らしていた。去年の入学の日に見上げたのと同じ楠のはずだが、あのときより葉の緑が濃い気がした。
壁に歴代初穂の木札が年次順に並んでいる。墨で書かれた名前が、ところどころ薄れかけて読めなくなっている札もあった。一番下の位置に、まだ何も書かれていない新しい木札が掛けてあった。
後期末試験、座学の部——口述。
秦訓導が教壇に立っていた。痩身で、眼鏡の奥の目が穏やかに生徒たちを見渡している。いつもの柔らかい声が、しかし今日は少しだけ張りを帯びて聞こえた。
「では始めます。里史。——五星連珠を起こした五人の名を、順に述べなさい」
最初に指されたのは蓮だった。
蓮が立つ。背は小さいが、姿勢がきびきびとしていて、立ち上がる動作に迷いがない。
「葦守の翁、祝刀の巫、鉄鍛の翁、水紡の媼、種守の輩。——この五人が穢れの中に結界を築き、里の礎を作りました」
淀みがなかった。名前を五つ並べただけではなく、そのあとに結界を築いたという事実と里の礎という意味まで、一息に付け加えた。朔の視界の端で、秦訓導が小さく頷いたのが見えた。
「続けて。望月の禍とは何か。自分の言葉でお願いします」
蓮は息を整えもしなかった。
「天蓋歴百十二年に起きた里の防衛戦です。大禍と複数の凶星の怪異が里を襲い、結界が大きく損壊しました。術師部隊にほぼ全滅に近い被害が出ましたが、討ち取った怪異の法石で結界を再構成し、強度はかえって向上しました。これを受けて、里は専守防衛に方針を切り替えています」
声が止まらない。まだ続く。
「多くの術式がこの戦いで失われたのも大きな影響です。術師の大半が倒れたことで、複合術式の伝承が途絶えました。——以上です」
大広間がしんと静まった。同期三十人のうち何人かが小さく息を呑んだのが、静寂の中にぽつりと落ちた。
秦訓導の眼鏡の奥の目が柔らかく細まった。「——素晴らしい。その通りだ」
蓮が席に戻る。座る瞬間にちらりとこちらを見て、口の端だけで笑った。いつもの蓮だった。
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凌の番が来た。
里史の口述。同じ範囲だが、問いが違う。
「配給制度の成り立ちを述べなさい」
凌が立った。太い腕とがっしりした体が、正座から立ち上がるときに少し窮屈そうに見えた。
「……望月の禍のあと、色んなものが足りなくなって始まった。法石の備蓄に——」
そこで止まった。
朔の位置から、凌の横顔が見えた。鋭い赤銅色の目が宙を睨んでいる。答えられないわけではない。筋道はわかっている。だが蓮のように淀みなく言葉が続かない。頭にあるものと、口から出てくる言葉のあいだに、小さな隙間がある。
凌がかすかに舌打ちをした。
「——結界を直すために法石の備蓄を最優先にしたから、食い物にしわ寄せがいった。残った分をどうにかするためには管理するしかなかった。それが配給だ」
乱暴だが、間違ってはいなかった。秦訓導は少し困ったような顔で「……もう少し肉付けしてもよかったですね、久我崎」と言った。凌は黙って座った。座るとき、膝の上で指がきつく丸まったのが目に入った。
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朔の番が来たとき、問いは五行の循環の口答だった。
「五行の相生と相剋の循環を述べなさい」
朔は静かに立ち、答えた。木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生じる。相剋は木が土を剋し、土が水を剋し、水が火を剋し、火が金を剋し、金が木を剋す。淡々と、正確に。目立たないが間違えない。秦訓導は頷いて「結構です」とだけ言った。
善次郎の番は里史だった。
「望月の禍ののち、里の防衛方針はどのように変わったか、説明しなさい」
善次郎が立った。同期の中で最も大きな体が持ち上がると、それだけで視線が集まる。
「……専守防衛に変わった」
それだけだった。善次郎は口を閉じて、秦訓導を見ている。
秦訓導が苦笑した。「……もう少し話してもいいぞ、志場」
善次郎はわずかに顎を引いた。それが了解なのか、これ以上は話す気がないのか、判然としなかった。ただ答え自体は間違っていなかったので、秦訓導は「まあ、よろしい」と次に進んだ。
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実技試験は午後だった。
武術場に同期が並ぶ。春の空が高く澄んでいる。風が吹くと土の匂いがふわりと立ち上る。武術場の地面は固く締まっていて、走ると足の裏に硬い振動が伝わってくる。
走り込みの速度計測。
凌が飛び出した瞬間、朔は凌の足が地面を蹴る音の鋭さに目を瞠った。同期三十人のなかで、その音だけが違う。地面を踏むのではなく、叩きつけるような走り方だった。腕の振りが大きく、体全体が前に倒れ込むように加速していく。あっという間に前を走る同期を抜き去った。
同期最速だった。二番手との差が、見た目にも歴然としていた。
受け身の試験。日下部訓導が一人ずつ胸を突いて崩し、転がり方を評価する。
朔は押された瞬間に力を抜いた。背中を丸めて、肩から地面に入り、体を回転させて立ち上がる。何も考えなくてもできた。父の鍛錬で何度も吹っ飛ばされた体が覚えている動きだった。
日下部訓導が一瞬だけ眉を上げたのを、朔は見なかった。
二人一組の基礎組手。
凌が相手と組んだとき、力の差が明らかだった。凌の腕は同期の体を簡単に押し崩す。勢い余って相手を吹き飛ばしそうになり、日下部が「加減しろ、久我崎!」と声を飛ばした。凌は唇を歪めて「やってるっすよ」と返した。それでも次の一手は心持ち力を緩めていた。
善次郎の組手を、朔は少し離れた場所から見ていた。
善次郎は攻めなかった。相手が打ち込んでくるのを、分厚い腕で受け続ける。一撃も通さない。かといって自分からは仕掛けない。相手が疲れて手を止めてもまだ動かない。
蓮の組手は、きびきびとした動きだった。飛び抜けた力はないが、足捌きに無駄がなく、相手の腕をさばく手つきに迷いがなかった。突出しないが、どこにも穴がない。
——実技は凌が圧倒的だった。走りも組手も、同期のなかで別格だった。
けれど一年次の実技は全体の三割しかない。座学が七割。凌がどれだけ武術場で圧倒しても、数字の壁は超えられない。
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翌日。
序列発表の日が来た。
大広間にもう一度、同期三十人が集まっている。昨日と同じ板敷きの床。同じ柔らかな空気。けれど今日は空気の質が違った。誰も口を開かない。三十人が正座して、前方を見ている。
秦訓導が巻物を広げた。その横に厳島寮長が立っている。
「これより、一年次の年次序列を発表します」
秦訓導の声が大広間に響いた。普段の柔らかい調子はそのままだが、今日は一語ずつ区切るように発音する。
最下位から。
名前が一つずつ呼ばれていく。呼ばれた生徒が小さく息を吐いたり、唇を噛んだりする。大広間の沈黙の中に、名前だけが落ちていく。
朔は自分の呼吸に耳を澄ませていた。名前が下から順に減っていく。十五番目が過ぎた。二十番目が過ぎた。
善次郎の名前が呼ばれた。
上位だった。善次郎は微動だにしない。呼ばれる前と同じ姿勢で正座している。瞬きすらしない。壁のように、ただそこにいた。
名前がさらに減っていく。
凌の名前が呼ばれた。
朔の視界の隅で、凌が身じろいだ。呼吸が一瞬止まったのがわかった。凌の目が前方の巻物を見ている。——まだ、名前が残っている。まだ上がいる。凌の唇がきつく引き結ばれた。
朔の名前が呼ばれた。
立ち上がりはしない。ただ頷いた。静かに、淡々と。自分の立ち位置を確認するように。
残っているのは一人だった。
大広間が、息を止めた。
「——葛葉蓮」
秦訓導の声が最後の名前を読んだとき、三十人の視線がひとりの背中に集まった。
蓮が立ち上がった。躊躇いなく前に出る。小さな体が、大広間の正面に立つ。
厳島寮長が歩み出た。蓮の苗札を手に取り、一瞬だけ表面の名前を確認する。そして壁の方を向き、空欄の木札を取り上げた。
墨を含ませた筆が木札の上を走った。
静かな音がした。墨が木に沁み込む、ごく小さな音。大広間のどの音よりも鮮明に聞こえた。
「本年の初穂——葛葉蓮」
厳島寮長の声は穏やかだったが、大広間のすみずみまで届いた。木札が壁に掛けられる。歴代の札の列の一番下に、新しい墨の黒が加わった。
蓮は前に出たまま、笑っていた。あの明るい笑顔だった。少しだけ照れたように首を傾けて、同期たちの方を見ている。
拍手はなかった。歓声もなかった。序列は事実であって、祝うものでも嘆くものでもない。三十人がただ結果を見つめている。朝の柔らかい光が窓から差し込んで、蓮の肩と、壁に掛けられたばかりの木札を同じ色で照らしていた。
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大広間を出たとき、凌はもう歩き出していた。
朔は凌のすぐ後ろを歩いていた。同じ出口から出て、同じ廊下に入った。廊下には風が通って、柱の木目に淡い陽光が差している。
凌の右手が拳を握っていた。
朔はそれを見た。指の関節が白く浮き上がるほど、強く握りしめている。ただそれだけだ。凌は何も言わない。舌打ちもしない。振り向きもしない。拳を握ったまま、武術場の方へ歩いていく。背中が大きくて、少し早い足取りだった。
——蓮が初穂で正しい。
朔は自然にそう思った。評価の仕組みを考えれば、これは当然の結果だ。筋道は明快だった。
凌の握りしめた手が、視界から遠ざかっていく。武術場の角を曲がって、見えなくなった。
朔は自分の手を見た。指には力が入っていなかった。悔しさ、という気持ちを探してみたけれど、見つからなかった。蓮が一番で、自分が二番。事実をそのまま受け取っているだけだった。
それは理屈であって、心の動きではなかった。
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帰り道。
武術場の横を通りかかったとき、朔は足を止めた。
凌がいた。
序列発表のあと、凌は武術場の方に歩いていった。素振りでもしているのだろうと思っていた。けれど凌は素振りをしていなかった。
武術場の脇、棒立ての傍らに座り込んでいた。背中を棒立てに預けて、膝の上に巻物を広げている。里史の巻物だった。夕暮れの橙色の光のなかで、凌の赤銅色の目が文字の上を動いている。
序列発表の日に——もう、来年の準備を始めている。
朔はしばらくそこに立って、凌の姿を見ていた。太い指が巻物の端を押さえている。風が吹くとはためきそうになるのを押さえる指に、鍛錬で固くなった皮の厚みがあった。さっきまで白く握りしめていたのと同じ手だった。
凌が顔を上げた。朔と目が合った。
「……やめろ。見んな」
低い声だった。照れているのか怒っているのか、判別しにくい。巻物を体で隠すように身を寄せて、朔から見えないようにする。
「何も言ってない」
朔はそう返した。
凌は紙面を押さえたまま、顔を背けた。
「……うるせぇ」
誰にも聞かせるつもりのない声だった。けれど朔の耳には届いた。
朔はそのまま歩き出した。凌の前を通り過ぎて、帰り道に戻る。背中の後ろで、紙がかさりと鳴った。凌がまた文字を追い始めたのだろう。
朔は口の端が上がるのを自分で感じた。嬉しいとか、面白いとか、そういうはっきりした気持ちではなかった。ただ凌があの巻物を広げていた。序列発表の日に、もう次のことを始めている。それが——なんだろう。うまく言葉にならなかった。
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庭の若葉が目に飛び込んできた。土御門家の門をくぐった途端、枝のあいだから春の空が透けて、淡い青がどこまでも高く広がっていた。
篝の部屋は薄暗かった。
季節の変わり目は、篝の調子が崩れやすい時期だった。気候が定まらない春先は、褥から起き上がるのが辛い日が多い。朔が障子を開けたとき、篝は褥に横になっていた。掛け布に埋もれるように体を丸めて、顔だけがこちらを向いている。
頬から血の気が引いていて、枕に沈んだ横顔がいつもより幼く見えた。指先が掛け布の端を握っているが、力が入っていないのが分かった。
けれど目は開いていた。朔が入ってきたのを見て、目にかすかな光が宿った。
「おかえり、さくにぃ」
声が小さかった。体調の悪い日の篝の声は、弾まない。平らで、少しかすれている。
「ただいま」
朔は篝の枕元に座った。水差しから湯呑に水を注いで、篝の手の届くところに置いた。篝はそれに目をやったが、まだ手を伸ばさなかった。
「今日、試験の結果が出た」
朔がそう言うと、篝が掛け布の中から少しだけ体を起こした。片肘をついて、朔の顔を見上げる。
「何番だったの?」
「二番だった」
篝の目が大きくなった。唇が薄い血色のまま、ゆっくり笑みの形を作った。
「二番! すごいじゃん!」
声に力が入った。体調の悪い日でも、篝が嬉しいときは声が跳ねる。掛け布から手を出して、朔の手をぽんと叩いた。冷たい指先が朔の手に触れた。
「蓮が一番だった」
篝が目を瞬いた。
「蓮ねぇが? ……蓮ねぇすごいね」
それから朔を見て、微笑んだ。
「でも、さくにぃも二番はすごいよ」
「……うん。蓮が一番で正しいと思う」
篝の笑みが一瞬止まった。首を小さく傾げた。「正しい」という言い方に、何か引っかかったのかもしれない。だが篝はそれ以上追わなかった。朔を見て、もう一度「すごいよ」と繰り返してから、ゆっくり褥に体を沈めた。
「……蓮ねぇにも、おめでとうって言っといてね」
「うん」
篝が目を閉じた。呼吸がゆっくりになっていく。体調の悪い日の篝は、少し話すだけで眠くなる。朔は篝の手の近くに自分の手を置いた。篝の冷たい指先が、朔の指に触れてかすかに動いた。
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その夜。
褥の中で目を閉じても、眠りは来なかった。
蓮が初穂で正しい。
そう思っている。理屈として揺るぎなく、反論の余地はない。
凌の拳が、まだ目の裏にあった。
あの白さが消えない。そしてあの巻物だ。序列発表が終わったその日のうちに、里史の巻物を広げていた。言葉にしなかった。だが行動そのものが、凌の答えだった。
朔はそのことを考えた。
凌の拳が白かった理由。それは——序列が凌にとって数字ではなく、勝ち負けだったからだ。蓮が一番だったことは、評価比率の帰結ではなく、自分が届かなかったという事実だった。だから拳を握った。だから巻物を広げた。
しかし。
朔自身は悔しくなかった。二番目だったことに対して、胸の中に何か軋むものがない。蓮が一番で当然だと思っただけで、それ以上の何かが浮かんでこなかった。頭の中で整理がついた瞬間に、すべて終わっていた。凌のように拳を握る理由が、朔のなかにはなかった。
それでいいのだと思う。道理に合っているのだから。
けれど凌のあの拳は——理屈では届かない場所にあった。
悔しいから握る。それは分かる。では、なぜ悔しいのか。結果が妥当であっても、悔しがるのは理屈に合わない。でも凌はあんなに強く拳を握りしめていた。あの力は、筋が通るとか通らないとかとは別の場所から来ていた。
朔は目を閉じた。
凌はきっと、久我崎家の自分の部屋で、灯りの下で今もあの巻物を広げているだろう。鍛錬で固くなった指で紙面を押さえて。
蓮が初穂で正しい。それは変わらない。
——でも、凌の拳が白かった。
それだけが、きれいに片づかないまま、朔の胸の底に沈んでいった。




