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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:2幕

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24話 : 同類

 辰の二刻。座学の教室。


 秦訓導の里史の授業だった。高い声が教室の隅まで澄んで届く。伍ごとに固められた席順で、朔は第二伍の端に座り、秦訓導の語りに耳を傾けていた。


 今日の題目は五星連珠。天蓋歴元年、穢れに呑まれゆく世界の中で五人の術者が里の礎となる結界を張った。その五人の名と行いを語ることは、里の子供たちが最初に学ぶ里史の一つだった。


 「五星連珠の五人の名を挙げよ。順番は問わない」


 秦訓導がそう告げると、教室がざわめいた。覚えている者は前を向き、あやふやな者は目を逸らす。その中で一人、間を置かず立ち上がった影があった。


 蓮だった。


 第三伍のまとまりの中から、蓮が背筋を伸ばして立った。淀みなく、五人の名を挙げていく。


 「葦守の翁、祝刀の巫、鉄鍛の翁、水紡の媼、種守の輩。以上の五人です」


 秦訓導がゆっくりと頷いた。


 「よい。では葛葉、もう一つ。五人が結界を張ったことで何が起きたか。その意味を述べよ」


 蓮は一拍置いて、まっすぐに答えた。


 「五人が結界を張ったことで穢れの侵食が食い止められ、生き残った人々が葦原の里を再建する時間を得ました。結界がなければ穢れは残った人々にまで及び、誰も生き延びられなかったと思います」


 秦訓導が再び頷いた。その頷き方に満足の色が混じっていた。蓮の澄んだ声は教室に響き渡って、壁に吸い込まれた。答えはきれいに整理されていた。過不足がない。


 朔も同じ感想だった。蓮の答えは正しい。


 だが。


 朔の中で、蓮の答えとは別の引っかかりが生まれていた。四人は五行すべてを備えていた。なのに五人目の種守の輩は木行だけだ。加われば均衡が崩れる。——なぜ、五人で張ったのだろう。


 朔は手を挙げた。


 「秦訓導、一つ質問してもいいですか」


 秦訓導が向き直った。「どうぞ」


 「五人のうち四人は五行すべてを備えていました。四人だけで五行の均衡は取れます。でも種守の輩は木行だけです。単一行の術者が加われば均衡が崩れて、結界はむしろ脆くなるのでは——なぜ、五人で張ったのでしょうか」


 教室が静まった。


 さっきまで蓮の答えに頷いていた空気が、別の質感に変わった。秦訓導が目を細めた。視線がゆっくりと教室を巡る。


 「……面白い問いだ。誰か、答えられるか」


 沈黙が返った。子供たちは顔を見合わせ、首を傾げ、座学で与えられた知識の中に答えを探していた。だが記録には五人目を加えた理由は書かれていない。答えが見つからずに、視線が下を向いていく。


 秦訓導は口元にかすかな笑みを浮かべたまま、次の話に進んだ。問いに答えは出なかった。だが秦訓導はそれを咎めなかった。むしろ問いが教室の空気に残ったまま授業が続くのを、良しとしているように見えた。


 第一伍の席の端で、善次郎はこの瞬間を耳に留めていた。


 蓮の答えは正しかった。善次郎にもそう思えた。だが朔の問いには、蓮の答えにはなかった何かがあった。善次郎はそれを言葉にできなかったが、肌で感じていた。


---


 巳の三刻。武術場に朝の光が降りていた。


 受け身の訓練だった。日下部訓導が「次の組!」と号令を飛ばすたびに、二人一組が歩み出て互いに投げ合う。板張りの床を打つ音が絶え間なく響いて、武術場の空気が揺れていた。


 朔は第二伍。善次郎は第一伍。組分けが違うので直接組むことはない。朔は順番を待ちながら、正面の組手を見つめていた。押して転がり、引いて払い、受けて流す。体術の基本はすべてこの繰り返しだ。


 号令がかかって、朔の番が来た。


 組んだ相手の腕を取り、腰を沈めて体重を移す。相手が床に転がる。次は自分の番。腕をつかまれ、体を崩される。朔は肩から落ちた。背中が板を叩く寸前に腰をひねり、肩甲骨、背中、腰と順に接地面を移していく。衝撃が胴を通り抜けて脚へ逃げた。床を蹴って立ち上がる。呼吸一つ分で元の構えに戻った。


 二回、三回と繰り返すたびに、朔の受け身は同じ軌道を描いた。着地の位置がほとんど変わらない。畳一枚分の中で転がり、立ち上がり、構える。殴り方や蹴りの型では他の同期と大きな差はないが、投げられた後の動きだけが際立っていた。


 武術場の隅で、善次郎は自分の型を練っていた。


 第一伍の受け身は先に終わっており、善次郎は壁際で立ったまま、右手を握っては開く動作を繰り返している。薙刀の柄を握る感触を、素手のまま確かめている。型を練る合間に、視線が第二伍の列を横切った。朔が投げられた瞬間、善次郎の目が止まった。


 転がり方が完璧だった。


 重心の逃がし方、接地面が肩甲骨から背中、腰と流れるように移動していく滑らかさ。立ち上がりの速さ。殴り方は雑なのに、受け身だけが別の人間のようだった。


 善次郎は自分の掌を見た。薙刀の柄で硬くなったたこ。朝と夕に素振りを繰り返した掌の証だ。受け身をあの精度でこなすには、何度も何度も投げられ、叩きつけられ、転がされ、その都度立ち上がるしかない。——善次郎は入学前の日を思い出した。里の道を歩いていた小さな体。軌道を追う目。迷いなく去っていった足取り。


 受けを知っている。……こいつも、やっているな。


 善次郎はそれだけを思った。好奇心でも感嘆でもない。薙刀を振る者が、他の者の型に目が行くのと同じだ。受け身の精度を測る基準が、善次郎の体に刻まれている。その基準が、朔の動きに反応した。


 里史の問いも、受け身の精度も。この少年が見ているものは、善次郎の知る「積み重ね」とは種類が違う。


 守る価値がある。この頭脳は。


 号令が鳴り、受け身の組が交代した。善次郎は壁から背を離し、自分の伍の列に戻った。手を握って、開く。握って、開く。素振りの代わりの動作を繰り返しながら、善次郎の視界から朔の姿が消えた。


---


 午の刻。大広間で昼餉を終え、外に出た。


 中庭に春の日差しが落ちていた。大広間から出てきた子供たちが三々五々に散っていく。走り出す者、仲間と手を繋いで歩く者、木陰でしゃがみ込む者。入学から一月半が経って、この場所の時間の過ごし方が一人ひとりの中に定まりつつあった。


 善次郎はいつもの壁際にいた。腕を組んで、棒立てのほうを見ている。


 蓮が大広間の入口から出てきた。晴れた空に目を細めて辺りを見回し、きょろきょろと朔を探している。武術場のほうへ足を向けかけたところで、善次郎の姿が目に入ったらしかった。


 蓮は少し迷って、そのまま善次郎のほうへ歩いた。


 「善次郎くん、いつもそこにいるね。お日様当たらないよ?」


 善次郎は視線を動かさなかった。


 「寒くない?」


 「……別に」


 蓮は壁際に並んで立った。日陰の中に入ると、確かに風が来ない。陽の当たる中庭と陰の壁際の間に、温度の境がくっきりと引かれていた。


 「ふーん。本当だ、ここ風来ないね。いい場所見つけたね」


 善次郎は何も返さなかった。蓮はその沈黙を不快がる素振りもなく、ただ壁際に背をつけて立っている。視線は中庭のどこか遠くを見ていた。しばらくそうして黙っていたが、やがて思い出したように口を開いた。


 「朔くん探してるんだけど、さっきあっちの方にいたかな?」


 善次郎は武術場のほうを顎で示した。


 「ありがと!」


 蓮は壁から背を離して、駆け出した。隣に立っていたときに漂っていた袖口の薬草の匂いが、壁際にかすかに残った。晴れた中庭を横切り、蓮の小さな背中が武術場のほうへ消えていく。


 善次郎はそのまま壁に寄りかかっていた。


 朔は理由を聞かなかった。蓮は沈黙を気にしなかった。楽な相手が二人になった。善次郎はそれを意識して考えたわけではなかったが、肩にかかっていた何かが少しだけ軽くなったのは確かだった。


---


 午の二刻。下校。


 朔は正門へ向かって歩いていた。午後の陽が溶かした土の匂いが鼻をかすめた。春の盛りを過ぎて、敷地の端を縁取る草の丈がもう随分と伸びている。


 武術場の裏手に差しかかったとき、音が聞こえた。


 規則的な打撃音だった。間合いが一定で、呼吸と一体化している。一振りごとに空を切る音は風を孕んでおり、振り下ろしたあとの静止が長い。次の一振りまでの間に、姿勢を整え直している音がした。


 善次郎だった。


 武術場の隅で、善次郎は薙刀の柄を握り、正面に構えて素振りをしていた。帰りの十分間。毎日、善次郎はここで、父に教わった素振りの型を繰り返す。道を通りかかる者の視線に頓着せず、武器掛けから借りた稽古用の長柄を一振りずつ、迷いのない軌道で振り下ろしていた。


 朔は足を止めなかった。武術場の隅で長柄を振る善次郎の姿が一瞬だけ目に入ったが、視線を戻した。


 歩きながらその音を聞いていた。一振り目。引き。二振り目。引き。呼吸の拍子が一定で、振り始めと振り終わりの姿勢がほとんど変わらない。あの規則正しさを朔は知っていた。


 父の棒術と同じ間合いだ。


 基が結界の維持から帰宅した夜に、庭で一人で棒を振ることがあった。朔は部屋の中からその音を聞いていた。吐息と振り下ろしが一体化した、もう体に染みついた型の繰り返し。善次郎の素振りの音は、基のあの音と同じ質を持っていた。


 入学前、里を歩いていたとき広場で聞いた音もこれだった。あのときと同じだ。


 この人も、毎日やっている人だ。


 朔はそう思った。足を止めず、武術場の裏を通り過ぎた。善次郎のほうは見なかった。


 善次郎は気づいていた。素振りの合間に、視界の端で小さな影が通り過ぎるのを見ていた。足を止めなかった。声もかけなかった。


 互いに何も言わない。一度言葉を交わしたからこそ、言葉にする必要のないものがあった。


 善次郎は素振りを続けた。里史の授業での問い。その後の体術の受け身。昼餉後に壁際へやってきた蓮。そして今、帰り道に何も言わず通り過ぎていく朔。


 ……同じだ。こいつもこうやって積み重ねている。


 善次郎はそれを言葉にしない。言葉にする必要がない。ただ素振りの柄を握り直して、次の一振りに体を沈めた。


 朔の背中が武術場の角を曲がって見えなくなっても、善次郎の素振りの音はしばらく続いていた。規則正しく、呼吸に合わせて、何も足さず何も引かない振り下ろしが、春の午後の空気を打ち続けた。


 正門を出ると、初夏に近づいた春の陽が石畳を白く照らしていた。教導寮の楠が風を受けて枝を揺らし、青い葉ずれの音が朔の背中を見送った。


---


 土御門家の縁側に篝がいた。体調のいい日だった。薄い小袖を重ね着して足を下ろし、膝の上に押し花帖を広げている。帖の中に、蓮が持ってきてくれた藤袴の押し花が挟まっていた。もう茶色に変わってしまったが、形はそのまま残っている。


 庭の彼岸桜はとうに花を落とし、代わりに白い躑躅が咲き始めていた。


 玄関の方から足音が聞こえた。篝は顔を上げて、その足音の速さと響きで兄だと分かった。


 「おかえり、さくにぃ!」


 朔が縁側の角に姿を見せた。後ろ姿をくるりと翻して、篝の隣に腰を下ろす。草の匂いと汗の匂いが混じった、外から帰ってきたばかりの空気を纏っていた。


 「ただいま。今日も元気だね」


 「うん。今日はいい日。お庭にも出た」


 篝がにこにこと笑う。朔の顔を覗き込んで、首を傾けた。


 「ねえ、今日はなにかあった?」


 朔は少し考えてから、里史の授業の話をした。蓮の答え、自分の質問、そして秦訓導が答えを出さなかったこと。


 「四人だけで五行の均衡は取れるのに、木行しか使えない五人目が加わった。均衡が崩れて、結界はむしろ脆くなるはずなのに——なぜ五人で張ったんだろう、って」


 「脆くなるの?」


 「うん。四人のほうが頑丈な結界を張れたはずなんだ。なのに五人で張った」


 篝の目がゆっくりと瞬いた。押し花帖に置いていた手を膝の上に戻して、少し首を傾けたまま考え込んでいた。庭の躑躅が風に揺れて、白い花弁が一枚だけ地面に落ちた。


 「……もしかして」


 篝がゆっくりと口を開いた。


 「その人にも、守りたい人がいたんじゃないかな」


 朔の手が止まった。


 秦訓導も答えを出さなかった問いに、篝が息をするように答えを返した。五行の均衡でもない。術式の効率でもない。四人だけで結界は完成する。でもそれは——種守の輩が守りたかったものを、結界の外に置くということだ。


 五人目が加わったのは、五人全員の「守りたいもの」を結界の中に収めるためだ。結界が大きくなったのは、一人ひとりの守りたいものを、誰も切り捨てなかったから。


 結界の大きさは、守りたいものの大きさだ。


 「……篝、それ、すごいと思う」


 篝は首を傾げて笑った。


 「えー、そうかな。ふつうのことだと思うんだけど」


 ふつうのこと。篝にとっては当たり前の答えだ。里史を学んでいない。五行理論も知らない。でも「守りたい人がいるなら、結界に入れてあげたい」という直感は、朔が法力の鍛錬で感じてきたことと深いところで繋がっていた。


 父の言葉が蘇った。「法力は水だ。器の形に沿って流れる」。法力の形が使う者の想いで決まるのなら——結界の大きさもまた、守りたいものの大きさで決まる。篝の答えが正しいかどうかは分からない。でも朔の胸に、すとんと落ちた。


 庭の風が変わった。日が傾いて、陽の色が少しだけ赤みを帯び始めている。篝が押し花帖を膝の上に広げて、藤袴の押し花を朔に見せた。


 「蓮ねぇが教えてくれたの。これ、藤袴っていうんだよ。秋に咲くんだって」


 「うん。知ってる。前に篝が教えてくれたよ」


 「えっ、そうだった?」


 篝がまばたきして、少し恥ずかしそうに笑った。


 「じゃあ篝のほうが先に教えたんだね。えへへ」


 縁側に並んで座った二人の影が、庭の土の上に長く伸びていた。躑躅の白い花弁が、風のないところに落ちてじっとしている。消えない花。押し花帖の中の、もう色を変えてしまったけれど形を残している花。


 朔は篝の横顔をちらりと見た。押し花帖を抱えて日暮れの庭を見ている小さな横顔。この子の答えは、いつだって理屈よりも先にあった。


 「さくにぃ、なに見てるの」


 「ううん。なんでもない」


 朔は庭に目を戻した。


 春の夕暮れの光が、土御門家の庭を淡い金色に染めていた。結界の膜が遠くの空の端を薄く区切っているのが見える。あの結界の内側に、守りたいものがある。父はそのために毎日ここに立っている。


 結界の大きさは、守りたいものの大きさだ。


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