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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:2幕

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20話 : はじめての名前

 「よし、この組は俺が案内する。——ん、大丈夫だ。ついてこい」


 引率の先輩——比良坂晶が、朔たちの一団の前に立った。


 午後の陽射しが中庭の石畳を温めている。午前中の式の厳粛さが嘘のように、子供たちの肩から強張りが解けていた。新入生は五、六人ずつの小さなまとまりに分けられ、一級童の上級生がそれぞれの先頭に立っている。


 晶は歩き出しながら、ちらりと後ろを振り返った。


 「はぐれるなよ。教導寮は見た目より広い」


 柔らかい声だった。面倒見のよさが口調の端々から滲んでいる。年上なのに気取らない——兄貴分という言葉がそのまま形になったような青年だと朔は思った。


 大広間を出て、まず座学棟の前を通る。


 「明日からここで座学を受ける。——午前だけだ。七級童は昼には帰れるから、安心しろ」


 晶の説明は必要最低限だった。長い解説はしない。「見れば分かる」「すぐ慣れる」のひと言で次に進む。その潔さが、かえって安心感を生んでいた。


 座学棟は板張りの質素な建物で、障子から午後の光がこぼれている。廊下を覗くと、上級生と思しき生徒が二人、横を通りかかる朔たちを見て小さく会釈した。


 次は武術場。


 石畳の広場を通り抜け、砂利の敷かれた練習場が開けた。端に武器掛けが並び、木刀や棒が並んでいる。新入生たちが物珍しげにそちらを見た。


 「今はまだ触らなくていい。三年次——五級童になったら嫌でも握らされる」


 晶がそう言って、わずかに笑った。


 歩きながら、朔はふと視線を感じた。引率の列の間を、向こう側の別のまとまりが通り過ぎていく。その中に、見覚えのある背中があった。


 凌だった。


 別の引率の列の後ろの方を、腕を組みながら歩いている。退屈そうに視線を泳がせていたが——朔の視線に気づくと、一瞬だけこちらを見た。


 片手が小さく上がりかけて、すぐ下りた。


 それだけだった。表情は変わらず、視線もすぐに逸れた。けれど、同じ場所にいるという確かさだけが胸に落ちた。


 朔は小さく息をついて、引率の列に戻った。


---


 五行修練庭の外周を回る道に、焦げた壁があった。


 焔壇と呼ばれる区画の外壁だった。石と土を積んだ壁面の一部が、黒く煤けて変色している。ひび割れた箇所では石が脆く崩れかけ、焦げ跡は一様ではなく、いくつもの痕跡が層を成していた。


 新入生たちが、わずかに足を止めた。


 「……なにあれ」


 誰かの囁きが漏れた。焦げ跡を見て、何人かが無意識に半歩下がっている。ここで術を使った者がいる——その事実が、子供たちにじわりと伝わったのだろう。


 晶は足を止めず、ただ声を落として言った。


 「ん、あれは先輩たちの勲章だ。お前らもそのうち壁を焦がす。——大丈夫だ、怖くない」


 一団の緊張がわずかに和らいだ。晶の声にはそういう力があった。


 朔は壁を見ていた。


 怯えてはいなかった。


 焦げ跡の広がり方に目が向いていた。高い位置に放射状に広がるもの、低い位置に帯のように横たわるもの——力の方向が違う。焦げの深さにも差がある。深い焦げは石の内部まで熱が及び、浅い焦げは表面だけだ。同じ壁でも、当たった力の質が異なるということか。


 朔はそこまで考えてから、前に進もうとした。


 ふと、視線を感じた。


 引率の先頭に戻っていた晶が、歩きながらこちらを見ていた。


 その目に力みはなかった。ただ——少しだけ、面白そうな色が混じっていた。「ほう」と口の中で言ったように見えたが、声にはならなかった。


 晶は何も言わず、前を向いて歩き出した。


 朔もまた、それ以上は考えなかった。


---


 引率の最後に、大楠の下に戻ってきた。


 「ここが教導寮の真ん中だ」


 晶がそう言って、太い根の一本に手を触れた。午後の光が枝の間から漏れて、木漏れ日が地面に青い斑を落としている。午前中に見た花はまだ咲いていた。風が枝を揺らすたびに、花弁が一枚二枚と舞い落ちる。


 新入生たちが根元に腰を下ろし始めた。引率の終わりを告げる晶の言葉で、ようやく張りつめた糸が切れたのだろう。肩を落として息をつく子供たちの間に、午後のゆるやかな空気が流れた。


 朔も太い根の窪みに腰を落ち着けた。背中に樹皮の凹凸が当たる。硬いけれど、不思議と居心地が悪くなかった。懐の苗札がかすかに応えるように温かい。同じ木から生まれたものだ——そう感じた。


 見上げると、枝の隙間から春の空が覗いていた。


 午前中はただ圧倒されていた大楠が、今は違う角度で見える。根の一本一本が地面にどう走っているか。枝がどの方向に重みを支えているか。幹の苔がどちらの面に多いか。——こうして座ってみると、朝よりもずっと、この木が近い。


 そのとき、頭上で枝が揺れた。


 花弁が散ったのではなかった。何かが枝に降りてきた音だった。


 朔が見上げると——小さな鷹が、すぐ上の枝に止まっていた。


 午前中の名乗りの儀で、あの少年の左肩に乗っていた灰銀色の鷹。苗札の授与で、あの子の袖を嘴で咥えて支えた鷹。見間違えようがなかった。


 鷹は穏やかだった。警戒している様子はなく、翼をたたんで枝の上に体を預けている。琥珀色の目が朔を見下ろしていたが、それは監視というよりは、ただそこにいる者を認めている——そんな静かなまなざしだった。


 朔の引率の組にあの少年はいない。午前中、名乗りの儀で「みかげ、かおる」と名乗った少年は別の組の中にいるはずだ。


 なのに、鷹は——少年を離れて、ここに来ている。


 朔はその不思議を飲み込んだ。鷹に向かって静かに手を伸ばしかけたが——踏みとどまった。相手が近づきたければ近づくだろう。そう思って、ただ見上げていた。


 鷹は動かなかった。枝の上で羽を少しだけ膨らませて、そのまま目を細めた。——居心地がいいのだろうか。


 「……ご、ごめんなさい」


 声がした。


 少し離れた場所から、慌てた足音が近づいてくる。朔が目を向けると、小柄な少年が青い顔をしてこちらに駆けてきた。


 ——御影郁だった。


 午前中と同じ、俯きがちの姿。肩を丸めた体。くすんだ茶色の短い髪が少し乱れていて、走ってきたことが分かる。袖の端に刺繍された小さな矢羽根紋が、息のたびに揺れていた。


 郁は朔の近くで足を止めた。肩で息をしながら、枝の上の鷹を見上げた。


 「鳴弦が……勝手に……。すみません、僕の組じゃないのに……」


 声は小さく、途切れがちだった。名乗りの儀のときと同じ、尻すぼみの話し方。けれど今はあの大広間の緊張はなく、ただ「迷惑をかけていないか」という不安がにじんでいた。


 引率の組が違うのに、鷹を追ってここまで来たのだ。


 朔は枝の上の鷹を見上げた。先ほどから動かない灰銀色の影が、穏やかにこちらを見ている。


 「鳴弦」


 朔はその名を口にした。


 郁の目が、わずかに見開かれた。


 「——鳴弦というんだね」


 朔は静かに言った。鷹を見上げたまま。


 「きれいな名前だね」


 風が枝を揺らした。花弁が一枚、鷹の翼の端を掠めて落ちた。


 郁が息を呑んだ。


 ——朔にはそれ以上のことは分からなかった。ただ、少年の体がわずかに強張り、何かをこらえるように俯いたのが見えた。


 「……あ……ありがとう、ございます」


 郁が俯いた。声が震えていた。泣きそうな震えではない——驚きと、何か胸に落ちたものを受け止めようとしている震えだった。


 枝の上で鳴弦が「キィ」と小さく鳴いた。


 朔はそれ以上、何も言わなかった。追わなかった。鳴弦を柔らかく見上げているだけだった。


 少し離れた場所で、晶がその光景を見ていた。腕を組んで根に寄りかかったまま、口元にかすかな表情を浮かべている。けれど何も言わなかった。介入するつもりはないようだった。


 鳴弦は、まだ朔のそばの枝から動かなかった。


---


 引率が終わり、新入生たちは再び大広間に集められた。


 午後の光が高窓から斜めに差し込み、長い座に着いた子供たちの影が板の間に伸びている。壁には歴代初穂の木札が並び、午前中と同じ厳かな空気が漂っていたが、引率を終えた子供たちの体には僅かな緩みがあった。


 壇上に立ったのは、午前中に苗札を授けた壮年の訓導だった。


 「これより、伍の編制を発表する」


 訓導が巻物を広げた。


 伍——座学の席、昼餉の場所、鍛錬の組が同じになる単位だと、引率中に晶がひと言だけ教えてくれていた。


 名前が読み上げられていく。


 「第一伍。志場善次郎——」


 善次郎の名前が最初の伍で呼ばれた。善次郎は無表情だった。座の端で微動だにせず、名前を呼ばれたことにすら頷いていない。隣の席の少年——國見岳という名前が続けて読まれた——が顔を上げたが、善次郎は前を向いたままだった。


 「第二伍。土御門朔——」


 自分の名前が呼ばれた。第二伍。周囲を見る。同じ伍の名前を呼ばれた子供たちの顔は、まだ知らない顔ばかりだった。


 「第三伍。葛葉蓮——」


 蓮の名前が別の伍で呼ばれた。蓮がこちらを見つけて、少し残念そうに肩をすくめた。それから笑って、小さく手を振った。


 「第四伍。久我崎凌——」


 凌もまた別の伍だった。凌は鼻を鳴らしただけだった。


 「第五伍。御影郁——」


 郁の名前が、最後の伍で呼ばれた。


 全員がばらばらだった。


 朔は淡々とそれを受け止めた。


 座学の席順は伍ごと。自分がどの固まりに座ることになるか、朔は大広間を静かに見渡した。蓮のいる第三伍、凌のいる第四伍、そして——今日、鳴弦を追って走ってきた郁のいる第五伍。それぞれが教室の違う場所に座ることになる。


---


 入学初日が終わった。


 正門をくぐると、門の外に保護者の姿がちらほらあった。迎えに来ているのだろう。子供の名前を呼ぶ声、手を振る母親の笑顔。新入生たちが保護者のもとへ駆けていく。


 朔を迎える者はいなかった。


 土御門家は教導寮に近い。一人で帰れる距離だった。


 石畳の道を歩き出す。午後の陽が傾いて、影が長い。道の脇の草むらに、白い小さな花が咲いていた。名前は知らない。篝なら知っているかもしれない。


 朔は懐に手を入れた。苗札の木の端に指先が触れる。


 今日、聞いた名前が頭の中を巡っていた。


 志場善次郎。比良坂晶。御影郁。鳴弦。


 蓮と凌の名前はもう知っていた。善次郎の名前は今日知った。晶と郁と鳴弦の名前は今日覚えた。けれど、まだ知らない名前の方がずっと多い。


 苗札をそっと握りながら歩く。掌の中のその木片が、心なしか温かかった。


 家の門が見えてきた。いつもの道、いつもの景色。門柱の脇の苔と、踏み石の欠けた角。何百回と通った道だった。


 ——でも今日は少しだけ、違って見えた。


---


 翌朝。


 朔は自宅の天井を見つめて目を覚ました。


 見慣れた天井の木目。柱に掛けた小袖。朝の光が障子を白く染める、変わらない景色。


 けれど今日からは——教導寮に通う朝だった。


 静かに起き上がる。隣の部屋からは篝の寝息が聞こえていた。まだ眠っている。障子の向こうに影が揺れる。朔はそっと廊下に出て、起こさないように足音を消して歩いた。


 玄関で草履を履く。門を出ると、空は朝焼けの残照を消しかけた白さだった。東の空が明るい。風はなく、朝露が草の葉先に光っている。


 昨日まで連れられて歩いた道を、今日は一人で歩く。


 足が同じ道を覚えていた。角を曲がり、石畳に出て、低い塀の続く道を東に進む。向こうから同じ方角へ歩く子供の影が、ぽつぽつと見えた。——まだ名前を覚えきれていない顔ばかりだった。けれど昨日の名乗りの儀で、全員の声を聞いた。大きな声も、小さな声も。


 何人かが朔に気づいて、ちらりとこちらを見た。名門の名前は目立つ。「土御門」という響きが、昨日の大広間で確かに耳に届いていたのだろう。朔は視線が合った子供に小さく頷いた。


 教導寮の正門が見えてきた。


 昨日は保護者と一緒にくぐった門。その前で母が襟を直してくれた門。今日は、一人で立っている。


 石造りの門柱は苔むして高い。その向こうに、大楠の枝が朝の空にかぶさるように広がっていた。青い花がまだ咲いている。昨日よりも少しだけ花弁が減った気がするのは、あの風で散ったからだろうか。


 朔は一つ深呼吸をした。


 大楠の匂いがした。苗札の木と同じ、青い匂い。


 正門をくぐった。


 足の裏にあの硬さが返ってくる。——昨日と同じだった。けれど、昨日とは違うことが一つある。


 今日は、自分の足でここに来た。


 中庭に入ると、朝の準備をしている上級生たちの姿がちらほら見えた。その中に——引率で世話になった晶の背中が一瞬だけ見えた気がしたが、すぐに人波に紛れた。


 大楠の根元に、先に来ている七級童が何人か座っていた。朔はその隅に腰を下ろした。


 見上げると、枯れ枝の一本に——灰銀色の影がいた。


 鳴弦だった。


 昨日と同じ枝ではない。もう少し高い位置。けれど、朔のいる根元から見上げれば、あの琥珀色の目がちゃんと見える場所に止まっている。


 朔はほんの少しだけ、口元をゆるめた。


 まだ知らない名前ばかりだった。伍の仲間の名前も、座学で隣に座る子の名前も、これから覚える。何年もかけて、この場所で。


 ——でも、いくつかの名前は、もう知っている。


 懐の中で、苗札がそっと温かかった。


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