21話 : 粟粥の味
門をくぐるのは、もう四度目だった。
朝の道を歩く。空は薄い群青に明けて、東の稜線に淡い朱が残っている。昨日降った雨のせいか、踏み石がまだ湿っていて、草履の裏に冷たさが伝わった。道端の草が朝露に濡れて、一面に銀の粒を散らしたように光っている。
同じ方角へ向かう子供たちの影が、ぽつぽつと増えてきた。上級生らしい背の高い影がいくつか先を歩いている。朔の横を通り過ぎるとき、一人がちらりと視線を寄こした。名前は知らない。けれど大広間で同じ粟飯を食べたことのある顔だった。朔が小さく頷くと、その子もわずかに頷き返して通り過ぎた。
角を曲がると、教導寮の正門が朝の光の中に浮かんで見えた。
苔むした石の門柱。その向こうに、大楠の枝が朝の空にかぶさるように広がっている。残り花が僅かに枝先にしがみつき、その傍らから若葉が萌え出し始めていた。入学の日にはあれほど目を奪った青い花弁も、いまは数えるほどしか残っていない。木は黙って次の季節に進んでいる。
正門をくぐる。最初の日に感じた胸の張りつめは、もうない。けれど、慣れたとも言い切れない。自分の足でここに来る、という行為のひとつひとつに、まだ薄い緊張が残っている。——あと何十回くぐれば、息をするように通れるのだろう。
中庭の石畳を横切るとき、向こうのほうに大きな影が見えた。
同期で一番背の高い子だった。名前は知っている。志場善次郎。名乗りの儀で聞いた声は短くて静かだった。でも朔の中では、まだその名前より先に「壁みたいに大きい子」という印象のほうが手前にある。
善次郎は一人で歩いていた。朝の光を背に受けて、武術場のほうへまっすぐ向かっている。そのゆっくりとした歩き方には無駄がなかった。急がない。でも遅くない。用のある場所に迷いなく進んでいくだけの足取りだった。
朔は、その背中を一瞬だけ目で追って、座学棟のほうへ足を向けた。
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辰の一刻。東雲の礼。
全校の生徒が中庭に整列した。上級生が前列、新入生が後列。右手に訓導たちが一列に並んでいる。
号令がかかる。
全員が東を向いた。
地面を踏む衣擦れと、朝風が楠の梢を揺らす音と、それだけが広い中庭に満ちた。東の空はいよいよ明るく、稜線の向こうからまっすぐな光が射し始めている。
——礼。
頭を下げる。周囲の動きに合わせて、朔も体を折った。まだ自分の動きに確信がない。隣の上級生は何も見ずに同じ角度で腰を曲げている。あの自然さは、何年もかけて体に染みたものだろう。朔はまだ、周りの呼吸を探りながら動いている。
顔を上げると、朝の光が目に眩しかった。東雲の礼——結界を守る鎮護寮への日々の感謝を、体で示す朝の儀式。入学の日に寮長が述べた言葉の意味は、まだ腹の底までは落ちていない。けれど、全校が同じ方角を向いて黙って頭を下げるこの一瞬の重みは、体のどこかに沁みていた。
朝礼が終わると、伍ごとにまとまって座学棟へ移動する。
第二伍。朔のまとまりだ。自分の伍の子たちの顔は覚え始めているが、名前がまだ全部と結びつかない。小柄な女の子と、いつも袖口を引っ張っている男の子と、もう一人——ああ、あの子の名前は確か昨日座学で呼ばれていた。
列が移動する間に、別の伍の中に蓮の姿が見えた。第三伍の列にいる蓮は、隣の子と何か楽しそうに話していた。朔と目が合うと、蓮はぱっと手を振った。朔は小さく手を上げて返した。
第四伍の列に、凌の後ろ姿もあった。腕を組んで、退屈そうに歩いている。振り返りはしなかった。
知っている名前が、違う列にばらけている。同じ場所にいるのに、一緒ではない。そういう日常が、もう何日か続いていた。
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座学棟の障子を開けると、木の床に朝の光が斜めに落ちていた。
広い板の間に、伍ごとの小机が並んでいる。朔は第二伍の端に座った。硬い床にじかに正座すると、膝のうしろが少しひんやりする。
壇上に、痩身で背の高い男が立った。
水晶を磨いた眼鏡をかけた顔が、教室全体をゆっくりと見渡した。声は柔らかく、けれど教室の隅まで澄んで届く不思議な響きを持っていた。
秦訓導。里史を教える座学主訓導だ。
「五星連珠。——里の始まりの名です」
静かな声が教室に落ちた。
五星連珠。遠い昔、五人の術者がこの地に結界を張り、里を興した。それが里のすべての始まり。朔は家の書庫でその名を見たことがあったが、訓導の口から聞くのは初めてだった。
「五人は、穢れの最も濃い場所を選び、そこに結界を張りました。なぜだと思いますか」
秦訓導の問いかけに、教室が静まった。新入生にはまだ難しい問いだ。
斜め前の席で、蓮が筆を走らせていた。秦訓導の話を聞きながら、帖の端に何かを書き留めている。あの速さで書けるのは、聞いた話をすぐに自分の言葉に置き換えているからだろう。
朔は秦訓導の声に耳を傾けた。五星連珠の五人の名、結界の原理、里の成り立ち。知っていることと知らないことが、訓導の語り口の中で少しずつ繋がっていく。
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巳の三刻。武術場。
座学棟を出ると、空気が変わった。
石畳の広場を抜けて、砂利の敷かれた練習場に出る。上に空が広い。土のにおいが鼻を突いた。昨日の雨で地面がわずかに柔らかくなっていて、草履を脱いで裸足になると、足の裏に湿った砂の冷たさが伝わった。
「走れ!」
訓導の声が武術場に響いた。
日に焼けた肌、がっしりした体格。左膝に常に布を巻いている壮年の男——日下部訓導だ。声は大きく、怒鳴っているように聞こえるが、そこに険はなかった。
子供たちが走り出す。武術場の外周を何度も回る。朝の冷気を破るように、小さな足音と荒い息が重なった。
朔は走った。五歳の脚は長くはなく、何周も回ると息が上がる。汗が首筋を伝い、吸い込む空気が土の匂いを含んでいて、喉の奥がざらついた。
善次郎の背中が、前方にあった。
同期で最も大柄な体が、黙々と走っている。速くはない。けれど遅れもしない。同じ歩幅で、同じ速度で、淡々と周回を重ねていく。善次郎の走りには揺れが少なかった。体の軸がぶれない。五歳でこの体格、そしてこの安定。見ていると、走っているというより、そこにある地面そのものが動いているような印象を受けた。
二人ほど前で、体の小さな子が速度を落としていた。足が重くなっている。隣を走るもう一人も息が荒い。善次郎がその横を通り過ぎるとき、速さは変えなかった。ただ、通りすがりの一瞬だけ、善次郎の視線がその子のほうに向いたのが見えた。
走り込みの後は受け身。
日下部訓導が手本を見せ、子供たちが順番に砂の上に転がる。横転び、前転がり、後ろ受け身。多くの子供が砂にまみれて起き上がり、「痛い」と顔をしかめた。
朔は受け身が巧かった。
体が自然に動く。転がる角度、手のつき方、地面への体重の逃がし方——すべてが、他の子供たちより滑らかだった。ただ、転がるのは痛くない、とだけ思っていた。
砂にまみれた手を払って立ち上がると、武術場の土の匂いが髪にまで染みていた。
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午の刻。昼餉。
大広間に、碗の触れ合う音と、湯気と、子供たちの声が満ちた。
配膳台の前に列が伸びている。大鍋が二つ据えられていて、そこから立つ湯気が天井の梁のあたりまで白く昇っている。列は学年順で、新入生は一番後ろだ。前のほうでは上級生たちがもう碗を受け取って席に着いていた。
朔の番が来る。大鍋の前に立つと、配膳の当番——上級生の女の子だった——が杓子で汁を碗に注いだ。味噌仕立ての汁に、菜花の茎が浮いている。別の子が木の匙で粟飯を碗に盛り、もう一人が蕪の漬物を小皿に載せた。
碗を両手で持って席に向かう。大広間は広いのに、二百人が座ると空間が密になって、人の体温と湯気と食べ物の匂いが混じり合って独特の温かさを持っていた。冬にはもっと身に沁みるのだろう。
第二伍の席に着く。隣は伍の子たち。名前を覚え始めたばかりの顔がいくつか並んでいる。向こうの席に蓮が見えた。蓮はもう食べ始めていて、何か隣の子に話しかけながら笑っている。さらに向こうに善次郎の姿も見えた。
朔は汁を啜った。
味噌の香りが口に広がった。温かかった。菜花は少し苦い。慣れるかと思ったが、まだ苦い。けれど、碗の中にあるものは残さない。残す子など一人もいなかった。
粟飯を口に運ぶ。素朴で、かすかに甘い。贅沢な味ではなかった。けれど走って、転んで、汗をかいた体には、充分に美味かった。
碗の中を見た。
汁の具は菜花が四本と、蕪の切れ端がふたつ。それが二百人に行き渡っているということは——おそらく一人あたりの分量はこの程度に分けられたのだろう。朔はそこまで考えて、次の粟飯を口に運んだ。
同じ伍の端のほうから、声が聞こえた。
「教導寮のお昼のほうが、家より良くない?」
何気ない声だった。新入生の男の子が、隣に座る同期に向けてぼそりと言ったのだ。
隣の子は特に何も返さなかった。少し笑ったような、そうでもないような、そんな曖昧な反応で粟飯を口に運んだだけだった。周囲も特に反応しない。聞こえなかったのか、聞こえたけれど何とも思わなかったのか。おそらく後者だ。特別なことではないのだろう。
朔はその言葉を、耳の端で拾った。
家の食卓を思い出す。基は「もう食べた」と言って席を立つ。瑞がそれを見送るとき、何も言わない。子供たちの碗に、父の分の粟飯が少しだけ多く盛られている。配給は名門であっても同じだと、朔は知っている。
——寮のほうが家より良い。
あの子の家の食卓は、ここよりも少ないのだ。
朔はそれを、感情ではなく、事実として、頭の隅に置いた。蕪の漬物を箸でつまみ、口に入れた。塩の味が舌にしみた。
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昼餉を終えて、子供たちが中庭にばらけていった。下校までのわずかな時間。春の陽が中庭の石畳をほのかに温めていた。
朔が中庭を横切っていたとき、視界の端に、壁に寄りかかった影が映った。
善次郎だった。
中庭の隅。日の当たらない壁際に、善次郎は一人で立っていた。壁に背を預けて、武術場のほうを見ている。その視線の先にあるのは——棒立て。武器掛けだった。木刀や棒が整然と並ぶ台を、善次郎はただ見つめている。
表情は読めなかった。退屈しているようにも、何か思案しているようにも見えない。ただ、そこに立っている。壁の一部のように。
朔はその存在に気づいて、少しだけ歩調を緩めた。善次郎もこちらに気づいているだろう。けれど視線は動かない。声をかけるような空気でもなく、避けるような空気でもなかった。
朔は何も言わず、通り過ぎた。
善次郎が何を見ているのか——武器掛けを見ている理由は分からない。聞きたいとも思ったが、聞くのは違う気がした。ただ、あの大きな背中が毎日同じ場所に立っているのだとしたら、そのうち自然と分かる日が来るかもしれない。
「朔くん!」
声が飛んできた。
振り返ると、蓮が駆け寄ってくるところだった。黒髪のひと結びが走るたびに揺れている。
「朔くん、お昼おいしかった? あたし菜花がちょっと苦手なんだけど、全部食べたよ!」
蓮は息を切らしながら笑った。菜花が苦手だと言いつつ、碗を空にしたことが誇らしいらしい。
「うん。僕は……苦いけど、嫌いじゃなかった」
「えー、朔くん大人だなぁ」
蓮がおかしそうに笑って、それから少し声を落とした。
「ねえ、篝ちゃん元気? 今日帰ったら、教導寮のお話してあげてね。篝ちゃん、きっと聞きたがるでしょ」
篝の名前を出すとき、蓮の声は少しだけ柔らかくなる。従姉として、篝のことをよく知っている声の色だった。
「うん。……蓮は、どの伍?」
「第三伍! 朔くんと違うの、ちょっと残念だったなぁ。でもまあ、ここにいればいつでも会えるでしょ!」
蓮はすぐに明るく切り上げた。寂しがる間もなく、もう次の話題に移ろうとしている。
蓮が走り去っていくとき、善次郎の横を通りかかった。善次郎は壁に寄りかかったまま動かない。蓮はちらりとそちらを見た——ほんの一瞬だけ視線が触れて、すぐに前に戻った。友人のほうへ駆けていく背中が、中庭の向こうに消えていく。
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午の二刻。下校の時間。
正門を出ると、昼の光がまぶしかった。朝に来た道と同じ道なのに、帰り道は違って感じた。体が温まっている。走って、転んで、汗をかいて、温かい汁を啜って——その全部が体の中に残っていて、朝の緊張とは別の、ゆるやかな重さが足に乗っていた。
石畳を歩く。道端の草が、朝の露を乾かして、風に揺れている。同じ方向に帰る子供たちの影がぽつぽつと前を歩いていた。
通りすがりに、総宰司のある方角から、一人の里人が歩いてくるのが見えた。背の低い女の人だった。両手で布に包んだものを抱えている。——配給の包みだろう。大切そうに胸の前に抱えて、静かに歩いていく。その歩き方には急ぎもなく、重荷に耐えている様子もなかった。ただ、持っているものを落とすまいと、しっかりと腕で囲んでいた。
朔はそれをちらりと見て、通り過ぎた。
配給の日だったのだろう。十日に一度、里の各世帯が包みを受け取りに行く日。物心ついた頃から何度も見た光景だった。母が包みを持って帰ってくる。父は仕事で遅い。それが朔の知っている「配給」の形だった。
特に、立ち止まることはなかった。
見慣れた門が見えてきた。今朝出たときと何も変わらない景色が、そこにあった。
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「ただいま」
声をかけると、縁側から返事が聞こえた。
「おかえり!」
篝が縁側に座っていた。膝の上に開いた帖を置いて、朔が帰ってくるのを待っていたらしい。体調のいい日だ。目に力がある。頬にもわずかだが血の色が差している。
朔は縁側に腰を下ろした。草履を脱ぐと、武術場の砂がぱらぱらとこぼれた。
「今日はどうだった?」
篝が身を乗り出すように聞いてくる。好奇心に満ちた瞳が、真っ直ぐに朔を見ていた。
朔は今日あったことを話した。
朝礼のこと。みんなで東を向いて頭を下げること。秦訓導という先生が、里の始まりの話をしてくれたこと。武術場で走ったら汗をたくさんかいたこと。
「菜花、苦かった」
「えー、菜花? 苦いの?」
篝が目を丸くした。篝は菜花を食べたことがない。結界の中で育てられているけれど、篝の食卓に菜花が上ることはなかった。
「うん。でも、蓮は苦手って言いながら全部食べてた」
「蓮ねぇらしいね」
篝がくすくす笑った。聞いたことのある人の名前が出ると、篝の表情がほころぶ。知っている名前が出てくる話は、知らない話より少しだけ近い。
「大きい子がいるの。壁みたいに大きくて、いつも一人で立ってる」
「壁みたいに?」
「うん。……名乗りの儀で志場善次郎って名前は聞いたんだけど、まだ話したことはないんだ」
篝が小さく首をかしげた。
「話してみたら?」
「……いつか。でも、あの人は一人でいるほうが好きなのかもしれない」
朔はそう言ってから、少し考える顔をした。善次郎がどうして壁際に立っているのか、本当のところは分からない。分からないことを勝手に決めるのは違う気がした。
篝が帖を閉じて、膝の上で手を組んだ。
「教導寮のご飯って、どんな味?」
朔は少し考えた。
粟飯。味噌汁。蕪の漬物。家で食べるものと、材料はほとんど同じだ。粟は粟だし、味噌は味噌だ。
でも、何かが違った。
大広間の湯気と、二百人の声と、碗が触れ合う音。汗をかいた体に染みる温かさ。隣に座った、まだ名前を覚えきれていない子の横顔。向こうの卓で笑っている蓮。黙々と食べている善次郎の背筋。
全部が混じって、あの粟飯の味になっていた。
「粟飯だよ。……でも、みんなで食べると、家と少し味が違う」
「どう違うの?」
「……わからない。でも、なんか、おいしかった」
篝がしばらく黙った。
それから、ゆっくりと笑顔になった。好奇心でも、驚きでもない。ただ純粋に、嬉しそうだった。
「よかったね、さくにぃ」
朔はその言葉を受け取って、小さく頷いた。
縁側から見える庭の木が、風に揺れていた。陽が少し傾いて、影が伸びている。膝の上には、まだ武術場の砂が残っていた。




