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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:2幕

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28話 : いなくなった人

 春が来ていた。


 大楠が新しい芽吹きをはじめた朝、朔は教導寮の門をくぐった。冬のあいだ裸だった枝に、若い葉の淡い緑が風に揺れている。空は高く澄んで、風は冷たさを残しながらも、どこか柔らかい。陽光が地面の霜を溶かしはじめ、湿った土の匂いが足元から立ち上っていた。


 去年の春もこうだった。初めてこの門をくぐった日も、大楠の青い花を見上げた。あのときは知らない場所に足を踏み入れる高揚があった。今はもう、ただいつもの朝だった。


 けれど、何かが違う。


 朔は中庭に目をやった。大楠の根元のそばに、去年の春にはなかった花が咲いている。白い小さな花が群れをなして、朝の風にゆるやかに揺れている。去年と同じ春で、去年と違う春だった。ひとつ年が巡って、木も人もほんの少しだけ変わっている。


 昼餉の大広間に入ると、冬とは空気が違った。閉め切りだった高窓が少しだけ開けられ、春の風が大広間を渡っていた。風に乗って若草と湿った土の匂いが流れ込んでいる。配膳台で碗を受け取り、列に並ぶ。


 席についたとき、ふと前方に目をやった。


 上級生の卓に、空席があった。


 入学の日に汁をよそってくれた先輩の席。秋の畑で隣にしゃがんで作業してくれた先輩の席。年越しの門で「帰ってこいよ」と言った先輩の席が——空いている。


 朔は箸を止めた。


 空席の横で、上の学年の生徒たちが普通に汁を啜っている。晶先輩がいた場所に誰かが座っているのではなく、ただそこが空いている。卒業した上級生が何人かいるのだから、卓に空きができるのは当然のことだった。


 「先輩の仕事なんだ」


 あのときの声が、朔の中で小さく響いた。もうあの声は、この広間にはない。


 朔は粟粥をひと口含んだ。菜の花のわずかな苦みが舌に広がった。冬より温かい。冬より少しだけ色がある。けれどその温かさが、なぜか胸をかすかに冷たくした。


---


 帰り道。


 教導寮の門を出て、いつもの道を歩いていたとき、朔は足を止めた。


 帰り道はふたつに分かれる。左にまっすぐ行けば土御門家への道だ。右に折れると、里の北を回って鎮護寮の方角へ向かう。朔はいつも左に行く。けれど今日は——右を見ていた。


 晶先輩は鎮護寮に配属されたと聞いた。同期が言っていた。「比良坂先輩、鎮護寮だって。すごいね」と。抜穂の儀を終えて、正式に任に就いたのだと。


 会いに行こう、と思った。特に用事があるわけではなかった。ただ、会いたかった。帰ってこいよと言った先輩に、帰ってきてますと伝えたかったのかもしれない。それすらもうまく言葉にできなかったけれど。


 鎮護寮は里の北西にあった。結界の維持を司る場所であり、父・基の職場でもある。朔は以前、父に連れられて結界の際を歩いた帰りに、鎮護寮の門の前を通ったことがあった。白い壁に囲まれた静かな建物で、警備の人が門の前に立っていた記憶がある。


 帰り道を少し遠回りして、鎮護寮の前までやってきた。


 白壁は記憶のまま、春の陽を受けて眩しかった。門の脇に番の男性が一人立っている。朔は一歩近づいて、頭を下げた。


 「あの、比良坂晶さんに会いたいのですが」


 番の男は朔を見下ろした。六歳になったばかりの子供が一人で来ていることに一瞬眉を動かしたが、すぐに淡々とした表情に戻った。


 「比良坂は見習いで外に出ている。いつ戻るかは分からない」


 外に出ている。


 その言葉を、朔は静かに受け取った。


 「……そうですか。ありがとうございます」


 もう一度頭を下げて、朔は踵を返した。


 歩き出しながら、胸の中で何かがゆっくりと沈んでいくのを感じた。いるはずの場所に行って、いなかった。それだけのことだ。


 先輩はもう教導寮の生徒ではなく、里のために働く大人になった。忙しいのだ。いつか会えるだろう。里はそう広くない。


 朔は空を見上げた。高い春の空に、薄い雲が流れている。会えなかった——それだけが、小さな石のように胸の底に残った。


---


 数日後。昼餉を終え、他の生徒たちが帰途につく時間。


 善次郎はいつもの場所にいた。中庭の壁際、武術場が見える位置。壁に寄りかかるでもなく背筋を伸ばして立ち、武器掛けの方を見ている。いつもと同じだ。春の陽が善次郎の焦げ茶の短髪と分厚い肩を照らし、影が真下に短く落ちていた。


 朔は中庭を横切りながら、善次郎の横を通りかかった。何も言わずに通り過ぎようとした。いつものように。


 けれど今日は善次郎の目がどこか違った。


 武器掛けを見ているはずの視線がほんのわずかにぶれている。目は確かに棒立ての方を向いているのに、その奥にあるものを見ていないような、焦点が少しだけずれた目だった。


 朔はそれに気づいたが、足を止めなかった。善次郎の前を通り過ぎて、渡り廊下に入った。


 ——何かあったのだろうか。


 そう思いかけて、その疑問は胸の奥にしまった。善次郎は何も言わなかった。何も聞かれなければ、何も聞かない。それが朔にとって自然なことだった。


---


 善次郎が見たのは、昼餉の直前だった。


 座学棟の裏手を通りかかったとき、人気のない場所に二つの影が見えた。


 上の学年の男の子が座り込んでいた。地面に膝をつき、両手で顔を覆っている。声を殺して泣いていた。嗚咽が漏れないように歯を食いしばっているのが、背中の震え方でわかった。


 そのそばに訓導が一人立っていた。静かに待っている。何も言わず、ただ生徒のそばにいる。


 善次郎は足を止めた。


 見た瞬間に分かった。あの順序だ。


 苗札が朽ちて——報せが来て——遺された家族が泣く。そしてそのうち、母がそこへ花を持っていく。善次郎の体には、その順序が染みついている。近所の「帰ってこなかった家」で何度も見てきた流れだ。


 あの上級生の父が、遠征から帰ってこなかった。


 苗札はいま頃灰色に変わっているのだろう。上級生の父がどこの班で、どういう任務で、どの怪異にやられたのか——善次郎は知らない。知らなくても分かる。帰ってこなかった。それだけで十分だった。


 善次郎は近づかなかった。


 何を言えばいいのか分からなかった。「大丈夫だ」とは言えない。大丈夫ではないのだから。「辛いな」とも言えない。辛いかどうかは、あの上級生にしか分からない。善次郎に言えることは何もなかった。


 母の顔が浮かんだ。


 花を持って帰った帰り道、善次郎がまだ家にいると思っていた母の肩が——小さく、震えていた。家に入ってからは何事もなかったように台所に立って、夕餉の支度を始めた。ただ善次郎の前では、絶対に泣かない。どんなに近所の子供が泣いていても、どんなに遺された母親が泣いていても。善次郎の前では、母は母でいた。


 あの肩の震えを思い出すたびに、善次郎の胸の奥に詰め込まれた何かが軋む。それを表に出す方法を、善次郎は持っていなかった。


 善次郎は踵を返した。


 座学棟の角を曲がって、何もなかったように中庭に向かった。武器掛けの見える場所で足を止めて、いつもの定位置に立った。


 何もできなかった。何もしなかった。それは善次郎にとって——「受けた」ことにすらならなかった。ただそこにいて、何もせずに去った。壁は何かを受け止めるためにある。けれど今の善次郎は、受け止めるべきものの前から退いた壁だった。


---


 その日の夕暮れ。


 朔は古い書物を調べるため座学棟に残り、遅い帰り道となっていた。武術場の棒立てのそばを通りかかると、善次郎が一人で素振りをしていた。なぜ善次郎がこの時間まで残っているのかは分からない。


 日が傾きかけた時刻で、春の陽がやわらかな橙色に変わっている。影が長く伸びて、地面に善次郎の型の軌跡を描き出していた。腕の太い影が振り下ろされ、また振り上がる。その繰り返しが地面の上で揺れている。


 善次郎の素振りの音なら、普段の下校時にも聞いている。鋭く風を裂く音が、間隔を置いて繰り返される。


 今日は——速かった。


 いつもの善次郎の素振りは、ゆっくりと重い。一振りごとに型を確かめるように、落ち着いた呼吸の中で棒を動かす。速さより正確さを重視した、受けに徹した動きだ。


 けれど今日の素振りは、間隔が短い。振り下ろしから次の振り上げまでの時間がいつもより詰まっている。力が入っている。棒が空を切る音が鋭い。振りの合間に聞こえる息の音で、善次郎の呼吸がいつもより浅いことが分かった。


 朔は足を少しだけ遅くした。


 いつもなら善次郎の横を通り過ぎるのに五歩ほどの間だった。今日はそれを七歩にした。歩幅を狭めて、善次郎のいる空間を少しだけ長く共有する。


 理由は分からなかった。善次郎に何かあったのかもしれないし、なかったのかもしれない。朔に分かるのは、素振りの速度がいつもと違うということだけだった。それが何を意味するのかは分からない。聞くつもりもなかった。


 善次郎が朔に気づいたらしいことが、素振りの角度のわずかな変化で分かった。善次郎もまた何も言わなかった。


 朔が通り過ぎた後も、素振りの音はしばらく続いた。ひゅっ、ひゅっ、と速く鋭い音が、春の夕暮れの空気に刻まれていく。朔は振り返らなかった。


 道を曲がるとき、背後で善次郎の素振りの音が遠ざかっていくのが聞こえた。


---


 土御門家の門をくぐると、庭の梅がすっかり散り終えていた。その向こうに山吹の黄色い花が咲き始めている。


 縁側に、篝がいた。


 掻巻も羽織らず、薄い着物のまま縁側に腰を下ろして、山吹の花を見つめていた。足元に押し花帖が開いたまま置かれている。春の陽が篝の黒髪に淡い光の帯をつくっていた。今日は体調の良い日らしく、目に力があった。頬にもわずかに赤みがある。冬の、あの白く沈んだ顔色とは違う。


 朔が近づくと、篝は振り向かずに言った。


 「さくにぃ、山吹が咲いたよ」


 去年の春に篝が教えてくれた花だ。「山吹は雨に弱いの。でもすぐまた咲くんだよ」と笑っていた。その花が、今年もまた咲いている。


 「……うん、きれいだね」


 篝がそこでようやく朔のほうを向いた。朔の顔をしばらく見つめてから、小さく首を傾げた。


 「……さくにぃ、なんかあった?」


 何も言っていないのに、篝には分かるらしい。朔は篝の隣に腰を下ろした。


 「このあいだ、晶先輩に会いに行ったんだ。教導寮を卒業して、鎮護寮に配属されたから、帰りに寄ってみた」


 「晶先輩って、あの……さくにぃの、先輩の?」


 「うん。でも、会えなかった。見習いで外に出ていて、いつ戻るか分からないって」


 篝がわずかに目を伏せた。膝の上に置いた手が、何かに触れるように軽く動いた。


 「……寂しいね」


 篝の声は静かだった。朔が感じていながら言葉にしなかったものを、篝が先に口にした。


 「……うん。でも、見習いで忙しいんだと思う」


 「そっか」


 篝はしばらく黙って山吹の花を見つめていた。やがて顔を上げて、朔を見た。


 「また会えるよ。里は狭いもの」


 穏やかな声だった。体調の良い日の篝の声は跳ねるように明るいけれど、今は少し落ち着いた温かさがあった。まるで朔を安心させるつもりのように。春の陽が篝の横顔を照らしている。


 「……うん」


 朔はそう答えた。篝の言うとおりだった。里は広くない。いつかまた会えるだろう。晶先輩はどこかにいるのだから。


---


 その夜、朔は褥に入ってからしばらく眠れなかった。


 障子越しに月の光が薄く部屋に差し込んでいる。天井の木目が白い光の中でぼんやり浮かび上がり、微かに揺れていた。外で風が吹いているのだろう。庭の木が葉をこすり合わせる音がかすかに聞こえる。


 晶先輩の声が、まだ胸の奥にあった。


 帰ってこいよ——と言った先輩が、今はあの灰色の世界の近くで働いている。帰ってこいよと言った人が、自分でそちら側に行った。それは正しいことのはずだった。先輩は大人になったのだから。


 眠気が薄い膜のように意識を覆い始めた。遠くで鐘が鳴った気がしたが、それが本当の鐘の音なのか、眠りに落ちかける頭が作り出した幻なのか、区別がつかなかった。


 鐘が鳴っている間は安全だと、篝は言った。


 また会えるよ、里は狭いから。


 その声が朔の中でゆっくりと沈んでいく。温かくて、確かで、——けれど、どこか遠い。


 朔は目を閉じた。


 春の夜は冬より短い。窓の向こうが白み始めるまでに、それほど長い時間はない。明日もまた教導寮に行く。昼餉を食べて、帰り道を歩いて、善次郎の素振りの横を通りかかる。晶先輩はいない。けれど——それは卒業したからだ。卒業は自然なことだ。


 善次郎の素振りが速かった理由を、朔はまだ知らない。


 知らないまま、春の夜のやわらかな闇に溶けるように、朔は眠りに落ちた。


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