1話 : あやかしの海
秋の朝は空が高い。
日の出にはまだ間がある。東の稜線がわずかに茜を帯びはじめた頃、土御門の屋敷の北西の端に小さな影がひとつ、立っていた。
齢四つを数えたばかりの少年——土御門 朔は、膝の高さほどの石垣に両手をのせ、まだ薄暗い里をじっと見下ろしている。裸足のまま渡廊下をすり抜けてきたらしく、草履も履いていない。白い足の裏が朝露に濡れた土を踏んでいたが、冷たさを気にする様子もなかった。
高台からは里が一望できた。
手前に広がる田畑は、稲刈りを終えた後の切り株が朝露を纏って、鈍い銀に光っている。畑では根菜類の収穫がまだ残っているのだろう、早朝から畝に入る人影がちらほらと見えた。その向こうに並ぶ茅葺きの屋根から、朝餉の支度を知らせる炊煙が何本も細く立ち上っている。粟粥を焚く匂いが、冷えた空気の底をかすかに流れてくる。秋の朝は空気が澄んでいるから、煙の筋が一本一本くっきりと、空に向かって伸びていくのが見えた。
遠く、里の中心に建つ教導寮と総宰司の屋根が朝靄の中にどっしりと沈んでいる。井戸端に水を汲みにきた人影がぽつぽつと動き、薪を割る乾いた音がかすかに届いた。
ささやかだが、確かに「生きている」里の朝だった。
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朔の視線が、その息づく光景のさらに奥へ向かう。
里を取り巻くように——正しくは里を覆うように——そこにある、壁。
結界。
透明ではない。分厚い水飴越しに景色を見ているような歪みが、里の外縁をぐるりと囲んでいる。向こう側のすべてがゆらゆらと揺れて、輪郭を失っていた。
朝の光が東から差し始めると、結界の面がぼんやりと色を帯びる。琥珀と黄金のあいだの、温かいような冷たいような曖昧な光。ときおり玉虫色の光の筋が走っては消えた。靄が結界の面に触れると、まるで刃で断ち切られたかのようにそこで途切れている。結界の内側と外側では、空気の色がまるで違うのだ。
里の内側——秋の朝焼け、炊煙の白、紅葉の赤と橙。地味だが温かみのある色彩。
結界の外側——灰色だった。
ただひたすらに灰色。
空も木々も地面も、すべてが色を失って灰色に沈んでいる。結界の歪みを通して見えるその風景は、朔がどんなに目を凝らしても、花の色を見つけることができない。黒く歪んだ樹々が、折れかけた手のように天を掻いている。その合間を、何かが蠢いていた。
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鳴腐蝉の声が聞こえる。
結界越しに届くその音は、ふつうの蝉の声とは似ても似つかない。枯れた木を錆びた鉄で引っ掻くような不快な軋みが、何十、何百と重なり合って結界の向こうから押し寄せてくる。意識を向けなければ聞き流せる程度だが、一度気づくと耳の奥にこびりつく。
拳ほどの大きさの、枯れ木と赤錆を練り合わせたような蟲たちが、結界の外側の木々にびっしりと取りついている。灰色の幹にしがみつき、灰色の翅を震わせている。朝靄が薄れるにつれて、その群れの輪郭がはっきりと見えてくる。
その足元の地面を波のように蠢くのは、毬栗蟲の群れだった。握り拳ほどの大きさの甲虫が列を成し、互いを踏み越え、乗り越え、灰色の土を覆い尽くすほど密集している。結界に近づきすぎたものが壁面に触れると——ぱちり、と小さく弾けて、黒い煙を上げて落ちた。六角形の琥珀色の波紋が、水面に落ちた雫のように結界の面を広がっていく。
もっと奥の、灰色の霧に半ば溶けた闇の中を、影のように走りまわるものがいる。骸狗。腐肉の隙間から白い骨を覗かせた、狼ほどの大きさの獣が三体、四体と群れて地面を駆けていた。首のない胴体で走り、首のあった場所に剥き出しの嗅覚器官をぐるぐると回しながら、何かの匂いを追っている。
——怪異。
足元に届く微かな振動。意識を澄ませれば、遠い雷のような「ず……ん」という低い響きが腹の底に触れてくる。結界はいつも震えていた。外から押し寄せるものを、ひとときの休みもなく跳ね返し続けている。
空が高いことや風が冷たいことと同じように、結界の外に怪異がいることは——朔にとって「そういうもの」だった。
けれど朔は、静かに考えていた。
あの壁一枚がなくなったら、あの蟲も、あの狗も、こちらに来る。
毎朝の炊煙が立つあの屋根の下に。薪を割るあの人の足元に。井戸端で水を汲むあの人影のところに。
そしてその壁を支えているのは、朔の父だった。
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ざわりと、空気が変わった。
北風がひと吹きすると、結界越しに微かな匂いが流れてくる。腐った果実のような、焦がした骨のような——言葉にしがたい濁った匂い。結界が遮り切れない何かが、かすかにこちらに漏れてくる。朔は無意識に呼吸を浅くして、口の中で息を止めた。
結界の遠景に変化が起きていた。
門のあたり——外采門と呼ばれる、里の唯一の出入口が据えられた方角の結界面が、一際強く脈動し始める。琥珀色の光が門の周囲で連鎖するように六角波紋を重ね、門の付近に群がっていた雑妖たちが弾き飛ばされるのが影絵のように見えた。
結界が雑妖を払い退けている。帰還する部隊のために、門前の道を切り拓いているのだ。
低い振動が足元から伝わってくる。結界そのものが力を溜めているような重い響きだった。里の向こうから慌ただしく走る気配が遠く聞こえ、号令の断片が風に乗って切れ切れに届く。鎮護寮の人々が動き始めた。
朔は息を呑んで、壁の向こうを見つめた。
結界面に、細い光の裂け目が走った。
金色の亀裂が革を裂くように結界の表面を左右に広がり、穴が開く。開いた瞬間、外の灰色がどっと吐き出された。灰色の霧のようなものが裂け目から溢れ、里の空気に触れて渦を巻く。遠目にも空気の色が変わるのがわかった。結界の内側の澄んだ秋の朝が、そこだけ淀みの底に沈んだ。
空気を裂く鋭い音がした。続いて腐臭の混じった風が高台にまでかすかに届き、朔は目を細めた。
人影が見えた。
穴をくぐって里に駆け込む人影。三百歩ほど離れたこの高台からではひとりひとりの顔を見分けることはできないが、隊列の乱れは見てとれた。足を引きずる者。担架で運ばれる者。片腕を庇いながら走る者の歪んだ影が、灰色の霧の中から次々とこちら側に飛び込んでくる。
崩れた隊列の最後尾が穴をくぐり抜けた瞬間、「閉門」の号令が遠くから飛んだ。
結界面が弾けるように閉じる。
ばぢっ——と空気が破裂するような衝撃音が高台にまで届いた。琥珀色の光輪が結界面全体に広がり、門口に残された怪異の何かが白い光を上げて一瞬焦げるのが見えた。地面が低く唸り、足の裏に鈍い振動が残る。
門が閉じた後、静寂が降りた。
鎮護寮の人々の低い声だけが風に乗り、それもやがて秋の空気に溶けて消えていく。
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部隊が里の中に入ってくる。
門を離れ、こちらへ向かって歩いてくる帰還者たちの姿が、距離が縮まるにつれて少しずつ鮮明になっていく。
装束がぼろぼろだった。もとは白だった衣がどす黒く汚れ、袖が千切れている者が何人もいた。肩を貸されて歩く者の足元がおぼつかない。地面に座り込んだまま動けない者のそばに、仲間が膝をついている。
朔のいる高台の足元を、一人の男が通り過ぎていった。
——体に、黒い紋様が浮いていた。
首筋から顎にかけて、墨を垂らしたような細い線が枝分かれしながら肌の上を這っている。根が土中に伸びるように、紋様は鎖骨の下へと消えていた。男の手は小刻みに震え、口元は結ばれたまま動かない。その目だけが何かに怯えるようにせわしなく動いていた。
穢れだ。
——黒い模様が出ている人には、近づいてはいけません。
母の声が頭の隅をよぎった。朔は無意識に半歩下がっていた。
男が通り過ぎていく。その背中を見送りながら、朔は静かに考えた。
この人たちは、外に出て——あの灰色の海の中を歩き——そして帰ってきた。
ぼろぼろになって。体に黒い模様を刻まれて。仲間を担架に乗せて。
それでも帰ってきた。里のために。
そしてそれを待ち、門を開け、閉じて、結界を維持し続けているのは——父だ。毎朝あの場所に立ち、体の中の力を削りながら、あの壁を支えている。
朔は高台の石垣から手を離し、無意識に固く握りしめていた拳を開くと、爪のあとが掌にくっきりと残っていた。
——今の僕に、できることは何だろう。
当たり前のように浮かんだ問いだった。恐怖でも義務感でもない。あの人たちがあんなに頑張っているのに、自分だけ高台からただ眺めているなんて、と——そういう素朴な、苛立ちに似た感覚だった。
朔はもう一度だけ、結界の外を見た。
灰色がどこまでも広がっている。空の色も木々の色も地面も灰に沈み、あの向こうに何があるのかはわからない。
わからないけれど。
——いつか、あっちに行くことになるのだろうか。
ただ漠然と、あの灰色の向こうに何があるのか知りたいという、小さな好奇心の種が胸の底に落ちた。それだけだった。
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朔は高台を離れ、母屋の北に回った。
裏庭の井戸に向かう。毎朝の日課だった。台所口を出てすぐの場所に、石積みの釣瓶井戸がある。蓋を外して轆轤に手をかけ、桶を下ろしていく。
縄が滑車を通って落ちていく。軽い桶が闇の底に吸い込まれていく音を聞きながら、朔は縄を送り続けた。
——まだ着かない。
以前はもう少し早く水面に届いた気がする。
縄をさらに繰り出す。両手で少しずつ送り、滑車がきしむ音を聞きながら待つ。ようやく「ぽちゃん」と水面に触れる音がして、桶が水を含んで重くなった。
引き上げる。四歳の腕には桶の水は重い。両手で縄をつかみ、足を踏ん張り、一腕分ずつ手繰り寄せていく。汲み上げた水は冷たく、ほんのりと土の匂いがした。
井筒の縁に桶を引っかけて、一息つく。手のひらが縄の跡で赤くなっていた。
——縄、前よりだいぶ伸ばしたような気がするな。
桶の水を小さな手桶に移し替え、こぼれないように両手で抱えて歩き出す。篝のもとへ。
——篝が起きたとき、すぐに水が飲めるように。
それは朔にとっての「今の自分にできること」のひとつだった。
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渡廊下の板が、裸足の足に冷たかった。
篝の部屋は主殿の西側にある。朔の寝所がある東とは反対側だが、渡廊下を通ればすぐだった。
障子を静かにずらす。
暗い部屋の中に、篝が褥に横たわっていた。薄い掛布が小さな胸の動きに合わせてゆっくりと上下している。健やかな寝息とは言い難い、ときおり浅く詰まるような呼吸の音が、暗がりの中にひそやかに響いていた。
朔は音を立てないように部屋に入り、枕元の小卓に手桶をそっと置いた。日が昇ればこの水も少しだけ温むだろう。篝が目を覚ましたとき、手を伸ばせばすぐ届く場所に。
篝の寝顔を見下ろす。
朔と同じ漆黒の髪が褥に散っている。顔色が白い。白すぎる。唇にわずかな血の気があるのが、かろうじてこの子が生きていると教えてくれる色だった。
朔は何も言わず、ただ少しだけそばにいた。
篝の部屋には、父の基が施した小さな結界がいつも張られている。目には見えないけれど、朔にはかすかにわかった。父の法力の「匂い」のようなものが、この部屋の空気を薄い膜で包んでいる。里の大結界で遮り、さらにこの部屋でもう一重——あの灰色の海から、篝を二重に守るための壁。
それでも篝の体調は、良い日と悪い日がある。秋は比較的穏やかな季節のはずだったが、昨夜は少し咳をしていた。
——今日は、良い日だといいな。
そう思いながら、朔は障子を静かに閉じた。
振り返ると、渡廊下の先に朝の光が差し込んでいた。東の空が茜から白橙に変わりつつある。庭の草花に降りた露が朝日を弾いて、小さな光の粒を撒き散らしていた。
美しい朝だった。
けれどその光の向こうに——結界の向こうに、灰色の海が広がっている。
朔は片方の手で渡廊下の柱に触れ、もう片方の手を握った。まだ爪のあとが残っている掌を。
今の自分にできることは、井戸から水を汲んで篝に届けることだけだ。
でも——いつか。
四歳の少年は、まだ言葉にはできない。けれど胸の底に落ちたあの種が、微かに鳴った。里の外の灰色と、結界の琥珀色と、門をくぐって帰ってきた人たちの黒い紋様と、毎朝あの場所に立っている父の背中と——そのすべてが、小さな胸の中でないまぜになって渦を巻いている。
粟粥の匂いが、台所の方から流れてきた。母の瑞が起き出したのだろう。
朔は柱から手を離し、まっすぐ前を向いた。
秋の日が、ゆっくりと登りはじめていた。




