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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:2幕

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27話 : 年越しの門で

 冬が、里に根を下ろしていた。


 朝の教導寮には、秋の名残はもう見当たらなかった。大楠の葉は青いままだが、その周りの木々はとうに葉を落とし、裸の枝が灰色の空に骨のように伸びている。地面には霜が白く張りつき、陽が差すまでは土が凍って硬い。吐く息が白く立ち上るたびに、その先で薄くほどけて消えた。


 寒稽古が明けた朝だった。


 十日間にわたる極寒の鍛錬がようやく終わり、子供たちの体には疲労が染みついていた。手の甲は赤く荒れ、頬はかさついて、指先の感覚が鈍い。それでも今朝の中庭には、どこか浮き足立った空気があった。今日は年越しの門の日だ。


 昼餉の大広間に湯気が立ち込めていた。


 配膳台で碗を受け取り、朔は中を覗いた。粟粥は濃い仕立てだった。寒稽古明けだからか、粥の底に沈む粟の量がいつもより少しだけ多い。しかし汁物はいつもの蕪の味噌汁で、箸を入れてみると蕪の薄切りが二枚と、大根の切れ端が一つ浮いているだけだった。


 秋の芋がごろごろ入った味噌汁を思い出した。あのとき子供たちは「三つ入ってる」「四つだ」と碗を覗き込んで笑っていた。今日の碗には数えるものがない。


 朔は黙って席についた。口には出さなかった。


 少し離れた席で、晶先輩が上級生の仲間たちと話していた。笑い声が聞こえる。いつものように軽い身振りで誰かの肩を叩き、何かを言って笑っている。晶先輩はいつも笑っている人だ。けれど今の朔には、その笑っている姿が——少しだけ、遠くに見えた。


 距離が違うわけではない。席は五つほどしか離れていない。けれど入学の日に汁をよそってくれたときの、あの手を伸ばせばすぐそこにいた距離感とは、何かが違った。


 晶先輩は七年次だ。教導寮で最後の年。来年の春にはもうここにいない。


 そのことを、朔は事実として知っていた。けれど今まで一度も、それを感じたことはなかった。


---


 下校の帰り道に、遠くで鐘が鳴った。


 低く、長く、冬の空気を伝って響いてくる音だった。どこかの山の向こうから聞こえてくるような、輪郭のぼやけた音だ。重くも軽くもない、ただそこにある音。


 朔はふと足を止めた。


 隣を歩いていた同期の男の子——國見岳が、首を傾げた。


 「今の何だ?」


 朔は耳を澄ませた。鐘の音はもう一度、冬の空に染み渡るように鳴り、やがて静かに消えていった。浄身院のある方角からだった。


 「帰ってきた人がいるんだと思う」


 朔がそう答えると、岳は「ふうん」と首をひねりながら歩き出した。


 あの鐘は、外界に出ていた外采使が帰還したときに鳴るのだと、以前どこかで聞いた気がする。帰ってきた人が禊を受けるとき、浄身院の鐘が鳴る。穢れを祓い、無事に里に戻ったことを知らせる鐘。


 鐘の音が空に溶けた後も、その余韻がしばらく耳の奥に残っていた。冬の空は高くて冷たくて、鐘の響きを呑み込んだあとは白い静けさだけが残っていた。


---


 夕刻、年越しの行事のために再び教導寮に集められた生徒たちは、全校揃って結界の門へと向かった。


 教導寮の門を出て、里を北西に向かって歩く。日が傾き始めた空は灰白の雲に覆われ、空気は冷たく澄んでいた。吐く息が白く立ち上る中を、一年次から七年次まで、訓導に引率されて列をなして進む。


 里の北限に近づくにつれて、空気が変わった。


 結界の際が近い。肌の上を流れる空気に、微かな重みが混じり始める。それは結界そのものの気配だった。父に連れられて結界の際を歩いた日のことを思い出した。あのときも、同じ重みを感じた。結界が必死に何かを押し返している、あの目に見えない力のざわめきだ。


 門が見えた。


 結界の門は里の北端にあった。普段は閉ざされたまま、里の端を示す境界として静かに佇んでいる。門の両脇に松明が立てられ、揺れる炎が子供たちの顔を赤く照らしていた。灯りの届く範囲だけが温かく、その先は冬の闇に沈んでいた。


 生徒たちが門の前に並ぶ。前列に七年次、後列に一年次。朔たち七級童は一番後ろだった。背伸びをしても、前に並んだ上級生たちの肩越しにしか門の向こうは見えなかった。取り乱す下級生が出ないよう、各列の側面には見守り役の上級生が等間隔で立っている。朔たちの列には、晶先輩がついていた。


 鎮護寮の結界担当者が門の前に立った。白い浄衣を纏った壮年の男性で、声は低く、冬の空気を裂くように通った。


 「この結界の向こうには、お前たちが知らない世界がある。色のない世界だ。穢れの海だ。——この結界が破れたとき、お前たちの後ろには何もない」


 子供たちの間にざわめきが走った。


 担当者が印を結ぶと、門の結界がわずかに薄くなった。光の膜のようなものが揺らぎ、そこから外の気配が流れ込んでくる。


 朔は目を凝らした。


 灰色だった。


 あの日——父の庭の敷地結界から初めて外を見た日に見た、同じ灰色の世界が、そこにあった。あのときは遠かった。庭の縁から結界越しに、はるか向こうに見えるだけの景色だった。けれど今は、すぐそこにある。手を伸ばせば触れられそうなほど近い。


 空も地面も木も、すべてが灰色の靄に呑まれている。境界の向こうでは風も吹いていないように見えた。けれど——空気が違う。風ではない。何か重いものが肌に張りつくような感覚。結界の中にいるのに、その重さがわずかに沁み込んでくる。手のひらが冷たくなった。寒さとは違う冷たさだった。


 同期の誰かが、小さく息を呑んだ。


 隣を見ると、下級生の何人かが唇を噛んで俯いている。一人は目を閉じていた。その隣の子は目を逸らすことすらできず、灰色の闇に吸い込まれるように見つめ続けている。


 凌は前を見ていた。顎を引いて、目を細めて、灰色の向こうを睨むように見据えている。足は一歩も動いていなかった。


 善次郎はいつもの壁のような立ち方で動かなかった。両足を肩幅に開いて、腕を脇に下ろしたまま、まっすぐ前方を見ている。怖がっているわけでもなく、力んでいるわけでもない。ただ——立っている。


 蓮はきょろきょろと左右の子供たちの顔を見ていた。怖がっている子がいないか確かめるように。それでも視線を外の闇から逸らしはしなかった。


 郁は——鳴弦の頭を撫でていた。肩に止まった小さな鷹の羽が逆立っている。いつもは穏やかに畳まれている羽が開いて、体が小さく震えていた。郁はその羽を指先で何度も撫でていた。鳴弦を落ち着かせるように。あるいは、自分を落ち着かせるように。


 遠くで浄身院の鐘が鳴った。


 帰り道で聞いたのと同じ鐘の音だ。しかしここでは、鐘の響きが心許なく感じた。里の中ではあんなに自然に空に溶けていた音が、結界の門の前では頼りなく、どこか震えているように聞こえた。灰色の闇を前にして、鐘の音だけが里の方から届いている。


---


 子供たちの中で、晶だけが違う表情をしていた。


 朔は列の側面に立つ晶の横顔を見た。松明の灯りが晶の頬を赤く照らし、反対側の顔は暗い影に沈んでいる。明と暗がちょうど半分ずつに分かれた横顔だった。


 他の子供たちは怖がったり、興奮したり、隣の誰かと何かを囁き合ったりしていた。けれど晶は——黙って外を見つめていた。声を出すことも、体を揺らすことも、誰かに話しかけることもなく、ただ灰色の向こうを見ている。


 その目を、朔は知っている気がした。


 父が結界の巡回から帰ってきた夕刻の顔だ。渡り廊下を歩いてくる父の足取りは変わらないのに、肩の線に重さが乗っていて、目の奥に疲労ではない何かを抱えていた。何かを背負っている人間の目。見てきたものの重みを消化しきれないまま、それでも足を進めている人間の目。


 晶先輩の目にも、今、同じものがあった。


 でもそれは、五歳の朔には——言葉にならなかった。晶先輩は卒業が近いから、何か思うところがあるのだろう。それくらいのことしか考えられなかった。あの目の奥にあるものが何なのか、朔にはまだ見えない。


 晶が朔の視線に気づいた。


 振り向いた顔は、いつもの笑顔に戻っていた。前に見ていたものを、表情で覆い隠すように。


 「どうした。怖いか?」


 「いいえ」


 晶が笑った。口元だけでなく、目尻の皺まで動いた笑い方。


 「嘘つけ。俺は初めて見たとき怖かったぞ」


 それだけ言って、晶は前を向いた。灰色の闇の方へ。さっきまでとは違う顔——笑った後の、柔らかい表情のまま、外を見つめていた。二つの顔が重なって、どちらが本当なのか分からなかった。


---


 年越しの行事が終わり、門の結界が再び厚くなった。


 灰色の重さが押し返され、門の向こうが見えなくなっていく。子供たちの間から、ほっとしたような溜め息が漏れた。上級生たちは平気な顔で並び直し、訓導の指示に従って帰路につき始めた。


 子供たちがぞろぞろと歩き出す中、朔は少し遅れて歩き出した。一番後ろだ。


 外の闇はもう見えない。結界が元通りに厚くなったはずなのに、掌にあの重さが残っている気がした。灰色の何かが指先に沁みて、まだそこにある。歩きながら手を開いて見つめた。何もない。霜の冷たさが戻っているだけだ。けれど——あの空気の重さを、体が覚えている。


 「朔」


 振り向くと、晶が立っていた。


 列の警護で後方に下がってきたのだろうか。いつの間にか背後にいて朔の横に並び、遠ざかっていく門の方を振り返っている。門はもう閉じている。その向こうの灰色の世界は、もう見えない。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


 松明の火が風に揺れて、地面に落ちた二人の影を伸ばしたり縮めたりした。冬の夜の匂いがした。霜と、松明の樹脂と、結界の際特有のあの微かな土の匂い。


 晶が口を開いた。


 「里は広いぞ。まだ見てない景色がたくさんある」


 穏やかな声だった。いつもの兄貴分の声。けれどその声の底に、沈んでいるものがあった。


 「……はい」


 「お前の妹の話、覚えてる。お前は——きっとたくさんの景色を覚えて帰ってくるんだろうな」


 秋の農地で泥にまみれながら話したことを、晶先輩はまだ覚えていた。妹に見せたいから、たくさん覚えたいんです——あの日の言葉が、晶の中にずっと残っていたのだ。


 「はい。帰ってきます」


 朔がそう答えた瞬間、晶の目が一瞬だけ揺れた。松明の灯りか、それとも別の何かか——一瞬のことで、すぐに消えた。


 「朔」


 晶の声が変わった。


 名前を呼ぶ声に、今まで聞いたことのない重さが混じっていた。今まで晶先輩から聞いたどの声とも違っていた。


 「お前は——この門の向こうに出ても、帰ってこいよ」


 帰ってこいよ。


 その言葉が、冬の夜に落ちた。


 「——はい」


 晶先輩はどうして、あんな声になったのだろう。いつもの晶先輩なら「大丈夫だ」と笑うところだ。なのに今の声は、笑っていなかった。笑っていないのに優しかった。


 晶はそれ以上何も言わなかった。


 ぽん、と。朔の頭を一度叩いた。大きくて温かい手のひらだった。いつもの軽さだった。けれどあの言葉の——「帰ってこいよ」の声だけが、いつもと少し違った気がした。何が違うのかは分からない。


 晶は手を戻すと、前を歩く列に向かって歩き出した。松明の灯りの中を帰っていく背中。上級生たちに追いつこうと、いつもの大きな歩幅で歩いている。肩が揺れている。いつもと同じだ。いつもと同じはずなのに、その背中がどこか——遠くに行くように見えた。


 松明の灯りが、晶の背中を赤く照らし、やがて列の先頭の暗がりの中に溶けていった。


---


 最後尾を歩く朔の周りで、松明が風に揺れている。


 遠くで、浄身院の鐘が鳴った。年越しの夜の定時の鐘だった。門から離れたここでは、鐘の音はいつも通りの穏やかな響きだった。


 朔はその音に背を押されるようにして、家への道をたどった。


---


 土御門家の門をくぐると、庭の木々が冬の夜の闇に沈んでいた。


 秋の楓はもう葉を落としきって、細い枝が月明かりに白く浮かんでいる。かわりに山茶花が一輪だけ、紅の花を開いていた。冬の庭は色が少ない。白い霜と、灰色の枝と、そのすきまに一点だけ差す花の紅。


 篝の部屋の障子に灯りが映っていた。


 中に入ると、篝は褥の中にいた。掻巻を肩まで引き上げて、枕元の灯りに照らされた顔だけが丸く浮かんでいる。いつもより顔色が白い。頬の赤みが薄くて、唇の色も淡かった。冬は篝にとって辛い季節だ。冷気が体に障り、穢れの蓄積が増える。体調の悪い日が増える。


 朔が入ってきた気配に、篝がゆっくり顔を向けた。


 「さくにぃ。おかえり」


 声は弱かったが、目は開いていた。小さな手が掻巻の中からぬっと出てきて、朔の袖を摘んだ。指先が冷たかった。


 朔は篝の横に座って、その手を両手で包んだ。掌で温めた。


 「今日、門の向こうを見てきた」


 篝の瞳が光った。興味が、弱った体を超えて瞳の奥に灯った。


 「門の向こう?」


 「うん。年越しの門の行事で、結界の門を少しだけ開けて、外を見たんだ」


 篝が掻巻を少し下ろして、そっと体を起こしかけた。朔が肩に手を添えて止めた。篝は大人しく枕に戻ったが、目は朔を見上げたまま離さなかった。


 「……怖かった?」


 朔は少し考えた。


 怖かったか。あの灰色の世界を見て。手のひらに沁みた重さを感じて。——怖かったのかもしれない。けれど同時に、怖い以上に心に残ったものがあった。晶先輩の横顔。凌の目。善次郎の立ち姿。蓮の視線。鳴弦の羽を撫でる郁の指先。


 「少し。でも、鐘が聞こえたから大丈夫だった」


 「鐘?」


 「浄身院の鐘。外からみんなが帰ってきたときに鳴る鐘。あの鐘が鳴ってると、里は安全なんだって」


 篝は朔の手を握り返した。冷たい指が、朔の掌の温もりの中で少しずつほぐれていく。


 「……じゃあ、鐘が鳴ってる間は篝も安心ね」


 篝が微笑んだ。弱い灯りの中でも分かる、穏やかな笑顔だった。朔は篝の手を握ったまま、何も答えなかった。答える代わりに、その手をもう少しだけ強く包んだ。


 灯りが二人の影を壁に映していた。大きな影と小さな影が寄り添うように重なっている。障子の向こうから、微かに風の音が聞こえた。


 遠くで、また鐘が鳴った。


 門の前で聞いたときとは違う。篝のそばで聞く鐘の音は、穏やかで、確かで、里の中にいるという安心を静かに告げていた。鐘が鳴っている間は大丈夫だ。鐘が鳴っている間は、篝も、自分も、この場所にいる。


 晶先輩が「帰ってこいよ」と言った声が、まだ胸の奥に残っていた。門の向こうを見つめていた、あの目。何が違ったのか、何を見ていたのか——分からない。


 分からないまま、ただ——晶先輩の手のひらの温かさだけが、頭の上に残っていた。


 篝の呼吸がゆっくりと深くなり始めた。眠りに落ちかけている。朔は篝の手を少しずつほどいて褥の中に戻し、掻巻を肩まで引き上げてやった。


 冬の夜は長い。篝の体調が辛い季節は、春が来るまでまだしばらく続く。けれど、鐘が鳴っている限り——この部屋は安全だ。


 朔は篝の枕元で少しだけ膝を抱えて座った。障子を透かして、結界の微かな光が庭を照らしているのが見える。父が維持している結界の層が、この家を、この部屋を、篝を包んでいる。外の闇は遠い。あの灰色の重さは、ここまでは届かない。


 鐘の余韻が消えた後も、朔はしばらくそこに座っていた。


 冬が深まっていく。年が変わる。この門をくぐって教導寮に通う日々が、まだ続く。晶先輩がいなくなる春が、すこしずつ近づいている。


 けれどそのことを、朔はまだ——感じてはいなかった。


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