18話 : 春を待つ
春が来ていた。
朔が目を覚ましたとき、障子の隙間から差し込む光が、冬のそれとは違っていた。薄い金色を帯びた、柔らかな光。空気の匂いも変わっている。土の下で何かがほどけたような、湿った甘さが鼻先をかすめた。
褥を出て廊下に立つと、庭が見えた。
半年前、あの秋の朝もここから庭を眺めた。同じ松の枝、同じ石畳、同じ渡廊下。——けれど、冬の間に何かが変わっている。枯れ草の根元から緑の芽が顔を出し、梅の老木の先端に白い蕾がほころびかけていた。
半年が過ぎた。あの秋には遠かったものが、少しだけ近くなった。手のひらには法力の記憶がある。まだ薄く、まだ不安定だけれど——。
指先に、ちりと、光の残余が走った。
明日から、教導寮に入る。
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朝餉の支度の音が台所から聞こえてきた。粟粥の湯気の匂い。母の足音は軽く、規則正しい。
朔は井戸に向かった。桶を掴み、縄を手繰る。——秋の朝よりも、わずかに長く縄を伸ばさなければならなかった。水面が遠い。半年前にも同じことを感じたはずだが、今は意味が少しだけわかる。水脈が下がっている。里の資源が、少しずつ、すり減っているのだ。
桶が水面を打つ音は、朝の静寂に小さく響いて消えた。
水を汲み上げ、篝の部屋へ向かう。
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篝は起きていた。
褥の上に座り、膝の上に押し花帖を広げている。帖は半年前より厚くなっていた。蓮が来るたびに花がひとつ、またひとつと増えていく。白梅から始まった頁が、今では藤袴、忍冬、竜胆、山茶花と続き、最後の頁には季節の名前で仕切りがつけられていた。篝の字で、丁寧に。
篝が顔を上げた。
「さくにぃ、おはよう」
今日は体調がいい日だった。目に力があり、声が弾んでいる。頬にかすかに色が差して、唇の淡さもいつもよりましに見えた。
朔は水を枕元に置いた。
「おはよう、篝。今日は顔色がいいね」
「うん。今日は朝からちゃんと起きられた。——ねえ、さくにぃ、見て」
篝が押し花帖の最後の頁を開いた。そこには見慣れない黄色い花弁が貼り付けてある。帖に添えられた篝の字を読んだ。
「——山吹」
「そう。蓮ねぇがね、昨日持ってきてくれたの。春のお花だって。匂い嗅いでみて」
朔は差し出された帖に顔を近づけた。押し花だから生花ほどの香りはない。だが乾いた花弁の奥に、かすかに甘い残り香がした。
「春の匂いだね」
「でしょ。——さくにぃ、知ってた? 山吹ってね、お花は綺麗なのに、実がならないんだって。不思議でしょ」
篝は少し首を傾けて笑った。山吹の花弁を指先で撫でながら、「でもね、実がならなくても綺麗なものは綺麗だよね」と呟くように言った。
朔は小さく頷いた。
篝はいつもこうだった。花の名前を教えるとき、ただ名前だけでは終わらない。花の形、色、匂い、実がなるかどうか——そのすべてを知り、自分の言葉にして語る。蓮から受け取った知識を、篝は自分の世界にしっかりと根づかせている。
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庭に出ると、春の光が肌に触れた。
冬の間は乾いて冷たかった空気が、今朝はわずかに湿り気を含んでいた。松の枝に朝露が光り、地面の霜は消えて、代わりに柔らかな土の匂いが立ち上っている。庭の外れ——朔がこの半年、毎日鍛錬を続けてきた場所に目をやると、毎日踏みしめ続けた土の端からも、昨日までは気づかなかった淡い双葉が顔を出している。
朔はそこに立った。
法力を臍下に集める。指先に向けて流す。——もう数え切れないほど繰り返した動作。最初の頃は何も起きなかった。指先で法力が弾けて散るだけだった。それが少しずつ、ほんの少しずつ変わっていった。父に指導を受け、兄の結界を観察し、日々繰り返して——。
光がちらついた。指先の五寸ほど先に、薄い膜が広がる。揺れて——留まった。二拍、三拍。まだ不安定だが、半年前の自分なら想像もできなかった時間だった。
膜がほどけ、光が散った。
朔は手を下ろした。明日からは、もうここでは鍛錬しない。教導寮の庭で、知らない誰かに囲まれて、練習することになる。
足音が聞こえた。
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「——おう」
凌だった。
木刀を肩に担いで、里の道から庭の外れまで真っ直ぐ歩いてくる。袖を捲り上げた衣。濃紺の短い髪。もはや見慣れた姿だった。
「今日も来たの」
「今日は最後だからな」
凌はそれだけ言って、庭の外れに立った。木刀を構え、素振りを始める。空気を裂く鈍い音が、春の柔らかな空気に一定の拍子を刻んだ。
朔も鍛錬を再開した。二人は言葉を交わさなかった。いつものように。松の枝から露が落ちる微かな音と、朔の指先で法力が弾ける音と、凌の木刀が空を裂く音。それだけが庭を満たした。
——半刻ほど経った頃、母屋の方で障子の開く音がした。
「……あ」
篝の声だった。
篝が縁側に出ていた。体調のいい日は庭先まで出ることがある。白い小袖を着た篝が、母に支えられて縁側の端に腰を下ろしていた。膝の上には押し花帖。
篝の視線は、庭の外れにいる二つの影に向けられていた。
「さくにぃ。——あの子だ」
篝が小さく呟いた。毎晩、朔から話を聞いていた「あの子」を、初めて自分の目で見ている。
凌は素振りの途中で手を止めた。縁側の方を見ている。
篝が手を振った。小さく、ゆっくりと。
凌が固まった。
木刀を担いだまま、一瞬だけ視線を逸らし——それから、不器用に片手を持ち上げて、ぎこちなく振り返した。
篝がくすくすと笑った。朔にも聞こえるほどの、弾んだ笑い声だった。
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昼、凌が帰った。
いつものように「明日も来る」は言わなかった。代わりに、門の前で足を止めて振り返り、短く言った。
「——明日だな」
明日は教導寮の入学の日だった。朔も凌も、同じ日に教導寮に入る。
「うん。明日だね」
凌は頷いた。何か言おうとしたように口を開いたが、結局何も言わずに背を向けた。木刀を担いだ影が里の道を遠ざかっていく。
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午後、母屋に戻ると、瑞が衣を広げていた。
「朔、これを着てみなさい」
藍染めの小袖だった。新しく仕立てたものらしく、仕付け糸の跡がまだ残っている。教導寮に着ていくための衣だった。
朔は袖を通した。瑞が丈を合わせながら、裾を折り返し、肩の落ちを確かめ、襟元を整える。その手つきは丁寧で、どこか名残惜しむようにゆっくりだった。
「……大きくなったね、朔」
瑞の声が微かに揺れた。朔は顔を上げた。母の目がわずかに潤んでいた。ただ微笑んでいるのだが、その笑みの底に、何か堪えるものが滲んでいる。
「母上」
「ああ、ほら、じっとしていなさい。袖の長さがまだ合っていないのだから」
瑞はそう言って、また手を動かした。けれど指先が一度だけ止まった。朔の肩に手を置いたまま、少しだけ力が入った。
「——あまり無理はしないでね。教導寮の朝は早いと聞きますから」
それだけ言って、瑞は手を離した。目元を袖口でそっと拭う仕草は、朔に背を向けてからのことだった。
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夕暮れ。
父が帰ってきた。いつもより早い帰宅だった。
基は浄衣を脱いで直垂に着替えると、朔を庭に呼んだ。夕暮れの光が松の枝の間を斜めに射して、庭の石畳に細い影を落としていた。
二人は庭の中央に立った。
基は朔を見下ろした。半年前、「見せてみろ」と声をかけたときの距離と同じだった。あの日、基はここで師となった。朔の未熟な法力の膜を見て、「まだ薄い」と事実だけを告げ、翌日から教え始めた。
今日、基は違うことを言った。
「朔」
「はい、父上」
「明日からは教導寮に入る」
基の声は低く、静かだった。厳しい言葉だが、声の底に温かみがあった。
「これからは自分で学べ」
朔は「はい」と答えた。喉の奥がわずかに詰まった。
基は少しの間、何も言わなかった。夕暮れの風が二人の間を通り過ぎた。松の葉が微かに擦れる音が聞こえた。
それから、基は手を伸ばした。
朔の頭にぽんと手を置いた。
大きくて、重い手だった。あの日——「見せてみろ」と言われた日に、最後に頭に触れてくれたのと同じ手。師になった日に置かれた手が、弟子を送り出す日にも同じように置かれた。
朔は目を閉じた。
父の手の重さが、そのまま父の愛情の重さだと感じた。言葉では言わない人だった。教え方は厳しく、褒め言葉は少なく、期待はいつも沈黙の中に滲んでいた。けれどこの手の温度だけは嘘をつかない。
「——学んでまいります、父上」
基は手を下ろした。一つ頷いただけで、何も言わずに母屋に戻っていった。その背中は大きく、真っ直ぐだった。
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夜が更けた。
朔は自分の部屋で荷物を整えていた。教導寮で必要なものは多くはない。着替えの衣、筆と墨、帖。それだけだった。
障子の向こうで足音が鳴った。
要だった。
兄は朔の部屋の前で立ち止まり、少し間を置いてから障子を開けた。鍛錬着のまま帰宅した姿。汗が乾いた衣の肩に、教導寮の土埃がうっすらと残っている。
「明日から教導寮か」
要は短く言った。部屋に入らず、戸口に立ったまま腕を組んでいる。
「はい、兄上」
朔が答えると、要は少し黙った。天井を見上げ、それから朔を見た。鋭い漆黒の目が、いつもよりほんの少しだけ柔らかかった。
「……困ったら、俺のところに来い」
それだけ言って、要は背を向けた。
「兄上」
朔が呼び止めた。要は振り返らなかったが、足を止めた。
「……ありがとうございます」
要は片手を軽く上げた。それだけが返事だった。廊下を歩く足音は、要らしく堂々としていたが、いつもよりわずかにゆっくりだった。
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すべてが静まった頃、朔は篝の部屋に向かった。
障子をそっと開ける。灯が一つだけ、揺れている。
篝はまだ起きていた。
押し花帖を胸に抱いて、窓の外を見ていた。月光が障子越しに部屋を淡く照らしている。篝の漆黒の長い髪が、灯と月の二つの光を纏って仄かに光っていた。
「篝」
篝が振り向いた。朔を見て、ふっと笑った。
「さくにぃ。起きてたの」
「うん。篝こそ」
「……明日だもん」
篝は押し花帖を膝の上に下ろした。山吹の頁が開いたままになっている。黄色い花弁が、灯の光を受けていっそう鮮やかに見えた。
朔は篝のそばに座った。
しばらく、二人は何も言わなかった。篝の部屋の空気はいつも温かかった。父が張った敷地結界の層が、篝の部屋の周囲で最も分厚くなっている。その結界の内側に、母が焚いた香の残り香と、篝の衣に移った薬草の匂いが混じっている。
朔はこの匂いを覚えておこうと思った。教導寮にいるあいだ、この匂いを思い出せるように。
篝が口を開いた。
「ねぇ、さくにぃ」
「うん」
「さくにぃは、ずっと鍛錬してたよね。毎日毎日、庭の隅で」
「うん」
「お友達もできたよね。凌くん——」
篝は初めてその名前を口にした。今日、庭で自分の目で見た少年の名前を。
「——すごく大きかったね、あの子」
朔は思わず笑った。
「うん。大きいよ。でも、歩幅を合わせてくれるんだ」
篝もくすりと笑った。それから、少し間を置いて——窓の外に目を向けた。
月光が結界の表面を照らしている。遠く、淡い六角格子の模様が空に浮かんでいる。その内側は穏やかな闇で、その外側は——灰色の、底の見えない海。
篝はずっとこの窓から、あの結界を見てきた。朔がそうであったように。
「さくにぃ」
篝の声がわずかに低くなった。灯の明かりに照らされた横顔が、いつもより大人びて見えた。
「篝ね、明日からさくにぃがお昼のあいだいないの、ちょっとだけさみしい」
朔は何も言わなかった。
「でもね——」
篝は朔を見た。漆黒の瞳が、灯の光を映して揺れていた。
「——がんばってね」
たった一言だった。
けれどその一言には、この半年のすべてが注がれていた。
朔は息を吸った。喉の奥にこみ上げてくるものを、ぐっと飲み込んだ。
泣かない。泣きたいわけでもない。ただ——篝の言葉が温かすぎて、胸が詰まった。
「——うん、頑張ってくる」
その言葉が自分の口から出たとき、朔は自分が何を約束したのか理解していた。
篝がにっと笑った。
「約束だよ。——ちゃんと帰ってきてね、さくにぃ」
朔は篝の髪を撫でた。絹のように細くて柔らかい髪。この手触りも覚えておこう、と思った。
「うん。約束する」
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篝が眠ったあと、朔は部屋を出た。
廊下を歩く。足音が静かに響く。渡廊下を抜け、縁側から夜の庭に降りた。
春の夜風が肌を撫でる。朔は屋敷の北西の端——あの高台の石垣まで歩いた。
結界が見えた。月光を受けて淡く光る六角格子の幾何学模様が、里の空を覆っている。その外側には、変わらず灰色の海が広がっている。
朔は石垣に手を置いた。夜の空気はまだ冷たいが、真冬のような容赦のなさはもうなかった。
結界の外を見た。
灰色の海の向こうに何があるのか、まだ知らない。けれど——いつか、あの先に踏み出すことになる。篝のために。里のために。そして、自分自身のために。
明日、その最初の一歩を踏み出す。
朔は石垣から手を離し、歩き出した。
背後で、庭の梅の蕾が、月光の中で静かにほころび始めていた。
春は、もう来ている。
一幕の最終話です。二幕は教導寮編に入ります。
鋭意書き貯め中になるため3/2更新再開、以降二幕完結まで毎日更新予定です。




