22話 : 壁と呼ばれた子
傾斜地の駆け足訓練は、朝の走り込みとは違った。
武術場の裏手にある丘陵地。教導寮の敷地の端に当たるその場所には、雑木林の際を縫うようにして長い坂道が続いていた。昨夜の雨が地面をぬかるませて、踏み出すたびに草履の裏から泥の冷たさが伝わってくる。春の日差しは柔らかいのに、坂の途中ではもう息が上がっていた。
「止まるな! 足を止めたら転がるぞ!」
日下部訓導の声が丘の上から飛んでくる。左膝に布を巻いた壮年の大きな体が、子供たちの列を見下ろすように立っている。怒鳴るような声量だが、その声には険がなかった。足を止めるなと言いながら、日下部訓導の目は後ろのほうで遅れている子供たちをしっかり見ていた。
朔は坂の中ほどを走っていた。前には数人の背中、後ろにも数人の足音。五歳の脚で泥の坂を駆け上がると、膝の裏の腱が引きつるように熱い。呼吸を整えようとしても、坂が終わる前に次の一歩を踏み出さなければ体が後ろへ戻されてしまう。
前方に善次郎の背中があった。
同期の中で最も大きな体が、黙々と坂を登っていく。泥を踏む足は深く沈むのに、善次郎の歩幅は一歩も乱れなかった。周りの子供たちが滑りそうになりながら上体を前に倒しているのに対して、善次郎だけが背筋をまっすぐに保ったまま登っている。坂の傾斜も泥も、善次郎には関係がないかのようだった。
善次郎の少し前を走っていた男の子が、足を滑らせた。
小柄な子だった。何度か座学棟で見かけた顔だ。泥の上で草履が空を切り、体が横に傾ぐ。そのまま斜面を転がりかけた——
善次郎が止まった。
止まった、というより、善次郎の体がその子の前に入った。自らの足をぱたりと止め、善次郎は半歩だけ横にずれて、転がりかけた子供の体を正面から受け止めた。泥まみれの小さな体が善次郎の胸にぶつかる。善次郎は一歩も退かなかった。足が泥に深く沈みこみ、右の膝がわずかに曲がったが、それだけだった。
ぶつかった衝撃で子供の草履が脱げて、坂の下に転がっていく。善次郎はそれに構わず、子供が自分の足で立ち直るまで動かなかった。
日下部訓導が丘の上から大きな声を飛ばした。
「おい、大丈夫か」
善次郎は上を見上げることもせず、ただ短く答えた。
「……問題ありません」
静かな声が丘の上の訓導まで届いたかは分からない。だが善次郎の揺るぎない姿勢が、何よりの返答になっていた。
転がりそうになった子どもが、おずおずと善次郎の体から離れた。泥で汚れた顔に、恥ずかしさと安堵がないまぜになっている。善次郎はその子を見もしなかった。再び正面に向き直り、また同じ速さで坂を登り始めた。
列に戻った子供たちの中から、小さな声が聞こえた。
「あいつ、壁みたいだな」
笑いはなかった。嘲りでもなかった。ただ、見たままを言葉にしただけの素朴な感嘆だった。
朔は少し離れた後方で、その一部始終を見ていた。
——壁。
心の中で、名乗りの儀で聞いた名前と「あの大きい子」という印象と、今の「壁」という言葉が、ひと筋に結びついた。志場善次郎。壁みたいに大きくて、黙って人の前に立つ子。止まったのは誰かに言われたからではない。考えてからやったのでもない。転がりかけた子がいたから、そこに立った。ただ、それだけだった。
怖いとは思わなかった。
善次郎の背中を見ながら、朔は残りの坂を走った。春風が額の汗を乾かしていく。泥の匂いと草の匂いが混じって、丘の上の空はどこまでも明るかった。
---
昼餉。大広間。
走り込みで使い果たした体に、温かい汁の匂いがしみた。
今日の献立は、芹の汁と粟飯と蕗味噌だった。以前の菜花とは違う香りが大鍋から立ち上っている。芹の、淡い土のような苦みを含んだ匂い。朔は列に並びながら、碗を両手で持った。
配膳台に近づくと、見慣れた顔があった。
配膳の当番ではない——それは朔にも分かった。当番の上級生が大鍋の前を仕切っている横に、もう一人、別の上級生が立っていた。比良坂晶。やや線の細い体つきに、無造作な黒髪。教導寮の最上級生。
晶は当番の子の横で、新入生の碗に汁をよそっていた。手慣れた動きだった。杓子を構える角度も、碗に注ぐ量も、当番の上級生と変わらない流れがあった。誰かに頼まれた様子はなかった。ただ自分からそこに立って、配膳を手伝っている。
朔の番が来た。
「碗、出せ」
晶が短く言った。朔が碗を差し出すと、杓子が弧を描いて汁を注いだ。一瞬、碗の中の芹の量が前の子より多い気がした。気のせいだろうか。
晶が碗を返しながら、軽く笑った。
「先輩の仕事なんだ。大事な役割だろ?」
冗談とも本気ともつかない声だった。朝の光を受けた目は穏やかで、どこか悪戯っぽい。入学式の引率のときにも感じた、年上の余裕のある温かさがあった。
「……ありがとうございます」
朔は小さく頭を下げて、碗を持って席に向かった。
何歩か離れて振り返ると、晶はもう当番に杓子を返し、上級生たちの群れに戻っていくところだった。同級生らしき生徒に肩を叩かれて、くだらなそうに肩をすくめて見せていた。
——あの人は、みんなにああいう感じなのだろうか。
そう思ったが、五歳の朔にとって、それ以上判別する必要のある問いではなかった。碗の中の芹の汁に口をつけた。土の匂いのする苦みと、温かさが喉を下りていった。
粟飯を口に運びながら、視線が大広間を流れた。善次郎が向こうの席で背筋をまっすぐにして食べている。泥まみれだった膝を拭いた痕が、着物の裾にうっすら残っていた。坂の上で子供を受け止めたときに泥がついたのだろう。善次郎はそれを気にする風もなかった。
蕗味噌を箸の先に取って舐めた。苦い。けれど、粟飯に乗せて食べると、苦みの奥に独特の香りが広がった。
---
その日から、朔は気づいていた。
善次郎が昼餉を終えたあと、いつも中庭の同じ場所に立っていることに。
壁際の、日の当たらない隅。武術場の見える位置。善次郎はそこに背を預けて、棒立てをじっと見つめている。
雨の日も、晴れの日も。
朔は昼餉の後に中庭を横切るたびに、善次郎の姿を視界の端で捉えていた。善次郎がいる。いつもの場所に。いつもの姿勢で。何かを待っているようでもなく、何かを避けているようでもない。ただ、そこに立っている。
二日目。朔は横を通った。善次郎の視線は動かなかった。
三日目。朔は少しだけ歩調を落とした。善次郎は微動だにしなかった。
四日目。雨が降っていた。庇の下に立つ善次郎の肩に、雨粒が時折かかっていた。それでも善次郎は同じ場所にいた。朔は傘も庇もない中庭を足早に横切りながら、善次郎の横を通り過ぎた。目が合ったかもしれない。合わなかったかもしれない。
五日目。
朔は横を通りながら、ふと思った。声をかけてみたいと。
けれど、まだやめた。聞きたいことがあるわけでもなかった。善次郎がどうしてあそこに立っているのか、聞けば答えるかもしれないし、答えないかもしれない。どちらにしても、朔が知りたいのは「理由」ではなかった。ただ——毎日同じ場所に立っている善次郎の、あの静かさの正体を、もう少しだけ見ていたかった。
---
六日目の昼餉の後、朔は中庭を横切った。
善次郎はいつもの場所にいた。
壁に背を預けて、武術場のほうを見ている。今日は空が晴れていて、春の陽が中庭の石畳を温めていた。善次郎の立っている壁際だけは日陰で、ひんやりとした空気が漂っている。
朔は善次郎の前を通りかかって——足を止めた。
立ち止まったのは、決めていたからではなかった。体が先に止まった。六日間、毎日横を通り過ぎていたこの場所で、今日はなぜか足が動かなかった。
善次郎が朔のほうを見た。視線だけが動いて、体は動かなかった。深い墨色の目が、朔を静かに捉えている。
「……志場さん」
朔は少し迷ってから、口を開いた。
「いつも、ここに立っていますね」
善次郎は答えなかった。かすかに顎が動いた。頷いた——のだろう。言葉にならない「はい」が、善次郎の沈黙の中にあった。
「お昼を食べた後、すぐ帰らないんですね」
善次郎の視線が武術場のほうへ戻った。棒立てが並ぶ台。日に当たった木刀の表面が鈍く光っている。
「……棒立てを、見ている」
低い声だった。声量は小さいのに、芯がある。言葉は四つしかなかったが、それで充分だった。
朔はその理由を聞かなかった。
なぜ棒立てを見ているのか。なぜ帰らないのか。どちらも、聞けなかったのではなく、聞く必要がないと感じたのだ。善次郎が棒立てを見ている。それが善次郎にとって意味のあることなのだとしたら、そのことだけ分かっていればいい。
「そうですか」
朔は小さくそう言って、歩き出した。
善次郎の横を抜けて、中庭を横切る。背中に善次郎の視線を感じた——ような気がしたが振り返りはしなかった。
善次郎は朔が去っていく背中を見ていた。
小柄な影が石畳を横切り、正門のほうへ歩いていく。
——聞かないのか。
理由を聞かれると思っていた。なぜ棒立てを見ているのか。なぜ一人で立っているのか。入学してからこのかた、何人かの同期が善次郎に話しかけてきたことがあった。「何してるの」「一緒に遊ばない」「ずっとそこにいて退屈じゃないの」。善次郎は全員に同じように黙って、全員がそのうち来なくなった。
あの子——土御門。あいつは、理由を聞かなかった。「そうですか」と言って歩いていった。
肩の力が、少しだけ抜けた。
他の奴らとは違う——その印象だけが、壁際の日陰に静かに残った。
---
帰り道の光は柔らかかった。
坂を下り、角を曲がり、配給所のある通りを抜けていく。午後の陽が道の片側を温めていて、反対側は家々の影になっている。その境目を歩くと、右足が温かくて左足が冷たい。
門をくぐると、庭から小鳥の声がした。
縁側に篝がいた。
「おかえり!」
膝の上に帖を開いて、足を揺らしている。春の陽が縁側の板を温めていて、篝の頬にわずかな血の色が差していた。
朔は縁側に腰を下ろした。
「今日はどうだった?」
篝が帖から顔を上げて、朔のほうに体ごと向き直った。聞きたくてたまらない、という顔をしている。
朔は話した。
坂を走ったこと。泥で滑りそうになったこと。——それから、あの子のことを。
「あの壁みたいに大きい子がね」
「うん」
「坂で、前の子が転びそうになったとき、何も言わないでその子の前に立ったんだ。体で受け止めて、起き上がるまで動かなかった」
篝が目を丸くした。
「壁みたいな子? 怖い子?」
朔は少し考えた。
走り込みの日の善次郎。泥まみれの膝。「問題ない」のひと言。そして今日、中庭の壁際で棒立てを見つめていた横顔。「棒立てを、見ている」とだけ答えた低い声。
怖いとは、思わなかった。
「ううん。……怖くない。なんか、安心する」
「安心する?」
篝が首をかしげた。それからふっと笑顔になった。
「ふーん。お友達になれるといいね」
「……どうだろう。でも、今日初めて話した」
「えっ、話したの? なんて?」
「いつもここに立っていますね、って。そうしたら、棒立てを見ている、って」
篝がくすくす笑った。
「さくにぃの聞き方、なんかおかしい」
「おかしい?」
「普通は、なんでいつもそこにいるの、って聞くでしょ? いつもここに立っていますね、だと、なんか……見てましたって言ってるみたいだよ」
朔は瞬いた。言われてみれば、そうかもしれなかった。
でも善次郎は嫌な顔をしなかった。むしろ——朔が理由を聞かなかったことで、何かが緩んだような気がした。何が、とは上手く言えないけれど。
「善次郎くん、って言うんだ?」
「うん。志場善次郎」
「お友達になれるよ、きっと」
篝は帖を膝の上で閉じて、嬉しそうに頷いた。朔の世界に新しい名前が増えていくことが、篝には見えている。
どこかで鶯が鳴いた。春の午後の光が傾き始めて、縁側の板の温もりがゆるやかに薄れていく。篝の髪の先に、西日のかけらがちらちらと揺れていた。
朔は膝の泥を払って、手を洗いに立った。
六日間、ただ横を通り過ぎていた場所で、今日、足を止めた。それだけのことだ。善次郎との距離が縮まったかどうかは分からない。でも——「志場さん」と呼びかけて、「棒立てを見ている」と返ってきた。それだけが、確かに残ったことだった。
庭の井戸で手を洗う。冷たい水が、泥もろとも今日の疲れを流していった。




