2話 : 父の背中
夕暮れの屋敷は、朝とは違う匂いがする。
結界が夕陽を受けて、溶けた金属のように燃えている。六角の網目が一枚一枚くっきりと浮かび上がり、怪異たちの影が逆光で結界の内側に落ちていた。
——父上は、まだ帰ってこない。
朝に見た帰還部隊の光景が、まだ目の裏にこびりついていた。ぼろぼろの装束。体に浮かぶ黒い紋様。担架の上で動かない人影。あの門を開けて、閉じて、結界を維持し続けているのが父だ。朔は台所から漏れてくる母の夕餉の支度の音を聞きながら、石段に両手を置いて西の空を見ていた。
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門戸の軋む音がした。
朔は立ち上がる前に、足の裏で振動を感じた。玄関口に近い廊下の板が、重い足取りに合わせてかすかにきしんだ。一歩、一歩、ゆっくりと。
「——父上」
渡廊下を小走りに駆けて玄関口に回ると、脱ぎかけの草履を踏んだまま上がり框に腰を下ろしている父がいた。
土御門基。鎮護寮の浄衣は朝と同じように白かったが、袖口と裾にうっすらと土埃がこびりついている。帯の結び目がわずかに左にずれていた。基はそういうことを許さない人だから、それだけで今日一日がどれほど過酷だったかを物語っていた。
「おかえりなさいませ、父上」
基は顔を上げた。鋭い漆黒の目が朔を捉え——ふっと、わずかに目尻の力が抜けた。威圧が消えたわけではない。基の目はどこにいても人を射竦める鋭さがあったが、家族に向けるときだけ、その鋭さの底にほんの一握りの温もりが滲むのだ。
「——ああ」
それだけだった。一言で帰還を告げ、基は草履を揃えて廊下に上がった。背筋は伸びている。崩さない。けれど朔には見えた。立ち上がるとき、右の膝にほんの一瞬だけ力を入れ直したのが。
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「お帰りなさい、あなた」
台所から瑞の声が流れてきた。穏やかで、けれどどこか芯のある声だった。基は「ああ」とだけ返し、着替えのために奥へ向かう。その背中を見送りながら、朔は黙って台所口に戻った。
「朔、手を貸してくれますか。膳を運んでちょうだい」
「はい、母上」
粟粥を炊いた土鍋から立ちのぼる湯気が、狭い台所を白く曇らせていた。根菜を刻んだ味噌煮えの鉢が二つ。干し魚を焙った小皿。漬物。品数は少ないが、瑞の手にかかると質素な配給がきちんとした膳になる。
朝餉は粟粥だけだった。夕餉にこれだけ並ぶのは、基が帰る日だからだろうか——と、朔はちらりと思った。
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家族が揃った。
基が寛いだ直垂に着替えて座敷に現れると、すでに要が膳の前に正座していた。教導寮から戻ったばかりだろう、鍛錬着のまま汗の匂いがかすかに漂っている。要は基に向き直り、「おかえり、親父」と短く言った。基は無言で頷いてから、要の隣に腰を下ろした。
朔は基の向かい、篝の分の膳が据えられた隣に座った。今日の夕餉には、篝は起きてこなかった。昼過ぎから少し熱が出て、瑞が粟粥を匙で運んでやり、宵の前に眠りについたらしい。篝の膳には小さな粥椀だけが、布を掛けられたまま冷めかけている。
「天地の恵みに」
基の低い声に唱和してから、箸を執る。しばらくは静かに粟粥を啜る音だけが座敷に満ちていた。
やがて、要が箸を置いた。
「親父。今日の門は——何かあったか」
基は粥椀を静かに下ろして、要を見た。
「なぜそう思う」
「帰りが遅かった。それと——帯が曲がっている」
基はちらりと自分の帯に目をやり、何も言わずに直した。要を見、それから朔にも視線を向けた。
「朔も聞いておけ」
朔は背筋を伸ばした。
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「今朝の門は——少し難しかった」
基の声は低く、一言一言が重い。余計なものを全てそぎ落とし、残った核だけを口にする——そういう話し方だった。
「開門は予定どおりだ。東の外采班が帰還する。索敵で門前に雑妖の塊を確認した。排撃波で散らし、門を開けた」
そこで一度、箸を取って干し魚をひと口食む。要も朔も黙って待った。
「問題はそのあとだ。穴を開けた瞬間に、骸狗が三体、影から飛び出してきた」
朔の頭に、今朝高台から見た風景が蘇った。灰色の霧の奥を走り回っていた、首のないあの獣。
「排撃で散らしたはずだったが——裏に潜んでいた。門前の掃除をすり抜けて、穴が開く瞬間を待ち構えていたように突っ込んできた」
要が眉をひそめた。
「……待ち伏せか」
「骸狗は知恵が回る。嗅覚で門の位置を覚えている」
基はそう言って粥をもうひと口啜り、続けた。
「帰還班のしんがりが応戦し、門番が閉門まで持たせた。最後の一体が門口に残ったまま閉門した。結界に挟まれて焼けた——が、門柱の要石に負荷がかかった。ひびが一筋増えた」
淡々とした報告の声がそのまま続いた。しかしその声の底に、朔は重いものを感じていた。
「一日に門を開けられるのは二度が限りだ」
基は朔に向けて言った。噛み砕いている。四歳の息子にわかるように。
「一度の開閉で、門番は十人がかりでな——全員が歯を食いしばって結界の網目を力で引き剥がす。体の中の力を四割から六割、一度で持っていかれる。私は門全体を統べる。直に結界を引き剥がす門番とは役割が違うから、消耗は二割から三割だ」
「……毎日、ですか」
朔の声がわずかに震えた。
朔は自分の手を見た。庭先で小壁を張ろうとして、指先に法力を集めただけで体の芯が引っ張られたあの感覚を思い出す。あれだけで——あれだけで、へとへとになったのだ。
基は頷いた。
「毎日だ」
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要が話を続けた。
「その——穴が開いた瞬間、何が入ってくる? 門が閉まるまでの間、怪異だけじゃなく——穢れも入ってくるのか」
基の目が一瞬だけ鋭くなり——すぐに緩んだ。質問を認めている目だった。
「入る」
基は漬物をひと切れ口に運びながら、言った。
「穴が開いた瞬間、外からの風が吹き込む。穢れの匂いがする風だ。腐った果実のような——焦げた骨のような。大人でも一瞬、息を止める」
朔は今朝を思い出した。高台にまで微かに届いたあの濁った匂い。あれが門のすぐそばでは、もっとひどいのだろう。
「穢れとは何か——朔、お前はどこまで知っている」
急に問われて、朔は少し考えてから答えた。
「怪異のからだに触ると、黒い模様が出る——と母上から聞きました。近づいてはいけない、と」
基は頷いた。
「それだけではない。怪異の体に触れずとも、怪異がいる場所に近づくだけでも、穢れは人の体に入り込む。風に乗る。空気に溶ける。毒のように体を蝕んでいく」
基は要を見た。
「結界がある。だから里の中の穢れは、普通の人間にはまったく害のないほど薄い。だが——穴を開ければそうではなくなる。門を開けるたびに、外の穢れが一時的に里へ流れ込む。だからこそ門の周りは禁域で、一般の者は近づけない」
基はそこで箸を置いた。満腹ではなく、話に集中するために。
「結界が穴だらけでは里は成り立たない。一日二度の門開閉でさえ、穢れの侵入を完全には防げない。浄域膜がろ過して、ようやく里全体が安全圏に保たれている」
「……浄域膜」
朔は呟いた。父が張る結界の、最も内側の層。目には見えないが、朔にはかすかにわかるあの——篝の部屋を包んでいる、土の匂いがする膜と同じもの。
「普通の人間には問題がない程度まで抑えている」
基はそう言い切った。
——普通の人間には。
朔の視線が、布を掛けられたままの篠の膳に向かった。冷めきった粥椀。手つかずのまま。
何か言いかけて、朔は口を閉じた。問いの形にもならない違和感だけが、喉の奥に残った。
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夕餉のあと、基は要との話を続けていた。結界の要石の配置、鬼門方向の格子密度、門柱の法石の劣化。朔はその会話の端々を聞き取りながら、自分の膳を片づけていた。
「朔」
基の声が飛んだ。朔は手を止めて振り向く。
「篝に水を持っていけ。——白湯がいい」
「はい」
瑞が台所で温めていた白湯を小さな土瓶に移し、朔は篝の部屋に向かった。
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渡廊下は暗かった。灯は台所と座敷にしかない。秋の宵の空気は昼の名残をすべて失って、裸足の足裏を冷たく刺した。
結界の輝きは薄れていた。日が沈むと、あの金色の光は消え、代わりに北西の方角、外采門があるあたりで、要石が脈動する琥珀色の灯りだけが、星空の手前に薄く重なって見えた。鎮護寮の交代の術者たちが、たった今も結界に法力を注ぎ続けている。父が帰宅したあとも、あの壁は一瞬たりとも休まない。
篝の部屋に入ると、朝に運んだ手桶はもう空だった。枕元の小卓に土瓶を置き、褥のそばにしゃがみ込む。
障子の隙間から差し込む月明かりが、篝の頬を細く照らしている。唇は朝より少し血の気が薄い。
父の法力が、この部屋を包んでいる——今夜はその重みが、朝とは違って感じられた。里全体の結界に加えて、篝のためだけに張られたもうひとつの壁。その維持がどれほどの法力を削るのか、今夜の食卓で聞いた話のあとでは、朔には前よりもずっと重く迫ってくる。
——なのに、篝は今日も熱を出した。
普通の人間には問題のない穢れが、篝の体には届いている。結界が二重に守っても、それでもなお。
朔は自分の手のひらを見た。まだ朝の井戸の縄の跡がうっすらと残っている。小さな手だった。水を汲むのがやっとの手。
——父上は結界で里全体を守っている。
——僕は——この手で、篝のための結界を張れないだろうか。
まだ法力をまともに練ることもできない。指先に膜を張ることさえ覚束ない。けれど父がやっていることを、ほんの少しでも——篝の周りの空気から穢れを防ぐ壁を、自分の手で編めたら。
漠然とした夢だった。具体的な方法も、道筋も、四歳の少年には何ひとつ見えていない。
ただ、今夜の食卓で聞いた言葉のすべてが、父の帰宅時の背中と結びついた。
父は崩れない人だ。——あの父が、崩れかけている。
それが結界の重さだった。
朔は篝の褥のそばに両手を揃えて置き、頭をかすかに下げた。眠る妹への声なき約束の形で。
言葉にはしなかった。まだ何も言えるほど大きくない。けれどこの夜、父の背中の重さを知ったことが、胸の底に落ちていた朝の種を、もう少しだけ深い場所へ沈ませた。
渡廊下に戻ると、座敷からまだ基と要の低い話し声が漏れていた。
結界の格子密度の話をしているらしい。数字と用語が断片的に聞こえてくる。
朔はしばらく、暗い廊下に立って、その声を聞いていた。
秋の夜空に、琥珀色の脈動がかすかに明滅している。結界は今夜も震えていた。外から押し寄せるものを、ひとときの休みもなく跳ね返し続けて。
そしてその壁を支える父の背中を——朔は今日、ほんの少しだけ近くで見た。
小さな手を握った。




