26話 : 秋の手
秋の光は、夏とは違う落ち方をする。
朝の教導寮の中庭に差し込んだ陽射しは、白く激しく突き刺すものではなく、大楠の葉の隙間から琥珀色の粒になって降り注いでいた。夏の間は深い緑一色だった葉の先端だけが黄に触れ始めていて、その縁を光が透かすたびに、木洩れ日が金色に揺れた。地面に散る光の斑は、風が吹くたびに形を変えて、まるで水面のようだった。
空気も違った。朝の空気の中に、土の匂いと枯れ草の匂いが混じっている。夏の終わりからゆっくり入れ替わったその匂いを、朔の鼻はいつの間にか覚えていた。
今日は「収穫の手伝い」の日だった。
教導寮の年間行事の一つで、全校の生徒が里の農地に出て収穫作業を手伝う。座学も体術もない。学年を問わず午後まで畑に出て、里の大人たちと並んで汗を流す日だ。
大広間で集合してから、学年ごとにまとまって里の南西にある農地へ向かった。教導寮を出ると、いつもの通学路とは反対方向だった。朔は凌と並んで歩いた。凌は何も言わなかったが、歩調がいつもより少し弾んでいた。善次郎はずっと前の方を黙って歩いている。蓮は隣の同期たちとおしゃべりしながら、ときどき朔のほうを振り向いて手を振った。
農地は、里の南西の片隅にひっそりと広がっていた。
結界の内側でも耕作に使える土地は限られている。居住区の端を過ぎたところで、段々に区画された畑が現れた。芋の蔓が地を這い、大根の葉が青々と突き出し、粟の穂が乾いた風に揺れている。収穫を待つ秋のにおいが、畑一面から立ち上っていた。
秋は一年で最も恵まれた季節だと、父と里を歩いたときに聞いたことがある。実りがある——けれど「豊作」という言葉を、朔はこの里で聞いたことがなかった。
畑の周りにはすでに里の大人たちが集まっていて、鍬や鎌の手入れをしていた。教導寮の子供たちが近づくと、何人かが顔を上げて笑った。
「おう、来たか」
「今年の七級はちっちゃいなぁ」
農夫の手は太く、日に焼けて土の色と見分けがつかないほどだった。だがその声は温かかった。
上級生と下級生で組むように割り当てが発表され、朔のいる組には晶先輩の名前があった。
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晶は自分の組の先頭に立って、畑の端まで子供たちを連れていった。
「今日は芋掘りだ。蔓を引いたら根元を掘れ。力任せに引き抜くなよ、千切れるからな」
晶が手本を見せた。蔓を片手で押さえ、もう一方の手で根元の土を掻き分ける。泥の中から拳ほどの芋が現れると、素手で周囲を崩しながら丁寧に引き出した。泥まみれの芋が秋の陽の下に転がり出る。土と芋のあいだにある、湿った匂いが立った。
「——簡単だろ?」
子供たちが一斉に散った。
朔は畝の端にしゃがみ込んで、蔓に手をかけた。土は朝露を含んで柔らかく、指を入れると爪の間にまで入り込んだ。最初の一つは蔓を引きすぎて途中で千切れた。二つ目からは掘り方を変えた。芋の丸みに沿って土を崩していくと、芋のほうから転がり出てくる。三つ目で要領を掴んだ。
朔は黙々と掘り続けた。
泥にまみれた手で芋を次々と竹籠に入れながら、朔の目は別のものを追っていた。芋の形を覚えていた。丸くて大きいもの。細長くて途中で曲がったもの。二つがくっついたように膨らんだ不思議な形のもの。掘り返した土の色も見ていた。表面は灰色で、少し掘ると湿った茶色に変わり、さらに深いところは黒い。畝の間から小さな虫が一匹走り出て、朔の指先を避けるように行き先を変えた。
全部覚えておく。
この芋の形も、土の色の変わり方も、虫の足の速さも。家の庭からは見えない景色だ。篝はこの泥の手触りを知らないし、蔓を引いたときの、芋が土から離れるあの抵抗感も知らない。だから覚えて帰る。夕方、篝の部屋で全部話す。
六つ目の芋を竹籠に入れたとき、頭の上から声が降ってきた。
「お前、一人でやるの好きだな」
見上げると晶が立っていた。腕を組んで、汗で額に貼りついた黒髪越しに朔を見下ろしている。口元は笑っているが、目には観察するような光があった。
朔は首を傾げた。
「……一人じゃないです」
晶が片眉を上げた。
「まわり見てみ」
朔が振り向くと、同じ組の子供たちは少し離れたところに固まって、おしゃべりしながら芋を掘っていた。朔だけが畝の端に一人、黙って竹籠を膨らませている。
なるほど。確かに一人に見えるだろう。
「……一人でやるのが好きなんじゃなくて」
朔は泥だらけの手を膝の上で払いながら言った。
「妹に見せたいから、たくさん覚えたいんです。芋の形とか、土の色とか。妹は外に出られないので、僕が覚えて帰って話すんです」
声に力みはなかった。言い訳でも説明でもない。ただそうなのだ、ということだけが声に乗っていた。
晶の笑みが変わった。
消えたわけではない。口元は緩んだまま、けれど目の奥にあったものの温度が変わった。何か深いところに触れた——という顔だった。五歳の朔には、晶の目に浮かんだものの名前が分からなかった。
晶は何も言わず、朔の隣にしゃがみ込んだ。
泥だらけの手で蔓を掴んで、次の畝を掘り始めた。いつもの軽口はなかった。黙って、朔と同じ速度で、同じ泥を掘った。
しばらくして、晶が言った。
「——お前の妹、きっと喜ぶな」
晶先輩の声だった。けれどどこかに、普段とは違う重さのようなものが混じっていた。入学の日に「大丈夫だ」と言ってくれたときとも、昼餉で「先輩の仕事だ」と笑ってくれたときとも、違う声だった。
「はい」
朔はそれだけ答えた。
二人は並んで芋を掘った。晶は上手だった。蔓を引く手つきに迷いがなく、芋の形を崩さないように指を添えるように掘っている。朔はその指先の動きを横目で見ながら、自分のやり方を少しずつ修正した。
晶先輩はいつも笑っている。でも今の横顔は、笑みの下にもう一つ別の何かを隠しているように見えた。何が違うのかは分からない。ただ、黙って隣で芋を掘ってくれていることが、朔にはどこか心地よかった。
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収穫作業を終えて教導寮に戻ると、いつもより遅い昼餉が待っていた。大広間に入ると、温かい湯気が迎えた。味噌の匂いだ。今日は秋の味噌汁だった。
配膳台に並んだ碗を受け取り、覗き込んだ。汁物の中に芋がごろごろ入っていた。さっき自分たちが掘ったのと同じ芋だ。泥を洗い落とされた白い肌が味噌に染まって、柔らかく揺れている。粟飯の脇には大根の漬物が添えられていた。
誰かの声が大広間に弾けた。
「今日は芋が多い!」
碗を覗き込んで笑う子。箸で突いて数を確かめる子。「三つ入ってる」「俺は四つだ」。賑やかな声が大広間に広がった。汁物の中に具が見える——箸が碗の底に届く前に何かに当たる——それだけで子供たちの顔は明るくなった。
秋の昼餉は一年で最も嬉しい日だ。
朔は自分の碗を見つめた。芋が三つ。大根の薄切りが二枚。味噌の温もりの中に、この芋を育てた土と、掘った手と、洗った水と、火にかけた誰かの時間が溶けているような気がした。
——家の汁物に、こんなに具が入っている日は少ない。
口には出さなかった。箸を動かして、芋を一つ噛んだ。柔らかくて、甘い。味噌の塩気が芋の中までしみて、ほくりとした食感の中で溶けていく。自分が朝に掘った芋が、今、口の中で温かく崩れている。
今日は「良い日」だ。子供たちはみんな笑っている。具で腹が満たされる日は、ここでは特別なことなのだ。
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午後の作業が終わって、下校になった。
収穫作業のある日は帰りが遅い。陽が西に傾きかけて、空の端から橙色が滲み始めていた。同じ道でも、朝の白い光と夕方の橙の光では、里の表情がまるで違って見えた。
朔は一人で歩いていた。凌は先に帰った。蓮は同期と連れ立って別の方角に消えた。善次郎はいつの間にかいなくなっていた。
いつもの道を歩くつもりだった。けれど収穫の日は帰りが遅かったせいで、普段通らない小路に足が向いた。里の中央寄りの、見覚えの薄い道だった。
その道の先に、配給所があった。
朔は足を止めた。
夕方に近い配給所の前に、里の大人たちが列を作っていた。
静かだった。
それが最初に目に入ったことだった。朝の農地で見た大人たちは、声を掛け合い、笑い、子供たちに「ちっちゃいのに上手いな」と声をかけてくれた。同じ里の人たちだ。なのにここでは、誰もあまり話をしていなかった。
一人ずつ配給官の前に立ち、配給帳に検印を受けて、布に包まれたものを両手で受け取っていく。受け取った人は、包みを胸の前に抱えるようにして、黙って帰っていく。
列の中に、朝の農地で近くにいた人がいた。朔たちの畝に水を運んでくれた人だ。腕が太くて声が大きくて、「上手いな」と褒めてくれた人だった。
朔はその人に手を振ろうとした。
気づかなかった。
目を伏せて、列が進むのを待っていた。朝の畑で見た笑顔が消えて、包みを受け取る順番をただ待っている。あの太い手が、芋を掘るときとは全く違う握り方で、受け取った包みを抱えていた。
朔は手を途中で下ろした。通り過ぎた。
朝は笑っていた。汗を流して、声をかけてくれて、芋を掘る手つきを見せてくれた。なのに同じ日の夕暮れに、同じ人が、黙って列に並んで包みを受け取っている。どちらも同じ人の、同じ日の顔だ。
五歳の朔には、その違いを言葉にする術がなかった。「配給」という仕組みの重さも、「列に並ぶ」ことの意味も、まだ理解の外にあった。ただ目に焼きついたのは、朝は泥にまみれていた手が、今は包みを大切そうに胸に抱えている姿だった。
坂を上りながら一度だけ振り返った。
夕陽が配給所の屋根を照らしていた。列はまだ続いていた。橙の光の中で、里の人たちが黙って並んでいた。収穫の手と、包みを受け取る手。同じ秋の夕暮れに、二つの手が重なっている。
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土御門家の門をくぐると、庭の楓が紅く染まり始めていた。朝はまだ緑が勝っていたはずの枝先が、夕陽を受けて紅に透けている。
足を速めた。今日は覚えて帰ってきたものが、いつもより多い。
篝は縁側で押し花帖を広げていた。掻巻を羽織った肩越しに朔の足音を聞きつけて、顔を上げる。縁側に腰を下ろした朔の手を見て、篝の目が丸くなった。
「さくにぃ、手、泥だらけだよ!」
「うん。今日は芋掘りだった」
「芋掘り!」
篝の目が輝いた。押し花帖を脇に置いて、身を乗り出してきた。
「教導寮のみんなで、里の畑に行って、芋を掘ったんだ」
朔は話し始めた。覚えたことの全部を、約束通り丁寧に、篝に手渡していく。
「芋はね、蔓を引っ張ると途中で千切れるから、蔓を押さえて土ごと掘るんだ。最初は失敗したけど、三つ目くらいからうまくなった。芋の形はね、全部違うんだよ。丸いのもあるし、細長いのもあるし、二つくっついたみたいな変な形のもあった」
「二つくっついた芋! 見たかったなぁ」
「土も面白かった。表面は灰色っぽいんだけど、掘ると下は茶色で、もっと深いところは黒いんだ。虫も出てきたよ。小さくて足が速くて、僕の指を避けるみたいに走っていった」
篝がくすくすと笑った。
「虫は嫌だけど、足が速いのはちょっと見たいかも」
「蓮もいたよ。蓮はずっと誰かと話しながら掘ってた。善次郎は別のところにいたんだけど、一人でどんどん進めてた。やっぱり体が大きいから速いんだ」
「善次郎くん、相変わらず壁みたいなんだね」
朔はふっと息を漏らした。
「じゃあ芋はさくにぃが掘ったの?」
「うん、六つ掘った」
「すごい! 篝もやりたかったなぁ」
篝の声が弾んでいた。嘘のない声だった。篝はいつも「やりたかった」と言う。羨ましがるのとは違う。本当にやりたいのだ。自分の手で土を掘って、芋の重さを感じて、泥まみれになって。朔はそれを知っていた。
朔は配給所のことは話さなかった。
あの光景が何を意味しているのか、自分でもまだ分かっていない。分からないものは言葉にならない。だから渡せなかった。
芋の形、土の色、虫の足の速さ——朝に晶先輩の前で言った通り、覚えて帰って全部渡した。ただ一つだけ、あの夕暮れに見た二つの手のことだけは、言葉にならなかった。
庭の楓から一枚の葉が落ちてきた。
風に乗ってゆっくりと回りながら降りてきたそれを、篝が小さな手を伸ばして受け止めた。紅い葉脈が、白い掌の上で夕陽に透けた。
「きれい。——ね、さくにぃ。これも押し花帖に入れていい?」
「うん」
篝は慎重に葉を持ち上げて、押し花帖の頁の間に挟んだ。紅い楓の葉が白い紙の上に静かに収まった。蓮が教えてくれた藤袴と山茶花の隣に、篝が自分で拾った秋が加わった。
秋の手。
泥にまみれた手。芋を掘る手。汁をよそう手。包みを受け取る手。楓の葉を拾う篝の掌。——この秋の中に、たくさんの手がある。どの手も同じ陽の下にある。けれどその手が掴むものは、それぞれ違う。
朔にはまだ、その違いの名前が分からなかった。
篝が押し花帖を閉じて、満足そうに胸に抱えた。秋が深まっていく。やがて冬が来る。この縁側で篝が帰りを待つ日が、まだしばらく続く。




