23話 : 聞こえない声
武術場に掛け声が反響していた。
巳の三刻。日下部訓導の号令に合わせて、同期たちが横一列で蹴りの型を繰り返している。裸足の足裏が板を打つ音、気合の声、それらが入り交じって広い武術場を満たしていた。
春の陽が庇の下に斜めに差し込んで、列の前半を白く、後半を薄暗く照らしている。朔は列の端に近い位置で、号令に合わせて右足を振り上げた。腰を軸にして膝を伸ばし、足の甲で空を切る。引き戻して構える。繰り返し。呼吸に合わせて、蹴るたびに軌道を手直しする。踵の位置が少しずれれば体の軸がぶれた。朔は足首の角度を微かに変えながら、型の中に体を納めていった。
隣の列の掛け声が揃い始めていた。入学から一月――互いの呼吸を聞くことに慣れ始めた頃合いで、号令の合間に子供たちの掛け声が大きくなっていく。その声の波の中に、ひとつだけ、声の出ない影があった。
郁だった。
朔から数人分離れた位置で、御影郁は蹴りの型をこなしている。小柄な体が一生懸命に足を振り上げ、着地するたびにわずかによろめく。掛け声を出す代わりに唇が動いているが、音が唇の間から漏れ出るだけで、誰の耳にも届いていなかった。
武術場の屋根の端に、灰銀色の小さな影が止まっていた。鳴弦だ。鷹の瞳が高みから訓練場の全景を見下ろしている。琥珀色のその目と、郁の目は繋がっている。鳴弦の視界を通して、郁には武術場が俯瞰で見えているはずだった。
朔は蹴りを放ちながら、ふと気づいた。
郁が口を動かしている。蹴りの合間に、何度も唇が開きかけては閉じる。掛け声の拍子とは違う。何かを言おうとして――言えないでいる。
朔の蹴りが止まりかけた。号令が飛んで、慌てて体を戻す。蹴り。引き。構え。その動作の合間に目だけを走らせて、郁の視線の先を追った。
前の列だった。
一人の同期が、蹴りの型を繰り返している。蹴りのたびに、軸足の膝が内側に折れる。繰り返すたびに角度がきつくなっていた。ほんの少しずつ、でも確実に。あの角度で踏み込み続ければ、膝の筋を痛める。
朔は一目でそれが分かった。基との鍛錬で自分の体を何百回と壊しかけてきたからこそ、他人の体の異変にも目が向いた。
声を出さなければ。
朔は蹴りの型を止めて、前列のほうへ半歩踏み出した。
「膝——」
声が出たのと、日下部訓導の号令が重なった。
「足を上げろ! 止まるな!」
掛け声が一斉に膨れ上がり、朔の声は板張りの空気に呑まれた。前列の同期の耳には届いていない。朔がもう一歩踏み出そうとしたとき、列から外れた動きを見咎めた日下部訓導の視線が飛んできた。一瞬、足が止まる。
その一瞬だった。
前列の同期が蹴りの軸足を踏み替えた瞬間、膝がかくんと折れた。小さな悲鳴が武術場の空気を裂いて、同期は片足を抱えてうずくまった。
遅かった。
日下部訓導が大きな体で列を割って駆け寄り、膝を押さえている子供の横にしゃがみ込む。
「動かすな。膝を曲げるな――おい、誰か水を持ってこい」
訓練が止まった。列が崩れ、同期たちが心配そうに集まってくる。日下部訓導が子供の膝を丁寧に触診しながら、低い声で何かを言っている。遠くから見ても、膝が少し腫れ始めていた。
朔は列に立ったまま、自分の手を見下ろした。踏み出しかけた足が、元の位置に戻っている。気づいた。声も出した。でも——届かなかった。
ふと視線を移すと、郁が同じ場所を見つめていた。うつむいて、拳をきつく握り、唇が白くなるほど噛んでいる。前の列の、あの膝を。郁もまた、何度も口を開きかけていたのだろう。鳴弦が屋根の端でわずかに身じろぎしていた。郁の焦りが、小さな鷹にも伝わっていたのだと、今になって分かった。
屋根の端から、鳴弦が音もなく舞い降りた。郁の左肩に止まり、小さな嘴で頬をつつく。こつ、こつ、と。前を見ろ、のいつものしぐさ。だが郁は顔を上げなかった。
日下部訓導が膝を痛めた子を立たせ、助手の上級生に預けた。訓練の再開が告げられる。列が組み直され、子供たちがばらばらと移動する。
朔は列の位置を変えるために歩き出した。移動の流れの中で、郁の横を通りかかった。
足を止めた。
「御影くん」
郁がびくりと顔を上げた。琥珀色の目が、涙ぐんでいるようにも見えた。肩の上の鳴弦がちらりと朔を見て、それから郁に目を戻した。
「あの子の膝、曲がってるの見えてたんじゃないかな」
郁の目が大きくなった。見透かされた驚きが浮かんだ。
「え……う、うん。でも……」
声が尻すぼみに消えていく。言いたいことの半分も口から出てこない。残りの半分が喉の奥で行き場を失い、唇だけが動く。
「僕も声を出したけど、届かなかった」
朔は静かに言った。責める調子はなかった。自分もまた、間に合わなかった側にいる。その事実をそのまま口にした。
「次は、二人で出そう。一人の声じゃ届かなくても、二人ならたぶん届く」
郁はうなずいた。小さく、何度も。だが口は開かなかった。唇が震えて、声の代わりに息だけが漏れた。
朔はそれ以上踏み込まなかった。
「そうか」
呟いて、自分の列に戻った。日下部訓導の号令が再び響いて、蹴りの型が始まる。朔は足を振り上げながら、もう郁のほうは見なかった。
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郁は朔が離れていく背中を見つめていた。
掛け声が武術場を満たしている。その波の中に、郁の声だけが混ざっていなかった。小袖の袖を握りしめた指先が白い。
この人も、声を出していた。あの掃き声の中で。それなのに届かなかったと、悔しそうに言っていた。
ぼくは、声すら出せなかったのに。
鳴弦が肩の上で羽を揺らした。毛並みが郁の首筋を撫でる。いつもの温もり。いつものやわらかさ。でもそれでは足りなかった。
「次は、二人で出そう」。
その言葉が胸に刺さったまま、抜けない。
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午の刻。大広間。
体術のあとの空腹に、葱の汁の匂いが染みた。今日の献立は粟粥と塩漬け蕨と葱の汁。配膳台の大鍋から立ち上る湯気が、少し塩辛い香りを運んでくる。
朔は伍の卓に着いて、薄い粟粥に蕨の塩漬けをのせながら食べていた。
熱い汁で体が温まっていくのを感じながら、朔は無意識に手首を動かしていた。碗を持ったまま、さっきの蹴りの型を手の動きに置き換えている。足首の角度。軸足の位置。内側に折れた膝を見たとき、あの同期は踏み込みの瞬間に踵が浮いていた。踵を押さえつけるように踏めば、膝が内に入る余地がなくなる。碗を持ちながら、朔の意識はまだ武術場にあった。
卓の端に、ふわりと灰銀色の鷹が降り立った。鳴弦だった。
「ご、ごめんなさい。鳴弦が……」
声がして顔を上げると、郁が慌てて駆けてきていた。肩から鳴弦が離れたことに気づいて追いかけてきたのだろう。引率の日に大楠の下で、朔の近くの枝に止まったときと同じだった。鳴弦は再び朔のそばを選んでいた。
「大丈夫。おとなしいね」
朔がそう言うと、鳴弦は卓の端で羽を畳んで落ち着いた。琥珀色の目を細めて、静かに息をしている。朔の横で穏やかに翼を休めている姿は、この場所にずっといたかのように自然だった。
郁は卓の端に立ったまま、自分の伍の卓に戻るべきか迷っていた。よくよく見れば素足に砂がついている。武術場からここまで走ってきたのだ。小さな体が居場所を探すように揺れている。
朔は鳴弦を気にしつつも、粟粥を食べ続けていた。碗を持った手首がまた微かに動いて、足首の角度を考え込む仕草がにじむ。さっきの蹴りの型、膝を痛めた同期のこと、自分の軸足のずれ。無防備に、その思考の続きが所作に漏れていた。
郁はその姿を見ていた。
碗を持ったまま、食べながら考えている横顔。さっきの体術でも、この人はあの子の膝に気づいていた。気づいて、声を出した。それでも届かなかったと、「次は二人で」と言ってくれた。
「すごいな……」
声はほとんど息だった。碗の湯気にまぎれて、大広間の喧騒に溶けた。朔には聞こえなかった。
鳴弦だけが聞いていた。琥珀色の目がちらりと郁のほうを振り返り、それから再び朔の横で翼を休めた。
あの膝の角度に、ぼくは気づいていた。鳴弦の目でも、自分の目でも。なのに声にならなかった。あの掛け声の中で、ぼくの口は何度開きかけて、何度閉じただろう。朔は声を出した。ぼくは唇を動かすことしかできなかった。
でもそれは嫉妬ではなかった。ただ眩しかった。届かなかったことを悔しがりながら、「次は」と言える人が。
鳴弦がふわりと翼を広げた。淡い風が朔の前髪をかすめる。鳴弦は音もなく飛び上がって、郁の左肩に戻った。
「あ、戻ってきた……」
郁が小さく笑った。肩に止まった重みが、いつもの安心感を返してくれる。嘴が郁の耳をつつかない。今は「前を見ろ」ではなく、「もう大丈夫だ」と言っている気がした。
郁は自分の伍の卓へ戻っていった。
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午の二刻。下校。
正門を出ると、春の風が汗を冷ましていった。青い空の端に薄い雲が流れている。教導寮の楠の梢が風に揺れて、葉ずれの音が門の外まで届いてきた。
朔は通学路を歩いていた。配給所のある通りを抜けて、角を曲がり、いつもの道を辿る。春の風がまだ温もりを含んでいて、歩くたびに背中にやわらかな陽の熱が届いた。
前方に、ゆっくり歩く背中が見えた。膝を痛めた同期だった。片足を庇ってぎこちなく歩いている。数歩ごとに立ち止まっては、また歩き出す。日下部訓導に「帰りに浄身院に寄れ」と言われていたが、道はまだ先のようだった。
朔は歩調を緩めて、横に並んだ。
「大丈夫? 足、辛くない?」
同期が顔を上げた。朝の訓練で泥だらけだった顔は拭われていたが、目の下に淡い疲労の影がある。
「平気……でも、ちょっと痛い」
朔はそれ以上何もしなかった。肩を貸すこともなく、急かすこともなく、ただ歩調を合わせて一緒に歩いた。二人分の足音が石畳に重なる。通りの端を抜けて分岐に差しかかると、同期が「こっちだから」と指さした。浄身院のほうへ向かう細い道だ。
「じゃあ、気をつけて」
朔は軽く手を挙げて、分岐で別れた。それだけのことだった。
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少し遅れて正門を出た郁は、別の道からその光景を見ていた。
朔が声をかけた。怪我をした同期に、当たり前のように。ぼくが気づいていたのに、何もできなかった相手に。
歩調を合わせて、分岐で別れる。特別なことではない。ただ気づいて、声に出しただけ。けれど——その「だけ」が、郁にはどうしてもできないのだった。
郁は足を止めた。唇を噛んで、通りの端に立ち尽くした。鳴弦が肩の上で「キィ」と小さく鳴いた。細い声が、郁の耳のすぐ横で震えた。
ぼくが、あのとき声を出していたら。朔と一緒に叫んでいたら、あの子は膝を痛めなかった。
ぼくには見えていた。鳴弦の目でも、ぼくの目でも。確かに見えていたのに。
朔と同期が別れ、それぞれの方向へ歩いていく背中が、午後の光の中で小さくなっていった。郁は動けなかった。
鳴弦の嘴が郁の耳をつついた。こつ、こつ。
前を見ろ。
郁は深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐いた。春の空気が喉を通って、胸の痛みの上を撫でていく。歩き出した。一歩、また一歩。鳴弦の重みを肩に感じながら、帰り道を辿る。
家に着いたとき、陽はまだ高かった。
自分の部屋に入って、褥の上に横になった。鳴弦が枕元に降りて、丸くなる。暖かい羽毛のかたまりが、郁の手のすぐそばにあった。
天井を見つめた。板目の筋が、武術場の柱の木目と似ている気がした。あの場所で、ぼくは何度口を開きかけただろう。何度唇を動かしただろう。
「……また言えなかった」
声が一粒こぼれた。
鳴弦が郁の手の甲に、静かに頭をすり寄せた。小さな頭のやわらかさと温もりが、皮膚を通して伝わってくる。言葉はない。でも——おまえはここにいていい——鳴弦はいつもそう言っている。声にならなくても、ぼくにだけは聞こえる。
郁はその小さな頭を指先で撫でた。灰銀色の羽毛の下に、鳴弦の心臓が速く打っているのが分かった。ぼくが苦しいと、おまえも苦しいんだね。
「次は、二人で出そう」
朔の言葉が、胸の奥で反芻される。
いつか——次は、ぼくも声を出せるだろうか。あの人と一緒に、届く声を出せるようになるのだろうか。
鳴弦が目を閉じた。
郁も目を閉じた。
声にならなかった言葉が、胸の奥で小さく痛んでいた。




