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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:2幕

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25話 : 通い路

 辰の刻。


 朔は土御門家の門を出て、北西の高台から里の中心へ向かう坂道に足を踏み出した。


 初夏の朝だった。梅雨の気配はまだ遠く、空は高く澄んでいる。土の道に昨日の名残の露が残っていて、草履の底がかすかに湿った。坂道の両側に伸びた雑草の丈はもう膝に届いており、その合間から白い野花がいくつか顔を覗かせていた。朝の光がそれらの花弁を薄く透かして、道のあちこちに白い粒を散らしたように見えた。


 入学から二月が経った。


 この坂を下るのも、もう何十回目になる。最初の頃は足元ばかり見ていた。道の先に何があるか分からなくて、一歩ずつ確かめるように歩いていた。今はもう石の配置も窪みの場所も覚えている。足が勝手に避ける。目は前を向いて、里の青い屋根や、結界の際で揺れる空気の歪みを見ながら歩けるようになった。


 坂を下りきると道が緩やかに曲がり、やがて教導寮手前の辻に差しかかる。北西からの道と、里の中央からの道が交わる場所だ。


 そこに凌がいた。


 道の脇に立つ標の柱にもたれるでもなく、ただ道の合流する地点に足を止めて、朔が来るほうを見ていた。袖を捲り上げた小袖の腕で朝の風を受けている。目つきはいつも通り鋭いが、朔に向ける視線には敵意も警戒もない。ただ来るのを認めた、という目だった。


 朔が辻まで歩くと、凌はごく自然にその隣に並んだ。二人で同じ方向を向いて、教導寮への道を歩き始める。足音が二つ、土と石の道に規則正しく落ちた。


 これがいつから始まったのか、朔は正確には覚えていなかった。入学の翌週あたりだったか、もう少し後だったか。ある朝ここを通りかかったとき、凌がいた。それだけだった。翌朝も、その翌朝も。気がついたら凌はいつもあの辻にいた。


 入学前の冬を思い出した。あのときは凌が「来る側」だった。毎朝、一人で土御門家の庭まで歩いてきて、何も言わず隣に座った。朔が鍛錬をしている間、凌も隣で拳に法力を込めていた。言葉を交わさなくても、並んでいるだけで足りていた。


 今は違った。来る側と待つ側ではなく、二人とも歩いている。行き先が同じだから、途中で合流して、同じ速さで歩く。


 凌の歩幅は朔より少し広かった。合わせてくれているのかは分からなかった。でも並んで歩くようになってから、足音がずれたことは一度もなかった。


 教導寮の正門が見えてきた。大楠の青い葉が初夏の風に揺れて、さやさやと高い音を鳴らしている。正門の手前で何人かの同期が固まって話しているのが見えた。朔と凌は黙ったまま門をくぐった。


 一言も交わさない朝の道。それでいい。


---


 午の二刻。下校。


 一年次前期の授業は午前のみだった。昼餉を終えて外に出ると、午後の陽が教導寮の敷地を白く照らしていた。初夏の日差しはもう力が強く、石畳の表面が光を跳ね返して目に眩しかった。


 朔は正門を出て、いつもの道に足を向けた。朝と同じ辻まで、凌と並んで歩いた。帰りも一言も交わさなかった。辻で二人の道は分かれた。凌は中央の方へ、朔は北西の坂道を上る方へ。凌が顎を僅かに引き、朔が小さく頷く。それだけで分かれた。


 だが今日、朔は坂を上らなかった。


 辻を過ぎてから、いつもとは違う方へ足を向けた。西へ。内工座のある方角だ。左手に布で包んだものを持っている。拳ほどの大きさで、布越しに硬い角が触れていた。


 結界補助具だった。父が玄外に頼んで作らせた鍛錬用の法具で、結界術の法力を通す媒体として使う。自宅の庭で鍛錬を続けるうち、法力の制御が追いつかないまま回路に力を注ぎすぎてしまった。法力回路の接合部が焼き切れて、もう法力が通らない。


 今朝、父に見せた。


 「修繕を頼んでおく」と基は言った。


 朔は少し迷ってから「……自分で持っていってもいいですか。どう直るのか見たいです」と答えた。基は一拍置いて頷いた。


 里の西側は工房が集まる区画だった。鍛冶の煙が薄く漂い、金属を打つ音が遠く近くで断続的に鳴っている。朔の足は覚えていた。前に父と一緒に来た道だ。あのときの鉄の匂い、炉の熱が顔に当たる感覚、炭の粒が漂う空気——。


 内工座の工房の入口に立つと、あのときと同じ熱気が鼻をついた。


 炉の赤い光が薄暗い工房の奥で揺れていた。火の粉が微かに舞い上がって天井の煤に吸い込まれていく。金属と炭と汗の匂いが渾然として、外の初夏の空気とはまるで別の季節のようだった。


 玄外は炉の前にいた。


 前に来たときと同じ場所に、同じ姿勢で立っていた。大きな体が炉の光を背に受けて、影が工房の壁に長く落ちている。作業台の上に何かの法具の部品が並んでいて、玄外の手がその一つを掴んでいた。


 朔が入ってきたのを一瞥して、玄外は目を炉に戻した。


 「……何の用だ」


 朔は布に包んだ法具を両手で持ち上げた。


 「結界補助具の修繕をお願いしたいのですが」


 布を開く。中から現れたのは拳ほどの木と金属を組み合わせた法具で、表面に細い刻線が走っている。法力回路だ。回路の一部が黒く焦げて、断線しているのが見えた。


 玄外が法具を手に取った。片手で軽く持ち上げ、焦げた回路のあたりを親指でなぞる。一瞬で壊れ方を見て取ったらしく、眉がわずかに動いた。教導寮の子供が使う補助具の修繕——普段なら弟子に任せるような仕事だ。


 「どう壊した」


 短い問いだった。


 朔は法具を指差しながら答えた。


 「ここの法力回路に負荷をかけすぎました。結界の型を維持したまま法力の出力を上げようとしたら、回路の接合部が耐えられなくて、焼き切れたんだと思います」


 玄外の手が止まった。


 朔の顔を見た。五歳の子供が「回路」「接合部」「出力」という言葉を使い、壊れた原因を的確に説明している。声に迷いがなかった。——玄外の目にはそう映った。見当をつけて言っているのではない。観察して、分析して、結論を出している。


 朔はさらに法具を覗き込んだ。焦げた接合部の周囲に、うっすらと法力の痕跡が残っている。回路の設計を目で追いながら、ある一点で視線が止まった。


 「この法具、ここの——流れが詰まっているから壊れたように見えます。回路の設計を変えれば、もう少し法力を通せるようになりませんか」


 工房が静まった。


 炉の火が爆ぜる音だけが低く響いた。玄外は法具から目を離し、初めて朔に向き直った。鷹のように鋭い目が朔の顔をまっすぐに捉えている。


 あの坊だ、と玄外は思い出していた。基殿が連れてきた子供。法力の流れを調整しているところを、何も教えていないのに指差した——あの目を、覚えている。


 「……坊、名は」


 朔は背筋を伸ばした。


 「土御門 朔です」


 一拍の沈黙があった。


 「……朔か」


 玄外はそれだけ言って、法具を作業台に置いた。焦げた接合部にもう一度指を当てて、回路のつながりを手の感触で確かめている。朔の視線がその指先の動きを追っていた。


 「三日で直す。取りに来い」


 「はい」


 短い返事。朔は頭を下げて、工房から出た。


 外に出ると、初夏の風が鉄と炭の匂いを洗い流した。陽が白く眩しくて、一瞬目が慣れなかった。内工座の工房が並ぶ通りを歩きながら、朔はさっきの玄外の顔を思い出していた。


 名前を聞かれた。


 それがどういう意味かは、朔にはまだ分からなかった。でも一つだけ分かることがあった。あの人は「どう壊したか」を聞いてくれた。壊したことを叱るのでもなく、黙って直すのでもなく、なぜ壊れたのかを、あの短い問いの中で確かめようとした。


 父以外で初めてだった。壊れた理由を一緒に考えてくれそうな人。指先で回路をなぞるあの手つきの中に、ものの仕組みを知り抜いた者だけが持つ確かさがあった。


 三日後にまた来る。そのとき、直った法具がどう変わっているのか——見たい。


 朔は内工座の通りを抜けて、土御門家への坂道を上り始めた。


---


 土御門家の庭に、午後の光が差し込んでいた。


 初夏の日差しはもう夏の強さを帯び始めている。庭の楠の葉が陽を受けて青々と輝き、その下に紫陽花の蕾がいくつか膨らみ始めていた。まだ色づいてはいない。緑のまま固く閉じた蕾が、開く日を待つように枝の先に並んでいる。


 縁側に、篝がいた。


 裸足のままで、足を庭のほうへ投げ出すように座っている。傍らに押し花帖が伏せてあった。どうやら飽きて庭を眺めていたらしい。頬にうっすらと赤みがあって、目に光が宿っている。調子のいい日だ。


 朔の足音が響いた。篝が顔を上げた。


 「おかえり! 遅かったね、どこ行ってたの?」


 朔は篝の隣に腰を下ろした。外の空気の匂い——土と鉄と草の混ざった匂いが、まだ袖に残っていた。


 「鉄を打つおじさんのところに行ってきた。壊れた道具を直してもらいに」


 「それ、さくにぃが壊しちゃったの?」


 「……うん」


 篝がくすっと笑った。


 「ふふ、さくにぃでも壊すことあるんだね」


 朔は鼻から息を漏らすように、かすかに笑った。


 「いっぱい壊す」


 篝は目を丸くして、それからまた笑った。縁側に並んだ二人の笑い声が、庭の空気に溶けていった。


 「じゃあ、直ったらまた練習するんだ?」


 「うん。もうちょっと上手にやれるようにする」


 「がんばってね、さくにぃ」


 いつもの言葉だった。


 縁側に座ったまま、朔は今日一日を振り返っていた。


 朝の辻。昼の工房。夕のこの縁側。どれも「通う」ことだった。同じ道を、同じように歩く。毎日の繰り返し。


 でもその道の上で、少しずつ何かが変わっている。凌との足音が揃い始めたこと。玄外が名前を聞いてくれたこと。


 庭の楠の葉が風に揺れて、陽の光をちらちらと散らした。紫陽花の蕾の上にも光が乗って、緑の表面が一瞬だけ白く光った。


 篝が朔の袖をくいっと引いた。


 「さくにぃ、今日遠くまで行ったでしょ。袖がいつもと違う匂いする」


 鉄と炭の匂い。まだ残っていたのか。朔は自分の袖口に鼻を近づけた。


 「……うん。鉄を打つところの匂い。いつもとは違う道を歩いたから」


 「ふうん。知らない道、楽しかった?」


 「うん。でも帰ってくる道は同じだった」


 篝はにっこり笑った。


 「篝はこの縁側から帰ってくるさくにぃを見るのが好き。同じ道なのに、さくにぃの顔がちょっとずつ変わるから」


 朔は篝を見た。柔らかな光に照らされた篝の横顔。押し花帖を膝に載せて、庭の向こうを見ている静かな目。この子はいつもここにいて、朔が帰ってくるのを待っていてくれる。朔が歩く道の終わりには、いつもこの縁側がある。


 通い路の上で、全部つながっている。


 午後の庭に、二つの影が並んで落ちていた。紫陽花の蕾はまだ固く閉じたまま、明日の朝を待っていた。明日もまた同じ道を歩く。同じ辻で凌に会い、同じ門をくぐり、同じ道を帰ってくる。三日後にはまた、西の道を通って、あの鉄の匂いのする工房を訪ねる。


 同じ道を歩くことは、同じことの繰り返しではない。足の下の道は変わらないのに、歩く自分が少しずつ変わっている。


 だからきっと、明日の道も今日とは少しだけ違う。


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